錯覚幽霊ライン
あかいあとり
1
死んだ姉からラインの返事が来たものだから、藤沢綾乃は驚きすぎて死にそうになった。
別に大した理由があって送ったわけでもない。夜十時、ブラックな研究医業務をようやく終えて白衣を脱いでいる最中、アヤの白衣はカラフルでいいね、と以前姉がぼやいていたことを思い出しただけだ。
製薬会社の研究員だった姉の白衣は白一色。対して綾乃の白衣は水色だ。水色なのに白衣とはこれいかに、とは思うが、手術着だって立派な白衣の仲間である。
『手術着は秋でも暑い』――ピース姿の自撮りを付けて、死後もそのまま放置されている姉のアカウントに送りつけた。かわいい妹の白衣姿に隠世の姉・美月もさぞかし喜び、悔し泣くだろうと思ってのことだ。綾乃なりの、死者を偲ぶ方法だった。
けれどもさすがにこれは予想外。
「あやちゃん、大丈夫? 顔、すごいことになっとるよ」
同期の志保が心配そうに声を掛けてきた。綾乃は慌ててスマホから顔を上げる。
「や、今日ちょっときつくてさ。終わりがけに救急車三台も来たんだよ」
「救急はきついよなあ。研修医は全部の科、ローテーションしなきゃいけんなんて、誰が考えたんやろな。早く終わって欲しいわ」
はんなりとした方言の響きは、疲れた耳に心地良い。用済みとなった白衣を放りながら、綾乃は「本当に」と相槌を打った。
「交通事故で来た患者さん、助からなかったんだよ。運ばれてきたときは意識もあったのに、ご家族が来たときには、もう……」
「神さまやないんだから、どうにもならんことはどうにもならんよ」
励ますように志保が綾乃の背を叩く。
「医者がこんなん言うたらあかんけど、生きるも死ぬも、結局運みたいなものやん? 倒れてすぐに処置してくれる人がいるか、救急車がどれだけ早く着くか、とかさ」
生き死にの境目なんて、曖昧なもんやで。志帆がしみじみと呟く。
「あ、そうや」
ロッカーから何かを取り出した志帆は、言葉に迷いながら、「よかったら」と綾乃に小さな白い花束を差し出した。
「お姉さんの四十九日、明日やろ」
「ああ……」
姉が交通事故で急逝してから、それだけの日にちが経ったらしい。
ちっとも実感が沸かなかった。無機質なだけの数字など、聞きたくもない。
明日の法事は何時からだったかとスマホを見れば、カレンダーより先に時計が視界に飛び込んできた。終電まで残り十分を切っている。
「やばっ」
慌てて鞄をひっつかみ、綾乃はくるりと志保に背を向ける。やるせない数字の話を切り上げるのに、これ以上の口実はない。
「ごめん、電車なくなっちゃう。行かなくちゃ! お花、ありがとね。志保ちゃん」
「うん。おつかれ」
真っ白な廊下を、綾乃は追い立てられるように駆けていく。
電車に揺られ、最寄駅で降り、通い慣れた夜道を歩き、寝るためだけの部屋に戻る。そして歯を磨いて、シャワーを浴び、最低限の睡眠を取って、また次の朝を迎えるのだ。
いつも通りだ。姉のいなくなった世界でも、綾乃の生活は変わらない。
あの奇妙なラインの返事以外は、何も。
『似合うじゃん。アヤのお医者業、授業参観しに行きたいもんだ』
* * *
明くる日の朝、綾乃は田んぼのあぜ道を駆けていた。職場は名古屋、地元は長野の南信地方。高速バスの始発に乗っても、午前十時の法要に間に合うかどうかはぎりぎりだ。
履き慣れないヒールは走りにくくて仕方がない。志帆が持たせてくれた花束と、道中で買った本を一冊ぶら下げて、綾乃は寺へと駆け込んだ。
「――間に合った!」
「間に合ったんだか間に合ってないんだか」
時計を眺めながら、母が呆れた様子でため息をつく。
