第65話 レプリカの花
「シュプリ君。少しいいかね?」
1991年の4月の夕暮れ。大学の卒業式が終わり、友人たちと一緒に大量の写真を撮り終えて帰ろうとしたとき、妙齢の女教授が僕に声をかけてきた。
「ニナ教授……僕に何か?」
「あぁ。まずは卒業おめでとう。このM大医学部には長くいるが、君のように現役合格からストレートで卒業まで行った学生は久しぶりに見たよ」
「ありがとうございます」
ニナ教授はM大医学部の最古参教授。そして僕が最もお世話になった人間でもある。何かと僕のことを気にかけてくれていた彼女は、厳しくも愛のある指導をすることで医学部の学生から人気がある。
「進路はもう決めたのかい?」
「えぇ。当初の予定通り外科へ進むつもりです」
「やはり臨床医か」
ニナ教授は笑みをたたえたまま頷く。
「なぁシュプリ君。君はM大の、いやドイツの宝だ。その頭脳と腕があれば如何なる手術も成功させられるだろう。私は今まで多くの名医と出会ったことがあるが、それら全員と比較しても君は頭二つ以上飛びぬけている」
「はぁ…………お褒めの言葉はありがたいのですが、その……話が見えません」
「────まだ見ぬ医療の可能性を模索してみないか?」
ニナ教授の提案に僕は少々瞠目する。それは人によっては喉から手が出るほど魅力的で素晴らしい提案なのだ。
「君の頭脳は現代医療のはるか先にいると私は確信している。名立たる難病や未解決の課題も君なら或いは……。そう思わずにはいられないんだ」
ニナ教授は一度言葉を区切り、熱意の籠った目を僕に向けた。
「ここに残って、研究医にならないか?」
僕は────…………。
♢
「シュプリ先生! ありがとうございました!!」
心臓手術を乗り越えて無事退院することが決まった少年が僕に頭を下げる。
「激しい運動はまだ控えろよ」
「はい! 本当にありがとうございました!」
彼は迎えに来た家族に促されて車に乗り込む最中でもう一度頭を下げた。僕は少年を乗せた車が見えなくなるまで見送り、病院の中に戻った。
────昔から人に感謝されるのが好きだった。自分の行いが他者に褒められることが心地よく、誰かから尊敬される感覚が好きなプライドの高い人間だと自覚している。
医者になった理由もそうだ。稼ぎは良いし、人の数倍勉強するだけでなれる。そして何より医者というだけで人から尊敬される。
そんな邪な理由で僕は医者になった。ドイツの中でも名門とされるM大学の医学部を現役で合格することが出来たのも、プライド高くて普通のやり方では満足できなかったからだと思う。入学から卒業まで六年間も継続して主席を取り続けた。
人間関係においても手は抜かなかった。とりあえず人に恨まれる可能性があることには一切かかわらず、優しい人を演じた。
自分のことを優しい人間だとは一度思ったことが無い。しかし六年間も続けていたせいか、いつしか自分が優しい人間であると本気で思い込み始めていた。
それに気が付いたキッカケは1998年の5月中旬。当時ドイツで急激に罹患者が増え始めた
「私、エリヤって言うの! 先生! これからよろしくね!」
「……君の担当医になったシュプリ・クロイツェルトだ。よろしく頼む」
太陽のような笑顔が特徴的な女の子だった。右目の代わりに位置する大きな花も相まって絵画に描かれる存在のように見えた。
「見て先生! あの雲プレッツェルみたいだわ! そういえば病院食でプレッツェルも食べられるのかしら?」
「他の病院は知らないが、この病院では出していないな」
「えー!」
そんな彼女の性格を一言で言い表すなら
(ねぇ、あれ)
(うわ、花女! 気持ち悪っ……)
(きっとノストラダムスが予言してた地球滅亡の予兆だわ。じゃなきゃあんな化物生まれないもの)
(なんて醜いのかしら)
すれ違う患者や看護師たちはその見た目からエリヤのことを忌避していた。
愚かな奴らだ。僕はそう思った。
