第10話 『魔法のはじめて』
料理研究会から数日後、僕たちはまた部室に集まっていた。放課後の窓から射し込む光が、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。教室の喧騒が遠ざかり、部室だけが別世界のような静けさに包まれていた。
「今日も異世界、行こっか!」
こころがドアを勢いよく開けて入ってくる。汗を拭きつつ、さっぱりとした笑顔を浮かべている。スポーツバッグを肩から放り投げる所作が彼女らしい。
「今日も市場で何か新しい情報が手に入るかもしれませんし」
ゆりなが控えめに頷き、柔らかく微笑む。
「でも、たまには市場以外も見てみたくない?」
ひよりが机に肘をついて、少しだけわくわくした目で提案した。髪を指でくるくる弄っているのは、彼女が考え込んでいる時の癖だ。
「異世界の郊外かぁ。いいね、それ!」
こころが大きな声で賛成する。彼女の元気の良さは場の空気を変える。
「郊外……」
僕は想像を膨らませた。エルフィリアの外に何があるのか、魔法の世界ならではの風景を、この目で確かめてみたい。
「じゃあ、今日はちょっと冒険してみましょう」
ゆりながさっそく部室の鍵をかばんにしまう。
掃除用具入れの扉を開き、僕たちは異世界へと足を踏み入れる。冷たい空気が肌を撫で、すぐにエルフィリアの町並みが広がった。小石を踏みしめる音、遠くの鐘の音。魔法都市独特の異国感に胸が高鳴る。
市場の喧騒を抜け、僕たちは郊外の草原へと向かった。風に揺れる草、見たことのない色の花々、虹色の鳥の羽ばたき。どこまでも広がる青空の下、思わず深呼吸したくなるような清々しさだった。
「うわっ、あの花、ホントに光ってる!」
こころが走り寄り、しゃがみ込む。顔を花の近くまで寄せて、「これ、持って帰っていいかな?」と子供みたいな目をする。
「だ、だめよ。魔法の植物は下手に触っちゃ危ないかも」
ひよりが即座に止める。頬を膨らませながらも、こころの手を引いて遠ざける仕草が妙に微笑ましい。
「異世界って、やっぱり日本と全然違う……」
ゆりなはスケッチブックを取り出し、目の前の景色を静かに描きとめ始めた。彼女らしい几帳面さだ。
少し歩いて小高い丘の上に出ると、遠くにエルフィリアの塔や屋根が見えた。風が頬を撫でる。ここで、しばしのんびり座り込んで、みんなでお菓子をつまみながら話す。
「なんか、こういう時間、すごくいいな」
僕がつぶやくと、ひよりが小さくうなずいた。
「私も好き。忙しい日常とか、全部忘れられる感じ」
そのとき、空が急に暗くなった。雲が広がり、突風が吹き始める。
「うわ、ヤバッ。雨、来るぞこれ」
こころが真っ先に立ち上がり、遠くを見回す。
「丘の下に……洞窟があるみたい」
僕が指さすと、みんなで一斉に駆け出した。ひよりが転びそうになるのを僕が手を引き、こころはさっさと先頭で駆けていく。ゆりなは足元に気を付けながら、スカートを気にしていた。
洞窟の中は意外と広く、外の雨音がこだまするだけで、しっとりと静かだった。入り口近くに座り込んで息を整え、誰ともなく焚き火の準備を始める。こころが「任せとけ!」とジッポライターを取り出し、勢いよく火を点ける。
「やっぱ、こういう時は役立つなぁ」
火を囲む輪の中で、自然とみんなの表情がほぐれていく。
「異世界で、洞窟の中で、焚き火って……なんか、RPGっぽい」
ひよりがそっとつぶやく。顔には、ほんのり高揚した赤みが差していた。
「これで、飯盒炊爨でも始める?」
こころが冗談を言うと、ひよりは肩をすくめた。「今日はご飯炊ける道具がないから、無理よ……」
雨はなかなか止みそうになかった。外の景色は白く霞んで見える。しばらく他愛もない会話が続いたあと、ふと、ひよりが膝を抱えてぼんやりと手のひらを見つめていた。
「なんかさ……最近、異世界に来ると体が熱っぽくなる気がするの」
