ジーランディアの使者
嶌田あき
1
三島ノゾミは、背中のリュックから下がる小さなペンギンのぬいぐるみを大切そうに触り、ぶつぶつといつもの独り言をつぶやきながらオフィスにやってきた。彼女は新米の気象官で、つい先日ニュージーランド気象庁オークランド観測所に着任したばかりだ。仕事のことはまだ右も左もわからない状態だったけれど、ノゾミには特別な信念があった。それは――
「ペンギンは宇宙人。ペンギンは宇宙人。ペンギンは宇宙人!」
誰に話しかけるでもなく独り言を続けながら自席についた。
「だって、あんなに賢そうな顔をして、いつも何か考えているみたいなんだもん」
同僚にそう話すと、みんな眉をひそめて「またノゾミの妄想がはじまったよ」なんて一笑に付した。しかし彼女の好奇心は止まらなかった。
観測所のオフィスエリアの片隅が、ノゾミが所属する気象介入課の陣取っている場所だった。といっても、課員はノゾミをふくめて2名。ノゾミがオフィスに到着すると、先輩のリアム・マーフィーが既に席に着いてマグカップで紅茶をすすっていた。彼は2人しかいない気象介入課のいわば課長なのだが、なぜかペンギンの世話もしていると噂されている、変わり者で有名な気象官だった。
「ねぇ、リアムもそう思うでしょ?」
「おはよう、ノゾミ。今日もいい天気だね! 相変わらず唐突だが、その様子だと、またペンギンのことだな?」
リアムが心優しい笑顔を浮かべながら明るく返事をした。ノゾミは改まって彼に会釈して、少し緊張しながらリアムに切り出した。
「――実は、ペンギンについて相談があるんです」
「ペンギンがどうかしたのかい?」
リアムが不思議そうな顔をする。
「いえ、その……ペンギンが宇宙人だという説、信じられませんか?」
「ノゾミ、君はまだそんなこと言ってるのか。そんなことより、今日はジーラに挨拶しにいってくれ」
「あ、課員、もう1人いるんですね」
「ああ。ペンギン舎だ。先に行ってくれ。俺もあとから行く」
課員がもう一人、大型台風を専門にする予報官のジーラがいるらしい。そんな、リアムの研究のために飼育しているペンギンの世話を押し付けられれてる可哀想な先輩課員に挨拶するため、ノゾミは観測所のキャンパス内の一画あるペンギンの飼育小屋を訪れた。
小屋の中に一歩足を踏み入れると、そこには一羽の美しいペンギンが佇んでいた。黒と白のコントラストが目を引く滑らかな羽毛、きらきらと輝く知的な瞳。動物園で見かけるどのペンギンよりも一回り以上大きかった。ノゾミは思わずため息をついた。
「こんにちは、よろしくね。君のお名前は……」
ネームプレートを見ようとすると、信じられない出来事が起こった。
「私はジーラ。よろしく、ノゾミさん」
ペンギンが人間の言葉を話したのだ!
