第73話 銀雪に惑う・Ⅳ

「────!! ────!!」


 薄っすらと聞こえてくる声に揺られて、極寒に沈んだ意識が引き上げられていく。


「────ド! エルド!!」

 

 名前を呼ばれている。僕の名前だ。一体誰が…………


「ッ!」


 そこで自分の身に何が起きたのか思い出した。


「ガッ!」

「イテッ」


 急いで身体を起こしたのだが、いきなり起き上がったせいで僕の顔を覗き込んでいた誰かの額とぶつかってしまう。一瞬だけ見えた光景からここが洞穴の入口付近であることを理解した。


「何しとるんじゃ全く……覗き込み過ぎじゃ」

「だって心配だったからよ……」

「だとしてもです。目を覚ましたら至近距離のアレクの顔があるなんて、私は死んでも嫌です」


 痛みと驚きに目を瞬かせながら額を抑えている間に声が三つ聞えてくる。テレジアさんとアレクさん、エミーリアさんの声だ。三人の存在を知覚してから額にあった痛みが安心に書き換えられていった。


「エルド!!」


 不意にリルの声が聞こえた。三人の声が聞こえてきた方と同じ、恐らく三人の後ろにいたと思われる。思わず顔を上げた瞬間に僕の全身が衝撃に覆われて、直後に仄かな温もりに包まれた。


「良かった……生きてて本当に良かった……!」


 背中に回された両腕。右肩に乗せられた顎。間近に聞こえる涙ぐんだ声と鼻腔を擽る柔らかな香り。そして全身を包む安心するような体温。


「私……独りぼっちはもう嫌だよ……」


 ────抱き着かれてる!!?


「あばばばばばばば」


 状況を理解した瞬間に思考がショートする。身体が熱い。オーバーヒートでも起こしているみたいに鼓動が早くなっていく。いいにおいする。


「エ、エルド!?」


 リルが叫んだ。


「どどどどうしようテレジアさん! エルド壊れちゃった!!」

「そうじゃな────もっとぎゅっと抱きしめれば勝手に治るぞ」

「ついでに頭も撫でてやれ」

「あらあら」


 三人がニヤニヤしながら僕らを見つめているのが視界に映った。この万年脳味噌ピンク共め。


「は、はい!」


 元気のよい返事の直後、僕を抱きしめる力が強くなって、リルの白い手が僕の頭に触れる。その手が割れ物でも扱うかのように優しく僕の頭を撫でるたびに頭がふわふわする感覚が起こった。


 だ、ダメだ! ここで腑抜けた顔をしたら絶対からかわれる……! なんとしてでも耐えないと!


「よしよーし……こ、これでいいのかな?」


 あっ、もうだめそう。



「あっ、エルド?」


 テレジアさんたちのアドバイスを実践してみると、抱きしめていたエルドの身体が突然弛緩した。いや、正確には私を抱きしめ返す腕の力だけは残っている。


「あー伸びちまったよこのヘタレ」

「抱きしめられながら頭を撫でられたくらいでこの様か……」


 私の腕の中で茹で上がったエルドに二人はため息を吐く。が、すぐさま私を見てまたニヤニヤとした表情を浮かべた。エミーリアさんはニコニコと笑っていた。


「今なら好き放題出来るぞ」


 アレクさんが茶化したように言った。その瞬間急激に加速した鼓動に私は狼狽えた。


「ななな何を言ってるんですか!」

「皆まで言わせるな♪ 普段は出来ないあんなことやこんなことがあるじゃろう?」

「うぅぅぅ」


 今度は私が茹で上がる番だった。自分が今とんでもなく大胆なことをしている自覚が芽生えて、二人に私がエルドに向けている想いを見抜かれていることが恥ずかしかった。


 穴があったら入りたい。あわよくばエルドと一緒に…………って違う!


