第22話
高揚した水戸先輩が大きく手を開いた。日和子が、とん、と軽く地面を蹴る。そこまでは認識できたのに次の瞬間には視認できなくなっていた。
一瞬空気が止み、次の瞬間には強い風が吹く。
その中央には蹴りを繰り出す日和子と、それを耳で受け止めるウサギがいた。その衝撃が空気を振るわせる。砂が巻き上げられ、彼女たちの姿をシルエットとして隠した。だがそれもすぐに空気の揺らぎで霧散する。
日和子が空中で蹴りを繰り出し、ウサギが防ぐ。単純だが、俺みたいな一般人にはついていけない応酬だ。だが、素早い日和子の方が有利なように見える。
「ちょこまかと鬱陶しいわ!」
日和子の一撃を払ったウサギが大きく息を吸った。空中の日和子に向けて全力で息を吐き出す。空中で踏ん張ることの出来ない日和子はバランスを崩し、続く前脚の一撃をもろに食らった。
小さな身体が植え込みに突っ込む。
「日和子っ!」
思わず叫ぶと、日和子が植え込みからぴょこっと起き上がった。頭に葉っぱがついているが、無事そうだ。日和子が頭を振って葉っぱを落とす。
「そんな攻撃、効かないっての。玩具もらえた子供が振り回してるだけみたい」
日和子がにやりと笑って挑発する。さっと水戸先輩の顔色が変わった。一瞬血の気が引き、それから一気に赤くなる。表情からも微笑みが消えた。
先輩がうつむく。長い髪が顔にかかり、その表情が読めなくなる。立ち尽くすウサギも虚ろな目をして妙な威圧感を醸し出す。
やがてゆっくりと彼女が顔を上げた。笑みは戻っていたが、俺からは破れかぶれな物に見えた。
「私は選ばれて力を手にしたの、そんじょそこらの人間とは違うわ」
水戸先輩が軽やかにステップを踏み、身体を回転させる。それに合わせてウサギも操り人形のように踊る。悪夢みたいな光景だ。
「驚いた、ヴィランと融合しているね」
急に背後で声がして、俺は慌てて振り返った。
夜闇に溶け込むようにして、さくらが立っている。彼女は感情のない瞳でじぃっと水戸先輩を見ている。
「融合……?」
「本来人間の魂はヴィランと相容れないからね、ヴィランは元の人間の魂を封じ身体を乗っ取る機会を虎視眈々と狙っている。けれど希に人間とヴィランの目的が一致することがある」
俺は水戸先輩に視線を向けた。異常は良いことだと謳った彼女は、確かに今この世の道理を外れている。
「その場合、肉体は元の個人の自我を保ったまま力を振るうことが可能になるね」
であれば、水戸先輩の言動の全ては彼女が望んだ物に他ならないのだろう。
「どうしてですか!」
俺は思わず叫んでいた。水戸先輩がちらりとこちらを見る。虫を見る時と同じ、興味の欠片も感じられない表情だ。彼女からしてみれば俺は能力者バトルに紛れ込んだモブなのだろう。
「どうしてそんな異常であることにこだわるんだ!」
「こだわってるんじゃない、私はそういう風に産まれたの!」
先輩が駄々をこねる子供のように叫ぶ。何かが琴線に触れたのか、ウサギが無秩序に暴れ始めた。
「私はお父様の血を引いてるの! 普通の女の子のはずがない、みんなは現実を見ろって言うけど、そんなの嘘、嘘よ、嘘だった! 正しいのは私だった! 私の見てる世界こそが真実だったの! 私は特別な存在だった!」
びりびりと耳に響くような叫びは、慟哭と呼んでも差し支えなかった。俺は思わず言葉を失う。彼女の言葉の一つ一つはあまりに感情的で真相を汲み取りづらくも、『呪縛』という単語が頭の中に浮かんだ。
きっと彼女は本人も気付かない段階から少し道を外していただけなのだ。他人と百八十度違ったわけではない、ズレは数度だが十七年は長すぎた。
彼女を救いたいわけじゃない。そんなことを考えるのはもう止めだ。大事な物を見失いたくはない。これは、日和子のためだ。彼女を無為に傷つけないため、俺は少しでもハッピーエンドに近い方を目指す。このまま水戸先輩を無理やり吹っ飛ばして終わりなんて、日和子がヒロインの物語にふさわしくないだろう。