「十時ぴったりなのが逆にすごいわ。あんた社会人になってもまだギリギリを攻めてるのかって、お姉ちゃんも笑ってるよ」
「どうして分かるの。私の頑張りに感動してるかもしれないじゃん」
「分かるよ、そりゃ。お母さんだもん」
けらけらと笑って、母は綾乃を席へと連れていく。案内された席の隣には、死人のような顔をした義兄――松崎聡が座っていた。
名字を変えたくないという合意のもと、姉と松崎は事実婚をしていた。おかげで姉は藤沢家の墓に入れたけれど、松崎はそれで良かったのだろうか。
鈍く光る薬指の指輪を視界に捉え、綾乃はそっと目を逸らす。姉が亡くなるその日まで、姉の一番近くにいた男は、どんな気持ちで今を生きているのだろう。
(お肉は食べてなさそうだよ、お姉ちゃん)
アヤとあの人はよく似てる、好きなものまで一緒なのね、あの人もいっつもお肉ばっかり食べてるんだよ――。
そう言って笑った姉の声を思い出し、胸がつきりと痛んだ。
法要はさくさく進んでいく。食事会を終えた綾乃は、線香の香りを纏ったまま、持ってきた本と花束とを仏壇に供えつけた。
「……新刊、出てたのか」
ぽつりと聞こえた独り言に振り向けば、松崎がぼんやりと綾乃の手元を眺めていた。
綾乃が買ってきたのは、十五年以上続くシリーズの新刊『黄金の礎』だ。実家にいたころから姉が熱心に追いかけていた話のひとつで、綾乃自身も大好きなファンタジーの物語だった。
「五年ぶりの新刊なので」
何が『なので』なのだろう。自分でも不思議なことを言ってしまったなあと思ったけれど、松崎の相槌は綾乃以上に適当だった。
「ああ、だろうね」
だろうね?
気まずい雰囲気が場を満たす。親が遺品整理についての話を持ってきたのをこれ幸いと、綾乃は松崎に背を向けた。
綾乃がしゃしゃり出る間もなく、話はとんとん拍子で決まっていく。姉を育てたのは両親で、姉と未来を誓ったのは松崎だ。親と伴侶にスポットライトが当たる結婚式と同じで、たかだか妹が出しゃばるところは残されていない。
「本とか服とか、欲しいものは取りに来なさいね。捨てるよりは誰かが使う方がお姉ちゃんも喜ぶでしょうから。聡さんも。遠慮なく言ってくださいね」
「思い出の品は、どうぞ皆さんで。身の回りのものはこちらにありますから、見に来られるようでしたらいつでも連絡してください」
それじゃあ、また!
いつになるかも分からぬ再会を誓って、親族たちは日常へと帰っていった。
呆気がなさすぎて、かえって呆気に取られるほどだ。
帰り道でも、特別なことは何も起こらなかった。バスは相変わらず十分遅れでやってきたし、道中の恵那峡SAはほどほどに混んでいて、名鉄バスセンターのコンビニにはいつも通りファミチキが売っていた。読経なんていうあからさまに死者に捧げるものを聞いたあとだって、綾乃の日々は何も変わりやしないのだ。
強固な日常にせめてもの反抗をしたくて、綾乃は普段は履かないヒールを、わざと鳴らして歩いてみた。
かつかつと響く音に気分を良くしたのも束の間のこと。がくりと視界が傾いて、綾乃は尻から派手に転んでしまう。
(だからヒールは嫌なんだ!)
人の視線を避けるように慌てて綾乃は立ち上がる。
ため息をついたそのとき、ふと黄色いものが視界に飛び込んできた。鎧姿のひよこ菓子。いつから名古屋名物になったのか知らないが、目を惹く造形なのは間違いない。
ぱしゃりとスマホで写真を撮って、綾乃はラインのアプリを開く。ほとんど無意識に、姉とのトーク履歴を開いていた。
『期間限定! 武将ぴよりん』
ノータイムで既読がついた。
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