「そ、そんなことより! スルトはどうなったんですか!」


 私は一人だけ未だ見つかっていないスルトを盾に選んだ。さりげなくエルドを抱きしめるのを止め、でも名残惜しかったので膝枕で妥協しながら。


「安心してリルちゃん。ギド達のグループがさっき生き埋めになっていたスルトを保護したって連絡してきたの。まだ目覚めていないらしいけど、ひとまず命に別条はないそうよ」

「ホントに!!? 嘘じゃないんだよねエミーリアさん!!」


 希望した通りの思わぬ返事に私が驚くと、エミーリアさんは微笑みながら頷いた。目が覚めた時から私の胸の奥でささやかな跳弾を繰り返していた不安がピタリと止まり、灰燼に融ける雪のように消えていった。


「しかしスレイプニルに出くわすとは災難だったな。ヤバかっただろアレ?」

「はい……気付いた時には背後にいて、私の障壁も壊されちゃって……」


 一瞬の光景がフラッシュバックする。スルトの全力も防ぎきった私の障壁が、まるで薄氷を割るみたいに容易く突破されてしまった。


「………」


 握り拳の隙間からエルド達を守れなかった自分自身に対する怒りと失望が迸って、その裏で私の中にある小さなプライドと自尊心が今回の敗北によって傷つけられたことに気が付いた。


「あの駄馬の霊臓ソウルハートは実体を持たぬ存在や概念すらも凍結させる。スルトの炎を完封できるお主のバリアが壊されたのはそのせいじゃろう」

「霊臓を持つ霊魔……あの馬も…………」


 霊臓を持つ霊魔は時折いる。私はまだ片手で数えられるくらいしか出会ったことが無いけど、それでも今後あの馬を超える存在と出くわすことは未来永劫あり得ないだろうと確信していた。


「違うわリルちゃん。スレイプニルは霊魔じゃないの」


 エミーリアさんが私の言葉に訂正を入れた。


「え」

「ハハハ。スレイプニルはれっきとした生き物だぜ。世にも珍しい霊臓持ちの動物さ。ま、あそこまで行ったらもう土地神として見た方がいいけどな」


 驚愕と同時に納得があった。あの規格外の霊力と威圧感はすさまじかったが、よく考えてみれば一挙手一投足から高貴さや理性がにじみでていた。霊魔だったらそんなことはあり得ない。私達を見つけた瞬間殺意を撒き散らして襲い掛かってくるはずだ。


 それでも理解は出来ない。竜ならまだ分かるが、馬があんな巨体や桁違いな霊力を、ましてや霊臓まで持っているなんて信じがたい。


 元からそういう存在だったのか、ただの馬が土地神に至るほどの力を得たのか。この二つで考えるなら流石に前者だと思うが、それでも常軌を逸していることに変わりはない。


「数千年の時を超えて現代に生きる化石。神代の黄昏ラグナロクの生き残り。大昔にスレイプニルの肉を食らえば神になれるという噂を信じた猛者たちがニヴルヘイムに押し寄せたことがあったが、誰一人その肉を食らうことなくニヴルヘイムの雪になった。音に聞こえた騎士王すらも一回返り討ちしてるマジヤバ馬だ」

「ラムレスを返り討ちにしたって、アレそんなにヤバい存在なんですか!?」


 アレクさんが付け足した情報に私は眩暈を覚えるような強い衝撃を受けた。あのラムレスが返り討ちって、エルドが聞いたらもっと衝撃を受けるだろう。一回と言及しているから再戦はあったのだろう。


「テラーから使徒の権能を与えられた後の戦いでは流石にラムレスが勝利したがな。所詮は獣。いくら神に近かろうとモノホンの神の力には敵わんよ」

「それでも信じがたいですよ! ラムレスが負けただなんておとぎ話のどこにも無かった!」

「お主の言うおとぎ話は『ビフォー・T・ジャスティティア』のことか? あの童話は確かに史実を基にして書かれておるが、真っ赤な嘘も多い」


 テレジアさんが少しうんざりした様子で息を吐いた。その感情の矛先は駄馬と呼んでいたスレイプニルと、私が言った童話にも向けられている。


 『ビフォー・T・ジャスティティア』は著者不明の子供向け童話絵本だ。その内容はかつて存在したとされるギガントという種族の奴隷支配からジャスティティアを解放するべく立ち上がったラムレスがテラーの使徒となって戦う英雄譚。