しかしエリヤは、そいつらを恨んだり憎んだりする様子を見せなかった。
「そうだ先生! 今夜は快晴だから星が一杯見れるんだって! だから少しだけ夜更かしさせて!」
奴らの心無い声は確実にエリヤの耳にも聞こえているはずだが、彼女はそれをまったく気にしていないようだった。
「……消灯時間を過ぎたら静かにな。あと徹夜は絶対にしないように」
「ありがとう!!」
以降同じような場面が何度かあったが、彼女はやはり変わらなかった。
「なぁエリヤ。こんなことを聞くのは間違いなのかもしれないが……君は、自分の運命を呪ったりはしないのか?」
不思議で仕方が無かった。理解できなかった。なぜ侮辱されているのに笑っていられる? 僕なら絶対に我慢できない。表には出さずとも屈辱で怒りを滾らせるだろう。
「呪う?」
「"何で自分がこんな目に合うんだ"とか…………その、すれ違う人間から心の無い侮辱を受けて悔しさや怒りを覚えたりはしないのか…………?」
この問いかけは妙に緊張した。聞きたいような聞きたくないような、相反する気持ちが共存して落ち着かなかったのを今でも覚えている。
「あり得ないわ! だって私は天使になるもの!」
「……天使?」
彼女は首を振って僕の言葉を否定すると、にぱっと笑って見せた。
────僕は多分、眉間に皺を寄せていたかもしれない。
「ママが教えてくれたの。私が人より苦しいことや辛いことを経験する数が多いのは、それは天使様が試練を与えてるからなんだって。 私が天使になれるか、天使様は見極めようとしているのよ!」
「!」
そのとき、僕の中でエリヤに対する不思議な苛立ちが芽生えた。
「誰かの苦痛を私が背負っているの! そのおかげで誰かが苦痛を受けなくても良くなったって考えたら、それってすごく素敵でしょ?」
変なことを言っていた。だが言わんとしていることは理解できた。そしてそれは真に心優しい人間でなければあり得ないものだった。
────気に入らない。
自分こそが誠に優しい人間であると勘違いしていた僕はエリヤが気に入らなかった。優しさに順位などあるはずもないのに、プライドの高さに邪魔されて気付けなかった。
だからといってエリヤを意図的に攻撃することは絶対にしなかった。それだけは超えてはならない一線だし、そもそも医者だ。振り返れば、そこら辺の分別は出来ていたのが幸いだと思う。
────そしてあるとき、エリヤの症状が急激に進行した。
彼女のあちこちから花が咲き始めたのだ。たった数日でエリヤの全身に花畑が形成されていた。特に顔は酷いもので、ほぼ皮膚が見えない状態だった。左目からも花が生えていたため、この時点でエリヤは全盲になった。
加えて花の根は鋭い針のように彼女の肉体の深くまで根付いており、筋肉の動きを著しく阻害する。顔を覆い尽くす花はエリヤの表情筋に群生しており、彼女は笑うことも痛みで顔を歪めることも出来なくなった。
さしもの僕もこればかりは胸が痛んだ。あれほど可憐で美しい笑顔を見せていた少女が、たった数日で笑うことすら出来なくなったのだから。
治療しようにも、花は自らを固定するために伸ばした根っこを臓器や神経と融合させてしまう。そのためいかなる方法を用いても花の除去=内臓や神経への重篤な損傷となってしまう
故にこの段階まで症状が進んだ花化病患者は終末期と診断される。花は抜かずに放置していれば患者に苦痛を与えることはないため、一切の治療は行われない。家族と共に、残された時間を思い残すことのないように過ごしてもらう。
しかしエリヤへ終末期を宣告した後、両親が彼女を迎えに来ることはなかった。
何故か? 分かりきっている。
奴らはエリヤのことを見捨てたのだ。始めからそのつもりだったんだ。
エリヤの入院は奴らが僕へ押し付けるために────…………
「ねぇ先生……パパとママに会いたいわ」
「…………いつか来る。だからもう少しだけ待ってくれ」
こんな残酷が少女の辿る末路でいいのか?
