第6話 目撃
「あ、あの……離して、ください」
ようやく出た声は、情けないほど弱々しいものだった。
未だ私の腰に手を回して、低い位置から抱きついている彼の腕から逃れようと身体を捩る。どうしてこんな事になっているのか判らないけれど、恥ずかしくてとにかく離れたかった。
だって心臓、持たないもの……っ。
まるで名残惜しむかのようにゆっくりと彼の腕が外されて、私はやっと解放され安堵の息をついた。少し距離を取ると、こちらを見つめる彼と視線がぶつかる。
「すみません、少し寝ぼけていたみたいで」
そう言って微笑む彼の顔は、どうしてかとても嬉しそうに見える。焦点の合った瞳が、真っ直ぐ私を見つめていた。顔に上った熱は未だ引いてくれそうにないけれど、その顔を見てられなくて私は俯いた。
「そ、そうですか……」
雰囲気が違って見えるのは、寝起きだからだろうか。なんだか、いつもと違う。
無防備、とでも言うんだろうか。
普段この人に感じていた苦手意識が、今はどこかへ消えてしまうほど。
爆発するんじゃないかと思うほど早くなっている鼓動を落ち着かせたくて、そそくさと席へと戻った。視線が向けられたままなのが気になったけれど、振り向くわけにもいかないので(というか、できない)背もたれにかけてあったエプロンを掴み取り、急いでそれを身につける。
ちょっと早いけど、休憩を切り上げてしまおう。
そう考えていると、くすりと笑ったような気配で空気が揺れた。
反応してパッと顔を上げれば、笑った張本人であろう工藤店長が、笑顔のまま「これ」とずり落ちていたひざ掛けを片手で持ち上げていた。
「もう暫く、お借りしていてもいいですか?」
そう言うと、こちらの返事を聞く前に再び自分の肩にそれを羽織って見せる。
ベージュ地にブラウンチェックのひざ掛けは、柔らかな雰囲気の彼によく似合っていて。
「あ、はい、どうぞ……」
その姿に目を奪われたまま応えると、彼はまたとても嬉しそうに波顔した。
◇◆◇
夕方。
交代するスタッフに挨拶をしてから裏口を出ると、そこから少し離れた場所に二人の人物を見つけて立ち止まった。
現在夕方5時。まだ空は十分明るい為、そこに居るのが誰なのかまでよく見える。
一人は今日の朝明らかに具合の悪そうだった工藤店長。そしてもう一人はスーツ姿の見知らぬ男性だった。離れた場所からでも、二人が話しこんでいる様な雰囲気が伝わって、足を踏み出すのを躊躇する。
丁度駐輪場の手前で話しこんでいるので、私が通勤に使っている自転車を取りに行くには目の前を通らなければいけない。けれど、なんだかそう出来る雰囲気ではい、不穏な空気がそこにはあった。
工藤店長が浮かべた苦い表情が、それを伝えてくる。相対しているスーツ姿の男性も、表情は厳しい。
一体、何の話をしているんだろう?
業者さん……にしてはすこし纏う空気が違う気がする。
工藤店長の個人的な知り合いだとしても、あまり良い空気には見えない。
帰りたいけれど、彼らの傍を通るのは躊躇われて、私はその場で立ち尽くしてしまっていた。
どうしよう……なんだか出て行けない雰囲気なんだけど。
無理矢理突っ切っていくほどの勇気はないので、ほとほと困り果てる。
一度控え室に戻って、少し時間を置いてからまた出てこようか、と思ったところで、先ほどより大きくなった二人の会話が、耳に届く。
立ち聞きは良くないと感じつつも、頭は無意識に声を拾ってしまった。
「さすがに、これ以上は待てませんよ」
スーツ姿の男の人が、工藤店長に向かって溜息を吐きながら言い放つ。
硬い声に、少し驚いた。
よく見ると、店長とさほど年齢の変わらない若い男性だった。濃いグレーのスーツに青のストライプのネクタイ。細身のシルエットは、工藤店長よりも少し高いくらいの背丈に見える。
その彼に向かって、工藤店長が軽く頭を下げた。
目前の光景に、思わず目を見開く。
な、何……?
「そこを何とかっ! あと二日! いや一日でもいいですからっ!」
普段の柔らかい笑顔を苦く崩した工藤店長のその言葉に、「え」と小さく呟きを零す。
どこかのドラマや映画で見たようなやりとりだったからだ。
「これ以上は待てない」と言う恐いお兄さんに対して、「そこを何とかお願いします」と頼み込む……そんな、どこかで見た風な構図。
それが、まさかの自分の目の前で起こっている。
え、嘘。
これってもしかして、あの?
本当に? 『借金の取立て』とかいうあれ????
聞こえてきた台詞に呆然とする私を余所に、目の前の会話は進んでいく。
「この前も同じ事言ってたよね。アンタ」
厳しい表情、厳しい口調でそう告げるスーツ姿の男性は、呆れたように息を付いた。
それに向かって、工藤店長が「すいません」と言ってまた頭を下げている。
なんだか、その光景があまりにもショックで。
朝見た彼の具合の悪そうな表情と、昼間のぐっすりと眠る寝顔を思い出して。
私はつい、声を出してしまった。
「あ、あのっ! すいませんっ!」
途端、二人が同時に弾かれた様に振り向く。
しまった、と思ってももう遅く、彼らの瞳に私は捉えられていた。
けれどそれよりも、工藤店長の驚愕の表情に、私の視線は惹きつけられていた―――
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