 今では多くの作家が自身の考察を交えながら同じ『ビフォー・T・ジャスティティア』の名前で物語を再形成した作品が世界中に広まっている。


「霊力学者にして考古学者のハートはその童話について「欺瞞に満ちた唾棄すべきプロパガンダ」と扱き下ろしておったが……正直、我も同意見じゃ」

「むぅ……」


 何もそんなに言うことないのに。ちょっと不快。自分が好きなものを否定されたから。例えテレジアさんだとしても、私の好きを否定されるのは嫌。


「こらこら。この緊急時にギスギスすんのは最悪手だろ」

「こればかりはアレクの言う通りです。そもそも今は歴史考察の時間ではなく訓練の時間、それをお互い忘れてはいませんか?」

「「……」」


 外野二人のもっともな意見に私は従い、気持ちを押し殺して引き下がった。一臂腕テレジアさんは「すまぬ……」と申し訳なさそうに眉を下げて謝った。それに私も慌てて頭を下げた。

 

 ギスギスした空気は消えたが、今度は気まずい空気が流れ始めてしまった。


「よし、もっとポジティブな話しようぜ。ここはひとつ俺が若いころの武勇伝でも────」

「気分が悪くなるので却下です」

「なにもそこまで言わなくても……」


 アレクさんの言葉をエミーリアさんが鋭い一言で切り捨てた。あまりの遠慮の無さに大丈夫かな? と思う反面、二人の様子から察するに相当仲が良いからこそできる芸当なんだろうと感じた。


「……」


 羨ましい。


 エルドとそんな風に言い合いしたことなんて私は一度もない。


 エルドは優しい人。自分の発言で空気が悪くなったり相手が傷付くかもしれないと思ったら何も言わないことを選択してしまう。それはある意味では気遣いだけど、それをされると私はちょっとだけ距離を感じてしまう。


 私はその距離がどうしても耐え難いのに、それをエルドは分かってくれない。


 ふと気になって私はエルドの顔を見た。真っ赤に染まって、でもちょっと幸せそうなエルドの顔。


(ねぇエルド。君の役は"霊魔"なんでしょ?)


 誰にも聞こえないよう、小さな声で言う。訓練開始直後。少し様子がおかしかったエルドが気になって声を掛けた時に確信した。


(気付いてる? エルドって、嘘を吐くときに親指を包むみたいに拳を握る癖があるんだよ?)


 ────どうしたの? ぼーっとしてたけど……

 ────ごめんごめん。ちょっと転送酔いがね


 頭の中でリフレインする言葉と光景。その光景の中でエルドはやはり、右手の親指を包むみたいに握り拳を作っていた。その後のスルトとの会話の中でもずっと親指を握り込んでいた。


「…………」


 でも、言わない。アレクさんたちには悪いけど。


 もう少しだけ、こうしていたい。そんな我儘を自覚しながらエルドの頭を優しく撫でた。


「えへへ……」


 物心ついたときから一緒にいる私の大切な人の顔はなぜこうも愛おしいのだろう。成長して大きくなっても、成長して顔つきが変わっても、私の気持ちは変わらないと断言できる。


 考えていると、不意にスルトの顔が浮上した。想像の中のスルトは『オレもお前らのコトが大好きだァ!』って叫んで、満足したような顔をするとそのままどこかに消えた。


「フフ♪」


 なんでスルトの顔が浮かんだのか知らないけど、あまりにもスルトらしくて笑ってしまう。


 勿論、私はスルトのこともエルドと同じくらい大切な友達だと思っている。


 だけど、ごめんねスルト。私にとってエルドはちょっぴり特別な存在なの。友達として二人のことは心の底から大好きだけど、異性として好きなのは世界でエルドだけだから。


 自意識過剰じゃなければ、きっとエルドも私と同じ気持ちのはず。


 でも、いやだからこそ。この想いを伝えるのはまだちょっと心の準備がいる。


 もしその時が来て、愛し合う関係になったら、私達もアレクさんとエミーリアさんたちみたいに遠慮なく言い合い出来るようになれるかな?

 

「「お熱いですなぁ~」」

「はっ!?」


 テレジアさんとアレクさんがニヤニヤしながら私のことを見ていた。それに気付いた瞬間、我に返った私は心臓の鼓動が一気に加速した。


「こここここれは違くて! えっと、そのぉ…………」

「あらあら♪」


 一番私の羞恥心を刺激したのは、エミーリアさんの楽しそうな笑い声だった。

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