日和子もまた、じっと水戸先輩の方を見ていた。先輩の言葉は届いたのだろうか、少し機嫌が悪そうにも見える。
「日和子さん、貴方が教えてくれたのよ。さあ、もっともっと踊りましょう! つまらない凡人たちなど吹き飛ばして!」
「あー、それは無理でしょ」
日和子がこともなげに言い放った。
「水戸先輩、普通の女の子になりたいくせに」
ぴたり、と先輩の動きが止まる。ゆっくりと彼女が日和子を振り返った。わなわなと身体が震えている。
「なん……ですって……」
「だって先輩、あんなに楽しそうにしてたじゃん」
日和子は怯まずに先輩を真っ直ぐ見た。
「一緒に映画見て、取ってもらったぬいぐるみ抱いてさ、嬉しそうにしてたの。その時の先輩、可愛かったよ。ねぇ、よーくん」
「そ、そうだ」
話を振られた俺は立ち上がり答えた。言葉を絞り出すために胸元をぐっと掴んだ。全身がびっしょりだ。
ふと先輩とで会ってからの短い期間のことが追憶のように思い出された。
一緒にゲームセンターに行ったとき、ぬいぐるみを手に見せたあの笑顔。あれが本物だったのか嘘だったのか今となってはもうわからないけれど。
あちらが真実であればいいと願っている。
「貴女は、普通の女の子みたいに見えたよ」
「うるさい!」
先輩の叫びに呼応するように影が大きく膨らみ、ウサギの身体が一回りも二回りも大きくなった。木々すらも大きく越え、さながら怪獣のようだ。
先輩が大きく腕を振りまわす。それに合わせてウサギも乱雑に暴れ回る。殴られた地面が割れ、石と土くれが散らばる。俺は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「普通の女の子になんて、今更なれるものですか!」
大きく振り上げられた腕が、勢いよく振り下ろされた。単調で大味な攻撃を日和子は軽いステップで躱したが、巨体の一挙手一投足は嵐を産む。風圧に煽られて日和子がバランスを崩す。
ウサギが器用に両腕を使って日和子の身体を持ち上げた。ギリギリと華奢な身体が締め上げられる。
「見て、この圧倒的な力を! 全てを破壊し尽くしてあげる!」
日和子がじたばたと暴れ、ウサギの足首のあたりを蹴ったが効いている様子はない。
「痛くも痒くもないわ! 貴女のようなちっぽけな人間一人では絶対に叶わない!」
日和子が地面にたたきつけられた。華奢な身体が地面にバウンドする。だが、容赦することなくウサギは何度も拳を地面にたたきつける。
頭に血が上る。やめさせることだけに全神経が集中する。とにかく日和子から気を逸らさせないと。
俺は勢いよく駆けだした。先輩がこちらに気付き蠱惑的に微笑む。
「無駄よ」
腕がしなるのも見えずに、衝撃だけが走った。俺はなすすべなく吹き飛ばされる。
痛い。苦しい。でも意識は飛ばさなかった。それどころじゃない。日和子よりも痛くない。これくらいなら耐えられる。痛覚が麻痺しているだけかもしれないけど。
俺はすぐに立ち上がって再度先輩に突撃した。またはじき飛ばされる。もう一度。もう一度。もう一度。
何度だって立ち上がった。俺がこうしているかぎり日和子の方へは攻撃が行かないだろう。
「なんで……」
ぴたりと攻撃の手が止んだ。
「なんで立ち向かってくるのよ……」
「ならなんで、俺を殺さないんですか」
俺は声を絞り出した。
そうだ、水戸先輩が全力を出せば簡単に俺のことなんて潰せるだろうに、俺はまだ立ち上がれている。それも五体満足で。
手加減されている。けれど水戸先輩の表情からはそれが読み取れない。ならば、
「俺のことを殺したくないと思ってるんでしょう」
「馬鹿にしないで、たった一人の人間くらい」
「殺したら帰れなくなるって、もう二度と普通の女の子にはなれないって、わかってるんじゃないですか」
「そんな……そんなこと……」
「今ならまだ、戻れます」
先輩は動揺している。ゆらゆらと視線をさまよわせ、身体を落ち着かず揺らしている。その動揺が伝わっているのか、ウサギも機能不全に陥っている。
