8
「えっ」、俊樹は思わず声を漏らしてしまった。
わたしはそんな汚れた捜査方法なんてとりませんよ、下総は再びリモートの件を話し始める。
「あなたが提出してくださった録画映像ですけど、わたしも拝見いたしました。それを見ていて、一つ気になったことがあるのです」
「背景が怪しいというのですか」
「そうではありませんよ」下総は笑いながら右手を横に二度振った。「背景のことは一旦置いておきましょう。わたしが気になったのは、セミの鳴き声です」
セミの声なんて入っていただろうか。
「オンライン打ち合わせが始まって約七分が経過した時でした。時間にしてはだいたい五秒ほどなんですけど、あなたの後ろでセミの鳴き声がしたんです。分析してもらったところ、種類がクマゼミだと分かりました」
「クマゼミなんてどこにでもいるでしょう」
「それがいないんです」
下総がいった。「わたしの大学時代の友人の一人に、名古屋にある大学でセミの生態を研究している人がいます。彼に直接確認しました。未だ、クマゼミが山形県で生息しているというデータは存在していません」
渡されたひと口ういろのことを思い出した。用事とは、その確認をすることだったのか。
「一方、生息が確認されているのは、本州でいえば関東以西と四国、九州地方だそうです。ちなみに、もちろん、東京都はこの中に含まれています」
頬が引きつり、口元が痙攣し始めた。反論を試みた。だが、言葉という形にならず、獣のような低いうなり声のようになってしまう。全身の至る所から、汗が噴き出した。
「さらに、先ほどの電話がかなり決定打となりました。わたしの唯一の部下であり、最も信頼している刑事が、犯行当日に走行していた山形新幹線の車両、その中にある防犯カメラの映像をすべて調べてくれました。今の時代は、電車の中にも防犯カメラが取りつけられている時代です。推理小説を書く小説家にとっては、トリックが成立しないので痛手でしょうが、我々警察にとってはこれ以上の武器はありません」
「……」
「あなたなら、どこかで油断してくれていると思っていました。上野を午後六時六分に経つ、つばさ153号の中であなたの姿を発見したそうです。上りの便では見つからなかったといってますので、変装でもしていたんでしょうね。しかし、帰りは車内で解いてしまったのではないですか」
頭の中が画用紙のように真っ白になった。負けた。計画は完璧だった。それなのに……。
「たしかに、あなたがここに来るのは、今日で最後となりますね」
「いいましたよね。わたしは嘘をつきません、と」
俊樹は思わず吹き出してしまった。「そうですね」
行きますか、俊樹は立ち上がり、ドアノブに手をかける。
「一つ分からないことがあります」
下総はまだソファに腰かけながら、俊樹に尋ねた。「どうして、南条ゆりさんを殺害したのでしょう。あなたの奥様は、被害者との不倫の事実を知らないはずです。では、南条さんから離婚するようにしつこく求められたのですか。それとも、金銭トラブルができてしまったのでしょうか」
「違いますよ」俊樹は静かにいった。ドアノブから手を離した。「彼女はそんなことする女じゃない」
「では、なぜ?」
「売ったんです、僕が買ってあげた指輪を」
体を細かく震わせながら俊樹は唇を噛んだ。「大学生時代はあんなに欲しがっていたブランドの物だった。そのことを僕は覚えていたから、彼女の誕生日にプレゼントしたんです。でも、それをフリマサイトで……」
転売を知った瞬間、俊樹はゆりの殺害を計画した。金銭的余裕がなかった頃から、いつか、絶対にゆりにプレゼントしようと心に決めていたもの。それを簡単に手放してしまった彼女が、本当に憎かった。
バランスを崩してしまった。両手で床をつく。
ゆりの優しい笑顔を思い出して、思わず涙を漏らしてしまった。
自分の人生の中で一番惚れた人だった。だからこそ、俊樹は許すことができなかった。
下総はソファから立ち上がり、黙ってドアを開ける。肩をうなだれながら、重い足取りで部屋の外に出た俊樹の代わりに、照明のスイッチも消した。
了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます