第2話:涙
彼が亡くなってから、近所の人とすれ違うたびに気を遣われる。それがしんどくて、私と彼のことを知る人の居ない遠く離れた街へ引っ越そうかと考えていたある日のこと。帰ると、隣の部屋の玄関の前で女性が頭を抱えていた。つい最近隣の部屋に引っ越してきた
「ほんとすみません。今度お礼します」
「良いですよ別に」
彼が亡くなってから、ずっと一人だった。友人を部屋に呼ぶこともなかった。誰かがこの部屋に居るのは久しぶりだ。彼女を招いたのは、寂しかったからというのもあるかもしれない。
「八雲さん、アレルギーとか苦手なものとかあります?」
「いえ、特には。あ、お手伝いします。させてください。申し訳ないので。といっても、普段は自炊なんてしないのであまりお力になれないかもしれないですけど。えっと……味噌汁くらいは作れます」
「じゃあ、味噌汁お願いしようかな。私は親子丼作りますね」
「はい」
誰かと台所に立つのは彼が亡くなったあの日以来だ。私は料理は得意ではなかったけれど、彼は料理上手だった。今から作る親子丼も、彼から教わった。木綿豆腐でかさ増しして、ミニトマトを一緒に煮込んで、仕上げにお好みでごま油をかける。もはや親子丼と言っていいのか分からない料理だが、私はこれが好きだった。だけど、何度作っても彼が作ってくれたそれと同じおいしさは出せない。材料も分量も全く同じなのに。煮込む時間が違うとか、材料を入れる順番が違うとか、そういう問題ではないのだろう。足りないものはきっと、もうこの世には存在しないのだ。
「変わった親子丼ですね」
「ごま油かけると美味しいですよ」
「あー。なるほど。トマトとごま油は合いますもんね。
「……いえ。昔はそれほどでもなかったです。恋人が、料理好きな人で」
八雲さんが隣に引っ越してきたのは彼が亡くなった後だけど、きっと近所の人から聞いているのだろう。恋人の話を出した瞬間、気まずい空気になる。普通なら、それ以上は掘り下げない選択をするだろう。だけど、彼女は何故か掘り下げようとしてきた。空気が読めないというよりは、読んだ上であえてその選択をしたように見えた。その理由を聞くと、彼女は自信なさげに言う。「なんか、こういう時って、触れないように気を使われる方が辛いかなって、思って」と。彼女の言う通りだ。辛いことを思い出してしまわないように彼のことは極力触れないようにしようという周りの気遣いが辛かった。数えきれないほどある彼との思い出が、私すらも気づかないうちに私の中から静かに消えていってしまう気がして怖かった。
「……話しても、良いですか。彼のこと」
「はい。貴女が話したいなら」
「……この親子丼、彼が教えてくれたんです」
「ああ、やっぱりそうなんすね」
「はい」
「……他にもあるんですか? 思い出の一品とか」
「えっと……」
彼女の質問に答えていくたび、彼との思い出が蘇る。消えかけていた思い出まで、鮮明に。「そうなんですね」「良い人だったんですね」相槌を打つ優しい声が、心の奥底に溜まっていた苦しみを押し上げる。押し上がった苦しみは涙となって外に流れていった。
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