#6 夜の電車

 VTuber滄海そうかいネモフィラ——通称〝ネモフィラ船長〟


 そして、そのネモフィラ船長の中の人である、野々宮ののみや野々美ののみは、一応俺の知り合いだ。


 出会いは、偶然だった。


 その頃俺は、社会に出て会社に入ったばかりだった。


 会社までは、毎日電車で通勤をしていた。


 思いっきりブラック企業だった。


 入ったばかりでも、しっかり残業をやらされた。


 毎日、家に帰る頃には日が暮れて真っ暗だった。


 こんな毎日があと何十年も続くのか、キツイなと思いながら、人の少ない電車に揺られながら帰路についていた。


 ある時、いつもの様に夜の電車に乗って帰っていた。


 行きの満員電車と比べると、夜は空いていて快適だな。


 そう思いながら、俺はなんとなく、電車の中を見回した。


 そして俺は、ドアの横に女子高生が立っている事に気がついた。


 こんな夜遅くまで、塾か何かだろうか、大変だな。


 女子高生のすぐ横には、競馬新聞を手にしたおじさんが立っている。


 おじさんはつば広帽子を被ってマスク姿で、器用に競馬新聞を広げて読んでいる。


 こんな空いてる電車内で、席もガラガラなのになのに、わざわざ女子高生のすぐ横に立ってる。


 女子高生の父親だろうか。


 俺はスマホに目を映して、ゲームを始めようかと思った。


 だけどその時、何か違和感を感じ、もう一度女子高生に視線を戻した。


 女子高生は俯いていた。


 長い髪で表情がよく見えない。

 

 だけど俺は、その時の女子高生がなにかとても辛そうなん感じに見えた。


 そして、女子高生の隣にいるおじさんの競馬新聞は、何か不自然に広げられている様な気がした。


 おじさんは吊り革に捕まらず、器用に立っている。


 それが何か、殊更気になって、だけど、新聞が邪魔してよく見えない。


 その時だった。


 電車が、急に揺れたのだ。


 軽く揺れただけだったから、倒れたりするわけではない。


 だけど、吊り革に捕まっていないおじさんは、その揺れで軽くバランスを崩した。


 競馬新聞を持っていた左手を、思わず後ろに引いた。


 新聞に隠れていたおじさんの右手が見えてしまった。


 おじさんの手は、女子高生に触れていた。


 おれの背中を、ひんやりと冷たい何かが伝った気がした。


 女子高生がこちらを振り向いた。


 その瞬間、体が勝手に動いていた。


 俺は思わず、その二人の側に近寄った。


「あの……何してるんですか」


 その時の俺は、残業続きで苛々していた。


 ただ、誰でも良いからその苛々をぶつけたかっただけなのかもしれない。


 殴っても良い壁があったら、殴っていたかもしれない。


 実際には、殴ってもいい壁はなかった。


 おじさんにも、暴力は振るっていない。


 それどころか、暴言だって吐いていない。


 実際には、声が震えていた。


 だけど、おじさんは俺の声にハッとした表情をして、俺の方を見た。


 そして、慌てた様子で、隣の車両に走って行った。


 その後すぐ、電車は駅に着いた。


 おじさんは駅に着くなり、慌てて電車を降りて、走って出て行ってしまった。


 駅員さんを呼ぼうかどうしようかと悩んでいるうちに、おじさんの姿は見えなくなってしまった。


 俺は、仕方なしに女子高生の方を見た。


 女子高生もまた、ドアが開くなり、さっと電車を降りていた。


 駅のホームに降りた女子高生は、少し離れた場所まで歩き、立ち止まって、俺の方を見ていた。


 やがて、ドアが閉まって、電車は発進した。


 心臓の鼓動が速くなっているのを感じていた。


 俺は、気持ちを落ち着けようと、再びスマホに目を落として、ゲームを始めた。


 そのあとは、特に何もなかった。


 そうして、その日は帰路についた。


 それから数日が過ぎた。


 俺はそれからも、残業続きだった。


 そうして、その日も帰りは遅くなった。


 あの日から、おじさんは見かけなくなった。


 だから、俺はそれ以上は気にしない事にした。


 女子高生の姿も見なかった。


 女子高生の方は、あの日たまたま居合わせただけだろうけど。


 まあ、無事ならいいさ。


 俺はガラ空きの駅で、ベンチに座って帰りの電車を待っていた。


 イヤホンをして、ずっとスマホのゲームをやっていた。


 だから、気がつくのが遅れた。


 いつの間にか、目の前に、あの女子高生が立っていた。


 今日は制服ではなく、私服だった。


 女子高生はずっと俺の方を見つめていた。


「うおっ」


 思わず、変な声が出てしまった。


 そして、女子高生の隣には、大人の女の人がいた。


 見た事がある人だった。


 その人は、同じ会社の人だ。


 俺は、ゲームを終えて、スマホをスーツのポケットにしまった。


「あ、あの……」


 女子高生は、小さな声で囁く様に言った。


「昨日は、ありがとうございます」


「ああ、うん。大丈夫だった?」


 動揺を抑えながら、そう返すのが精一杯だった。


「はい。大丈夫です」


 ちゃんとお礼を言うなんて、なんて真面目なんだ。


 世の中捨てたもんじゃないな……


「まだ、あのおじさんいる?」


 俺は聞いて良いものか迷ったが、思い切って女子高生に聞いた。


「いえ、あれから見ません」


「そうか、良かったね」


「はい」


 女子高生の隣に立っていた、女の人が口を開いた。

 

「妹を助けてくれて、ありがとうございます」


 女の人は、俺と同じ会社の人だ。


 見覚えがある。


 だが、違う部署の先輩で、会社で話した事は、なかった。


「あの、営業の南洋さんですよね。デザイン部の野々宮です」


「あ、はい。新卒の南洋です……あいさつが遅れまして……」


「妹から聞いて、一度お礼をと思って待っていたんですが……まさか、南洋さんだったなんて……本当にありがとうございました」


「い、いえ、そんな……」


 それが、野々宮さんと初めて交わした会話だった。


 それから俺は、デザイン部に行く度、少しだけど野々宮さんと話をするようになった。


 ある時、野々宮さんが俺のカバンを指差して聞いて来た。


「あの、何でCV38なんですか?」


 俺の鞄には、戦車のミニキーホルダーが付いていた。


 彼女はそれを指差していた。


「ああ、これはパンツァー少女戦記のキャラクターが乗ってる機体なんです」


 ちなみに、CV38は第二次大戦時に活躍した、イタリアの豆戦車と呼ばれる戦車だったりする。


「……アニメです?」


「そう。アニメです」


 何で野々宮さんが戦車のキーホルダーを気にするのか、いや、そもそも何で見ただけで型番がわかったのか……その時は深く考えていなかった。


 それがわかったのは、その夏の同人誌即売会の日だった。

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