第23話
はっと気付くと、俺は空に浮かんでいた。
地上を見下ろすと、先ほどまでいた公園が見える。落下などに関する心配は一つもなかった。逆に視線を上げれば淀んだ空が見える。月はいつしか雲の向こうに隠れていた。
幽体離脱、という奴なのだろうか。
そんなことはどうでもいい。それより眼下の光景の方が気がかりだった。
日和子がたくさんのゾンビ達、そして黒い靄を纏った俺に襲われている。クソ、まんまと乗っ取られてるんじゃねぇぞ、俺。脆いゾンビは日和子の前では敵ではないが、俺相手には苦戦しているらしい。
というより、日和子は俺に攻撃できていないのか。俺の攻撃を避けるばかりで防戦一方だ。これでは倒せるものも倒せるまい。
「馬鹿……」
身体を取り戻さなきゃ。
それが可能なことなのかどうかは知らない。俺の身体が日和子を傷つけるというのなら、殺してでも止めるまでだ。俺は方法もわからないままに身体の方へと意識を向けた。
止めろ。止めろ。
「無駄だ」
耳障りな声がする。
俺は苛立ちを込めて振り返った。そこには黒い靄が見よう見まねで形作ったような歪な人型をとって浮かんでいた。背格好は俺に似ている。もしかしたら、俺の姿をもとにしているのかもしれない。
こいつが俺にとりついたヴィランか。
すなわち、日和子を傷つけている奴とイコールだ。であればこいつをとっちめてしまえば全て解決なわけだ。
「俺の身体を返せ」
「随分な言いようだな。さっきは守ってやったのに」
「ああ?」
思わず喧嘩腰になる。対話は不要だ。俺は拳を握りしめた。
「生身であれだけ吹き飛ばされて五体満足でいれるはずないだろう」
俺は水戸先輩と戦っていたときの話だと思い至った。確かに普通の生身の俺だったなら、骨折くらいしていたに違いない。こいつに救われたという事実に苛立つ。
「貴様の肉体が喪われると不都合があるのでな」
ニタリと影が笑う。身の毛のよだつような邪悪な笑みだった。
「愚かよなぁ、お前もあのヒーローも。滑稽だったぞ。こんなに近くにいるのに対処をしようとしないヒーロー、自分自身が侵食されていることにも気付かないお前。お前達が阿呆なおかげでこの町のほとんどに手を回せたぞ」
「調子に乗るな」
「まあ、今日はちょっと欲を掻きすぎたか……。あのヒーローを殺す絶好のチャンスがめぐってきたと思ったんだが……とはいえ、こんなことならさっさとヤっておいても良かったなァ」
地上に下卑た視線をヴィランが向ける。そこでは俺の手によって日和子が虐げられている。ゾンビ達も弱いとは言っても数の暴力で押し潰す。
俺は本能的に手を伸ばしたが当然届かない。
「まあいいや、お前は引っ込んでろ」
影がこちらに手を伸ばした。喉元が酷く圧迫される。ぐ、と身体が持ち上げられるような感覚。
「ぐ、ぁ……」
苦しい。頭が真っ白になる。はくはくと口が勝手に動く。喉の奥から潰れた蛙のような声が出て、俺はじたばたと手足を動かした。視界が歪む、滲む、糸が、俺を繋ぎ止める糸が切れそうになる。
ここで切らしてはいけない。ここで終わらせてはいけない。
「ひ……よこ……」
呟いた名は、きっとまともな発声は出来ていなかった。それでも、彼女の名を呼ぶ。その名を反芻し続けるかぎり、俺の魂はこの場に繋ぎ止められる。
「くそ、さっさと消えろ!」
消えてたまるか!
砕けるほどに強く奥歯を噛む。お前の目的が世界の支配だというのなら、俺の目的は日和子の幸いだ。どちらが重い動機かなど比べるべくもない。
彼女を守り抜くことが俺の運命だ。生まれも育ちも立場も何も関係がなく、ただ、ここにある、俺の果たすべき天命だ。
「日和子!」
そう叫んだ瞬間だった。
「う、グ、アアァアアアアァアァ」
影がもだえ苦しみ始めた。俺も解放され、大きく息を吸い込むことに成功する。
なぜだか、全身に力が漲っていた。俺は虚空を蹴って踏み出し、影へと飛びかかる。妙な全能間が身体を支配していた。今ならなんだって出来る。こんな奴なんかに負けるはずがない。右腕を振りかぶって、めちゃくちゃに殴りつける。
「ヤメ、ロ、ォ」
拳が影にめり込んだ瞬間だった。
パア、と目の前が光に包まれた。俺は思わず目を瞑る。次の瞬間には俺は地面に立っていた。
目の前には日和子の顔。
「よーくん……?」
目が合った瞬間、日和子の顔に笑顔が浮かんだ。俺はこの身体に戻ってきたのだ。
「日和子」
「よーくんだ。よーくんだ!」
緊張の糸が切れたかのように、日和子がへなへなとその場に座り込んだ。大きな目に涙が浮かぶ。それを隠すこともせずに、日和子がしゃくり上げ始めた。
「よかった、よーくん、あたしもうよーくんに会えないんじゃないかって」
「大丈夫、戻ってきた」
「よかった……本当によかった…………」
ぐずぐずと泣く日和子の頭を撫でる。その手の甲に黒い紋様が残っていた。俺の中のヴィランは完全に消えたわけではない、のか。それでも不安はなかった。乗っ取られる心配など欠片も湧かない。
むしろお前の力を利用してやる。この力があれば世界だって敵に回せる。これから先どんな障害だってこの手で殴り飛ばしてやる。
「おそろいだねぇ」
ぼろぼろと泣きながら笑うものだから、日和子の顔はみっともないものになっていた。俺は彼女の頬を笑いながらつまんだ。
日和子はあちこちに傷を作っていた。痛々しい状況だ、早く治療をしないと。そのためにはまずその道具がないと……。
俺は日和子の手を取って立ち上がらせる。日和子が目元を擦ってにっと笑う。だがウサギみたいに赤い目元が痛ましい。
「あたしね、よーくんのこと信じてたよ」
指を絡め、強く手を握られた。俺もぎゅうと握り返す。
「よーくん、苦しそうな顔してたから、頑張ってるんだって。戻ってこようとしてくれてるんだって、ひよこ、それで……」
「うん」
「それで……」
「うん?」
「なんでもないっ」
日和子はなぜかぷいとそっぽを向くと唇を袖でぬぐった。何かを誤魔化すように彼女が咳払いをする。
「と、とにかく、おなかもすいたしコンビニいこっ?」
「そうだな」
「それから水戸先輩が起きるまで待って……なんとか誤魔化そう」
「なんとかって……」
「それはよーくんの仕事でしょ! 日和子わかんないもん!」
ぷく、と日和子が頬を膨らませる。俺の指で空気を抜かれた日和子は、しばしふてくされたような間抜けな表情を見せたが、すぐに可愛い笑顔になる。
「それから、三人で遊びに行こうねぇ」
「もちろん」
「あ、あと、ね、二人でも……」
こそっと恥ずかしそうに日和子が囁いたので、俺はちょっぴり意地悪な気分になった。
「なんて? 大きな声で言ってくれないと聞こえん」
「ばか」
ふくらはぎを軽く蹴られた。俺はなんとなく久々な感じのするその感触に軽く笑う。今度はどこに連れて行ってやろうかな。
まさしくカップルみたいだなと思いつつ、手を繋いだまま歩き出す俺たちを、拍手の音が引き留めた。
ぱち、ぱち、と乾いて空虚な不吉の音。
「任務達成ご苦労様」
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