ノゾミは驚きのあまり声も出ない。ジーラと名乗ったペンギンはゆっくりと向きを変えると、優雅な姿勢で彼女を見つめた。
「どうしました? 私がしゃべったことが、そんなに驚くことでしょうか」
「え、あっ、ええええええええっ!」
ノゾミは混乱を隠せずにいた。
その時、小屋の扉が開いて、リアムが入ってきた。
「どうした、ノゾミ? 悲鳴が聞こえたけど」
「リアムさん、ペンギンが喋ったんです! 人間の言葉で!」
ノゾミは興奮した様子で説明する。
でもリアムは驚いた様子もなく、ニヤリと笑うだけだ。
「そんなわけないだろ。確かにジーラは特殊能力を持ったペンギンだが、しゃべるのは見たことないぞ。きっと君の気のせいだよ」
ノゾミはジーラを見つめ、もう一度話しかける。
「ねえ、ジーラ。さっきの私に話しかけてくれたよね?」
しかしジーラはもう口を閉ざし、まるで人形のように微動だにしない。いくらノゾミが問いかけても、円らな瞳でぱちくりとまばたきするだけだった。ノゾミはリアムに向かって言う。
「本当なんです、ジーラはしゃべったんですよ! 私に『よろしく、ノゾミさん』って」
リアムは眉をひそめた。
「ノゾミ、疲れてるんじゃないか? ほら、こいつはな、こうやって天気図を見せると、前線の動きや台風の進路の予想をくちばしで示してくれるんだ。予報士の試験もパスしてる。でも、しゃべるなはずはないよ。君はペンギンが大好きだからそう思い込んでいるだけだ」
ノゾミは悔しくてたまらなかった。でも確かにジーラはもう何も話さない。彼女の目の前で起こった奇跡を、誰も信じてくれないのだ。
「そんな……」
ノゾミは諦めるつもりはなかった。ジーラとの出会いはきっと偶然ではない。彼女には、ペンギンの秘密を解き明かす使命があるのだ。ノゾミはジーラを見つめ、心の中で誓った。
「必ず、ジーラの秘密を明らかにしてみせる。ペンギンが宇宙人だって証明してみせるんだ」
ペンギン舎を後にしたノゾミの胸は、希望と好奇心でいっぱいだった。
ジーラの世話係をノゾミが引き受けてから3ヶ月も過ぎたある日、オークランド観測所に緊急の連絡が入った。所長のアレックスはすぐに観測所の全職員を招集、ノゾミとリアムが会議室に駆けつけると、そこには青ざめた表情のアレックスの姿があった。
「観測史上最大級の超巨大台風だ」
アレックスは震える声で告げた。
オフィスはいつにもましてピリピリした雰囲気に包まれていた。正面の大画面には、迫り来る超大型台風のデータが表示されている。それは、一昔前なら「千年に一度」などと呼ばれていたような、見るからに凶悪な規模の台風だった。ノゾミの故郷を飲み込んだような、凄まじい台風の姿に、彼女は言葉を失った。
そんな中、我先にとリアムがとんでもない提案をした。
「干害対策用の液体炭酸を散布し、台風の進路を変えよう」
「正気ですか?」
ノゾミが驚きの声をあげると、リアムは机に広げられた大量の紙の束から一枚を取り出し、ノゾミの目の前に突き出した。
「ほら、これを見てくれ」
それはシドニーの量子コンピュータセンターで計算されたシミュレーション結果だった。ノゾミの思った通り、成功確率はかなり低そうだ。もちろん、液体炭酸を散布して空気を冷やし、強制的に降雨させることで台風の勢力を弱めるというのは、教科書で習うレベルで知られた気象制御の方法ではあった。けれどノゾミの知る限り、今回のような超大型の台風に適用した例はひとつもない。
「たぶん超ピンポイントで散布しないと無理ですよ」
ノゾミは懸念を隠さない。
「わかってる。だがとにかく準備だ!」
リアムは力強く言い放つ。アレックスからも命令が下った。
「今回も進路変更までは期待してないが、最低でも降雨させて威力を弱めてほしい。頼んだぞ」
普段は日陰者扱いの気象介入課だけれど、こういう時だけ頼りに――。リアムの隣で黙々とデータ分析を進めるノゾミが不安げに呟いた。
「先輩、この予報やばくないですか? この風速じゃあとても……」
リアムはノゾミを見つめ、力強く言った。
「大丈夫。その予報は外れる」
「えっ?」
「俺たちがこれから天気を変えるからね」
ノゾミは驚きながらも、すぐに微笑んだ。リアムの自信が彼女に勇気を与えてくれる。しかしその直後、リアムが暗い表情で呟いた。
「たがしかし、今回ばかりは、そうも言ってられないかもな……」
液体炭酸の散布シミュレーションの結果は芳しくない。これまでの気象介入の方法では、到底この超巨大台風の被害を防ぎきれそうにない。
窮地に立たされたノゾミの脳裏に、あるものが浮かんだ。ペンギン舎のジーラだ。もしかしたらジーラなら、この危機を救ってくれるかもしれない。ノゾミは祈るような気持ちで外に飛び出し、一目散にペンギン舎に向かって走り出した。彼女の胸の中では、まだかすかな希望の灯火がゆらめいていた。
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