セミが嗤う季節
醍醐潤
1
涼しい冷房の効いた依頼先の建物を出たその刹那、
八月某日。この日の東京都心では、昨日から引き続き、四十度近い気温を叩きだしていた。
「今日も暑いな」
シャシャシャ……、セミの鳴き声がやかましい。俊樹はため息を漏らすと、そそくさと玄関先に駐車された黒いセダンの後部座席に乗り込んだ。「すまない、少し長引いてしまった」、運転手に詫びる。俊樹とは二つしか年齢が変わらない運転手は、ミラー越しに気にしていない様子を彼に見せ、
「それでは、出発します」
くるまを発進させた。
外堀通りを走行する。窓の外に視線を向けてみると、ワイシャツ姿のサラリーマンたちは小型扇風機を顔にあて、デリバリーサービスの配達員は首に巻いたタオルで汗を拭っていた。そんな人たちを見て、涼しい車内にいることに少し優越感を覚えたが、すぐに車内へと戻した。カバンの中からノートパソコンを取り出した。こうした移動の最中でさえも彼は仕事をする。どんな些細な時間でも無駄にしたくない、学生時代からの習慣だ。
特に渋滞につかまることなく、十五分ほどで新橋にある十階建てのオフィスビルへ帰ってきた。新橋駅から徒歩二分のところにあるこのビルの三階に、俊樹は自身が代表を務める法律事務所を構えている。
二十五歳の時に司法試験に合格してから今年で十五年。司法修習を修了した翌日に、八王子市内にあった賃貸マンションの一室を借りて個人事務所を設立した。一年半後に弁護士法人化し、それから徐々に参画する弁護士や事務員の数が増していき、今では弁護士十五名、事務員二十名を抱えている。さらに、事務所が大きくなるにつれて、俊樹の知名度も上がっていき、ニュースといったテレビ番組にも出演するようにもなった。
年収も一千万を越え、さらに五年前には東京弁護士会の副会長の娘と婚約した。俊樹の人生は、文字通り波にのっている。
エレベーターを降りると、俊樹が戻ったことを知って、受付カウンターから女性事務員が走ってきた。その顔は困った表情をしている。
「どうしたんだ?」
若干息切れしている彼女に訊いた。事務員は顔つきをそのままに、「また、きてます」といった。
俊樹は舌打ちした。同時に憂鬱な気分が煙のようにまとわりつく。ここ最近、俊樹のもとを頻繁に訪ねてくるめんどうな男がいるのだ。どうやら、そいつがきているらしい。
「先生は留守であるとお伝えしたのですが、『帰ってこられるまで待ちますよ』、とかいって、自ら執務室に入ってしまいました……」
「このあいだ、あんなにいったのに……」
俊樹は自分の仕事部屋へと足を急がせた。
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