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『かわいいじゃん。いいなー!』

『お姉ちゃんの好きそうなやつだと思った』

『通常版と並べて写真撮りたい。飾りたい』

『どうせ食べちゃうのに?』

『これがほんとの二度美味しいってこと』


 くだらない。吹き出しかけて、辛うじて堪える。通路の真ん中でこけたみじめさなど、頭からすっかり消えていた。



 その日から、たびたび綾乃は姉にラインを送るようになった。かわいいもの。面白い鳥。パワハラ上司の愚痴。思い立ったときに思い立ったものを送る。

 退勤間際にスマホをのぞいていると、時折志帆が気遣わしげに声をかけてくることがあった。そのたび、綾乃は作り笑いで誤魔化した。言っても信じてもらえないと思ったし、言えばこの不思議な現象がふっと消えてなくなってしまいそうで怖かった。


 綾乃たちは、控えめに言っても仲の良い姉妹だったと思う。せっかちな綾乃と、のんびりやの姉は、性格だけで言えば真逆で、実家にいたころは喧嘩ばかりしていた。それでも、子どものころから今に至るまで、互いが互いの親友みたいなものだった。


『新刊、あんまりな終わり方じゃない?』


 激務のお供に読み進めていた『黄金の礎』の感想を、読み終えた勢いそのままに、姉に向けて書き殴る。


『あれだけ頑張った人たちがあっけなく死んじゃうの、可哀想じゃんか』


 そうは書いたけれど、綾乃は知っている。姉はこういういやに現実味のある無慈悲な展開が三度の飯より好きなのだ。可哀想だからいいんじゃない、と微笑む顔が目に浮かぶ。

 しかし、返ってきたラインには予想外の文面が踊っていた。


『本当にね。みんな報われて、国づくりするところまで見たかったなあ』


 文字を二度、三度と追いかけながら、綾乃はぐっと眉間に皺を寄せた。

 おかしい。

 姉は、死んだら皆骨だけだと言い放った国民的漫画の主人公に、だから私はあなたを推すのをやめられないのと叫んだ女だ。ままならない現実の中で燃える生き様こそが美しいと主張して憚らない姉は、物語の中でくらい皆が幸せになってほしいと願う綾乃とは対極の考え方を持っている。

 気づけば、指先が勝手に文字を打ち込んでいた。


『お姉ちゃんだよね?』


 送る寸前で、綾乃はぴたりと動きを止めた。打ち込んでは書き直し、迷ったあげくにすべて消す。代わりに打ちこんだのは、『幽霊っていると思う?』という短いラインだった。

 数秒置いて既読がつく。けれど、待てども待てども返事は返ってこなかった。



 リビングでスマホを握りしめたまま、綾乃は眠り込んでしまったらしい。

 らしい、というのは、今見ているものが夢だと自分で分かるからだ。

 綾乃の目の前では今、数年前の医学生だったころの自分と、大学院を卒業したばかりの美月が、三段盛りのアフタヌーンティーセットを食べながら熱論を交わしていた。


(初任給のお祝いだったっけ)


 姉が就職して間もないころ、どこぞのホテルでアフタヌーンティーを奢ってもらったことがあった。姉が松崎と出会う前、姉とふたりで待ち合わせて出掛けるのは妹の特権だったのだ。


『だからさ、幽霊っていうのは脳の錯覚なわけ』


 フォークを掲げながら得意げに姉が言う。むっと顔をしかめた過去の自分が、間髪いれずに言い返していた。


『死にかけた患者さんが幽体離脱したとか三途の川で追い返されたとか、よく聞くよ。いるかもしれないじゃん』

『信じる人を否定はしないよ。でも、数字で観測できないなら、私の中では存在しないのと同じなの』


 気取った顔が憎らしい。それでも、姉のくだらない講釈が、綾乃は嫌いではなかった。


『人間の体って貪欲でね、生きるためには何でもするの。追い詰められた状態だと、早く判断しなきゃでしょ。だから錯覚を許容する』

『錯覚?』

『幽霊の別名。壁のシミが人の顔に見えたり、本当は自分がやったことなのに、見えない誰かの行動だって思いこんだり。夢枕なんていうのもそうじゃない? 精神を保つために都合の良い幻覚を見るのは理にかなってる』


 ああ、と泣きたくなった。冷たく思えるくらい現実的で、夢を見ない。


「ほんと、ロマンがないよね。お姉ちゃんは」


 口を開くと同時に、視点がぐるりと移動する。遠く離れた位置で眺めていたはずの綾乃は、気づけば過去の自分と入れ替わるように姉の向かいに座っていた。いつかそうしたようにスコーンにかぶりつきながら、綾乃は姉に指を突きつける。


「そんな風に意地悪なことばっかり言って、冷たいよ!」

「別に意地悪じゃないでしょ? 要は誰かとの思い出は、つらいときには都合の良い錯覚になって自分を助けてくれるって言ってるんだから」

「幽霊は本人じゃないってことじゃん。夢がないよ」

「分かってないね、アヤ」


 美月がぷっくりとした唇に指を当てる。その仕草が、泣きたくなるほど懐かしかった。


「私はね、幽霊は脳の錯覚だって言ったけど、別に偽物だとは言ってない。そもそも、本物と幻覚の境界なんて、曖昧なものじゃない。人生は歩く影法師、ってシェイクスピアも書いてるもの」


 なにそれ、と聞けば、マクベス、と姉はしたり顔で答える。


「カゲボウシって?」

「地面に映った人型の影のこと。人生が影みたいに儚いものだっていうなら、幽霊なんてもっと儚いものでしょ。幻覚に見るくらいその人に思い入れがあるなら、それはもう本物ってことじゃない?」


 夢のないことは言うくせに、こういう面倒くさい言葉遊びは好きなのだから手に負えない。うんざりしながら綾乃は唇を尖らせた。


「もう、お姉ちゃんはそんなんばっかり。結局、幽霊はいるの? いないの?」

「どうかなあ。アヤはどう思う?」


 にこにこしながら姉は菓子に舌鼓を打っている。その顔をじっと眺めて、綾乃は唇を綻ばせた。


(そう、こういう人だった)


 答えられない問いかけには、卑怯にも問いかけで返してくるのが美月という人間だ。答えに迷って黙り込むなんてこと、綾乃の知る姉ならば絶対にしない。


「お姉ちゃん」

「なあに、アヤ」


 かちゃりと紅茶のカップを置く音がして、それきり辺りは静かになった。真っ白な世界で、綾乃は美月とふたり、小さなテーブルを挟んで向かい合う。


「なんで死んじゃったの」


 姉は苦笑しながら、ひょいと肩をすくめた。


「事故だからって、いきなりひどいよ。あんまりじゃん……」


 声が震えて、息が引きつる。こんなことが言いたかったんじゃないのに、言葉が勝手にこぼれ落ちて止まらない。交通事故で死んだ姉本人こそ、どうしてと言いたかっただろう。結婚式をあげたばかりで、仕事だってこれからだったはずだ。可哀想で、寂しくて、理不尽が憎くて、苦しくて、とても信じたくなかった。


「だって、突然すぎない? 新しく出たゲームとか本の話とか、好きな人の話とか、仕事の話とかさ、もっといっぱい、いっぱい話したいことあったのに。お姉ちゃん、もういないんだもん。ひどいよ……」


 まとまりのない言葉が次から次へと溢れてくる。言葉にして初めて、ぐう、と喉の奥に込み上げてくるほどのやりきれなさが、己のうちで渦巻いていることに気がつく。

 葬式の日、綾乃は泣けなかった。四十九日経ってもまだ泣けない。姉のいない日常を、この期に及んでまだ、現実だと信じたくない。物心ついてからこの方、綾乃が泣けるのは、姉の前だけだったのに、その姉がいないならどうすればいいというのだろう。


「ねえ、なんで。分かんないよぉ、お姉ちゃん……!」


 ぼろぼろとみっともなく泣きじゃくりながら、綾乃は両手に顔を埋める。からかうこともせず、慰めることもせず、ただ落ち着くまで泣かせてくれる姉は、綾乃にとってのシェルターみたいなものだった。

 物言わず綾乃を見つめていた美月は、やがてぽつりと口を開く。


「分からないときは、分かることからやるんだよ」


 姉の声に引き寄せられるように、綾乃は顔を上げる。美月は、呆れたように苦笑して、こめかみを叩いた。


「アヤさあ、私が頼んだこと、忘れちゃったの?」

「頼んだこと……?」


 綾乃が何を忘れているというのだろう。考え始めた途端、目の前のテーブルが消え、元から白かった世界がさらに白くなっていく。

 夢が終わっていく。

 ゆっくりと席を立った姉が、くるりと綾乃に背を向けた。真っ白な世界に飲み込まれていく姉の背に、縋るように綾乃は手を伸ばす。


「お姉ちゃん! ここ、私の夢だよね! これ、夢枕ってやつなの⁉︎」

「さあ。アヤはどう思う?」


 美月は振り返らない。茶目っ気を含んだ声だけを残して、姉の姿は見えなくなった。

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