「何で来ないのかしら…………私、頑張ってるのにな……」
こんな救いのない終わりが心優しい人間に与えられるべきなのか?
「先生…………私は、死んだらどこにいっちゃうの? 本当に天使になれる…………?」
そんなわけがない。しかし、どうしようもない。
「…………一人は……怖いよ…………」
そしてエリヤはこの世を去った。
気に入らない人間がいなくなったことに対する喜びなど一切ない。
理不尽に対する怒り。何もしてやれなかったという後悔。己の醜い心に対する恥。そして、エリヤの苦痛を味わう人間を一人でも減らすため、一人でも多く救わなければならないという使命感だった。
人を想う心。
持っていないと思っていた。
しかし、僕の中に微かにあったんだ。
僕は生涯それを大切にした。
花を愛でるように。毎日欠かさず水をやり、僅かな異変にも気付けるよう細心の注意を払い、いつか大きな大輪を咲かせる日を待ち望んだ。
それはジャスティティアに迷いこんだ後も同じく続けていた。それはエリヤのことを忘れないためでもある。
彼女に対する弔い、誰からも見放され、忘れられた彼女のことを。
せめて僕だけは覚えていたかった。
そしてまたこの世界でも医者として活動することを決めた。その後しばらくして、僕は医療教会に僕のことを勧誘しに来たジョセフと出会った。
エリヤの一件から少し人間嫌いになった僕は医療教会に入ることはなかった。しかしジョセフの持つ底抜けの善性にあてられたのか、ジョセフにだけは人間嫌いの性格が暴露することがなかった。なのでプライベートでも会う機会が多くなった。
もしかしたら僕はジョセフにエリヤを重ねて見ていたのかもしれない。性別こそ違えどジョセフが持つ屈託のない善性はまるで同じだ。
極めつけは天使病だ。ジョセフの背中に現れた白い翼をみたとき、ジョセフこそがエリヤの辿り着いた先なんだと理解した。
地球では花化病、ここでは天使病。相変わらず運の悪い奴だ。
しかしジョセフにはミリアという愛してくれる人間がいる。エリヤと違い、孤独ではないことに心の底から安堵した。
故に黒い翼のジョセフをみたとき、僕は絶望した。
なぜこうなる。なぜこうなった?
エリヤもジョセフも、なぜ善人ばかりが味わうべきではない苦痛を味わっている?
それを味わうべきなのは、善人に苦痛を味わわせている全ての人間だろう。
エリヤも死んだ。ジョセフも死んだ。
人の悪意に殺された。
二人に代わって、僕が殺してやりたいと思った。
でもそれをしてしまったら、僕自身が苦痛を味わわせる人間になる。同類になってしまう。
だからと言って人を助けるのはもう御免だ。
意味がない。
僕が水を与え続けた花はレプリカだった。
いくら水を与えたところで、咲く花なんてありはしない。
全て無意味な行為だったんだ。それを続けることになんの意味がある?
何もない。ただ疲れるだけだ。
僕はすっかり疲れてしまった。
もうこれ以上、誰かを助けたいとは思えない。
………………………………でも、一つだけ。
あと一つだけやらなければならないことがある。
「────シュプリさん」
「…………来たか」
記念公園の端のベンチで一人物思いに耽っていた時、カナエ・ヨタカがやって来た。
「誰にも教えずに一人で来た。貴方に指示された通り」
「……そうか」
カナエ君が拳をギュッと握り込んだ。
「どうしてこんな場所にいるの? なんで黙って居なくなったの? テレジアさんがどれだけ心配してると思ってるわけ?」
「分かっている。全てしっかり話す。だからまずは僕の話を聞いて欲しい」
カナエ君の静かだが確かな怒りが言葉と共に伝わって来た。それでも僕がお願いすると、非常に不満げな様子ではあったが、一旦こちらの話に耳を傾ける姿勢を取ってくれた。
「単刀直入に言うぞ」
僕は一度間を置き、強い緊張を自覚しながら口を開いた。
「カナエ君。君は────
彼女は目を見張った。
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