ひよりがぽつりとこぼす。みんなが一斉に顔を向ける。
「え、どこか具合悪いの?」
こころがのぞき込む。
「そういうんじゃなくて、なんかこう、体の奥の方がじんわり温かくなってくる感じ……言葉にしづらいけど」
ひよりは自分でもよく分からない、といった表情だった。
「……もしかして、それ、魔力とか?」
僕が冗談半分に言うと、ひよりが微笑んで首を振る。
「魔法とか、使えたらいいのにね」
彼女が遠くの雨を眺めながら呟く。
「じゃあさ、せっかくだし、魔法の真似でもしてみたら? “火よ、出ろ!”とかさ」
こころがいたずらっぽく提案する。
「そんな簡単に出るわけ……」
ひよりは苦笑しながらも、試しに手のひらを焚き火の方へ差し出した。
「……火よ、出ろ!」
その瞬間、掌の先にふわりと小さな火花が灯った。
「……え?」
ひより自身が一番驚いていた。焚き火の炎と同じ色の、小さな火球が浮かび上がる。
「すっげー! 本当に出た!」
こころが立ち上がり、思わず拍手する。
「やっぱり、ひよりさん、魔法の才能が……」
ゆりなが感心したように見守る。
ひよりは手のひらの火をきょとんと見つめていたが、じわじわと顔が赤くなり、やがて満面の笑みに変わった。
「やった……! 本当に出た……!」
嬉しさで声が震えていた。
「俺たちもやってみようぜ!」
こころがすぐに真似してみるが、手を振り回すだけで火花は出ない。僕も、ゆりなも、何度も手を構えてみるが、空気がわずかに温かくなるだけだった。
「天才かもな、ひより!」
こころが豪快に褒める。
「ちょ、ちょっと待って、私だけってなんか申し訳ない……」
ひよりがあたふたする。
「練習すれば、みんなもできるよ。絶対」
彼女はみんなに優しく言った。
焚き火の炎とひよりの火球が、洞窟の壁に不思議な揺らぎを映し出していた。雨音と共に、僕たちの胸にもじんわりとした高揚感が広がっていく。
やがて、雨が止みかけてきた。雲の切れ間から差し込む光が、洞窟の奥を淡く照らす。
「戻ろっか」
こころが立ち上がり、みんなもゆっくりと歩き出す。
再びエルフィリアの街を抜け、部室の扉をくぐると、もう夕方の気配が漂っていた。
部室に戻ると、時計の針はすでに下校時刻を過ぎていた。
ひよりは椅子に座るなり、まだ興奮気味に「さっきの火……本物だったんだよね?」と、繰り返し掌を見つめている。ゆりなもノートを取り出して、魔法の仕組みについて考え込んでいる。こころは持ち物チェックをしながら、何度も「すげーなー」と口にしていた。
その時、部室のドアがカタリと開く音がした。
驚いたひよりの手のひらからボン!と火が弾けた。
「おい、そろそろ施錠点検の時間だぞ。残ってる生徒は早く帰るように」
田中先生が、点検のリスト片手に見回りにやってきた。先生は教員用の鍵束を腰につけていて、部室の奥まで目をやる。
「あんまり教室でいたずらするなよ。特に美術室だからな、火には気を付けるように」
「あ、すみません。すぐ片付けます!」
ゆりなが慌てて荷物をまとめ、僕たちもそそくさと後片付けを始めた。
「今日は残ってる部活が多いなぁ。何かあったらすぐ知らせるんだぞ」
田中先生は、僕たちに軽く目配せしてから、他の部室へ向かった。
「……危なかった」
ひよりが胸を押さえて、小さくため息をつく。
「ほんとよね。魔法のこと、先生にバレたらどうなるか……」
こころが苦笑いを浮かべて
「完全に見られてただろ」
「これからは、もっと気をつけないと」
ゆりなが静かに言った。
部室の窓の外は、もうすっかり夜の色。
心臓がまだどきどきしているのは、魔法の余韻のせいなのか、それとも秘密を分かち合う仲間の存在が嬉しいからなのか――僕には、まだ分からなかった。
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