不意に、ぼろぼろと黒い雫がウサギの目から落ちた。涙だ。
「無理よ……もう手遅れでしょう」
「そんなことないでしょ」
それは俺の言葉はない。
いつしか距離を詰めていた日和子の言葉だ。水戸先輩ははっと反応するが間に合わない。繰り出されるのは蹴りではない。全身を使ったタックルだ。
あるいはそれは、抱き締めにいく動きにも見えた。両腕を開いて飛び込んだ日和子は、水戸先輩の背に腕を回し地面に倒れ込んだ。
それに合わせてウサギもバランスを崩し、地面に膝をつく。水戸先輩に馬乗りになった日和子は、先輩の胸ぐらを掴んだ。額と額を合わせて日和子がにっこりと笑う。
「あたし達とまた、お買い物しましょうね。先輩」
日和子は笑顔のまま、水戸先輩の額に自分の額を打ち落とす。ごちん、という音がこちらにまで響いてきそうな見事な頭突きだ。
強烈な一撃を食らった水戸先輩は、ふらふらと地面に倒れた。それに合わせて足下から黒い靄となってウサギが自壊していく。
漆黒の竜巻が天に立ち上っていく、夜空に溶け込む。俺はどこか幻想的な光景を見上げていた。だがそれも一瞬のことだ。闇が消え去ったあとには、いつしか雲も割れ、その隙間から大きな月が顔を覗かせた。
月光の下、日和子が立ち上がる。
「終わった、か」
「その言い方縁起悪い」
「そういわれると確かに……えーと、終わったな」
「うんっ」
日和子がゆっくりと俺の方へと歩いてくる。最後の数歩待ちきれずに俺も彼女に歩み寄った。
「よーくん、言いたいこといっぱいあるよ」
「ん……ごめん、なさい」
「ほんとだよ。でも、よかった」
日和子が両腕を広げたので、俺は汲み取って彼女を抱き締めた。えへへ、と日和子がくすぐったそうに笑う。華奢な身体。こんな身体でこれまでずっと頑張ってきたんだよな。
そして、俺を守ってくれた。本当に守るべきは俺のはずなのに、日和子はそれを返してくれた。それが一番嬉しい。
その時だった。
「ん……?」
「よーくん?」
日和子の背後の地面が大きく盛り上がるのが見えた。何が起こっているのか判断するより早く、地面を突き破って醜い姿が現れる。
人だけど、人じゃない。
一言で称するのならば「ゾンビ」だ。今度は人型のゾンビ。
どうしてだ、水戸先輩はもう倒した。怪異は止むはずなのに。
きょとんとしている日和子の背に向けて、ゾンビは鋭い爪を振り上げた。俺は反射的に日和子を立ち位置を反転させ、背中で庇う。襲い来るであろう痛みを覚悟して目を瞑ったが、衝撃はなかった。
俺はおそるおそる首を廻らせ振り返った。ゾンビは俺たちから距離を取って様子を窺っている。その周囲から、更に数匹のゾンビが産まれた。
「な、なに、どうしたの?」
俺の腕の中で視界を封じられた日和子が不安そうな声を上げた。
「日和子、水戸先輩の中のヴィランはいなくなったんだよな」
「……うん」
「他にヴィランがいるのか」
「……知らない」
日和子はふるふると首を振る。その反応で察する。
水戸先輩以外にいるのだ。
日和子が気を遣いうる人だ。常識を揺らがせうる人だ。そしておそらく、恐竜事件の時に近くにいた人だ。
ああ、一人いるじゃないか。
どう転んだって日和子が手を上げられない人物。日和子の好きな人。
こんな状況なのに、嬉しく思う自分に呆れる。そして、それを補ってあまりある、罪悪感と慚愧の念。どうして気付かなかったんだろう。
「日和子」
優しく声をかけると、日和子がおずおずと顔を上げた。彼女の目が潤んでいる。俺は頬を撫でて、彼女を安心させるべくそっと微笑んだ。
それだけで何かを察したのか、日和子はイヤイヤをした。大丈夫だと、そう言い聞かせるように俺は背中を叩く。
「ちがう、ちがうの、よーくん」
「ごめんな、ずっと」
「謝らないで、なんでもないんだから」
「俺だったんだな」
その言葉を口にした瞬間、俺の意識は途切れた。
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