ばあちゃんちの四匹めの猫

陽咲乃

前編

 朝起きると、猫のひたいほどの庭に雪が降り積もっていた。

 5歳の娘が「パパ、雪だるまつくろう」と、はしゃいでいる。


「いいけど、風邪引かないように厚着しなきゃダメだぞ」

「うん。ママー、おきがえしたーい!」

「はいはい。まずは顔を洗ってからね」


 掃き出し窓を開けると、冷たい風が吹き込んできた。雪はもうやんでいる。

 厚着をした娘と一緒に庭に出た。雪の深さはせいぜい3、4センチ。天気がいいから昼過ぎには溶けるだろう。


 ピンク色の手袋でいっしょうけんめい雪を集める娘を見ながら、俺は、ばあちゃんに出会った日のことを思い出していた。


 ***


 俺は昔、北九州で母親と一緒に古いアパートに住んでいた。六畳一間に小さな台所がついた部屋には、ときどき母の恋人だという男が現れた。

 あの頃、母はまだ二十代で、ギャンブル中毒だった俺の父親と別れ、ひとりで俺を育てていた。


 恋人がアパートに来ると、母は「しばらく遊んできてね」と言って、俺に三百円を握らせた。だが、近くに時間をつぶせるような場所はないし、いきなり遊びに行くほど親しい友だちもいない。


 結局、自転車で十五分くらいのところにある図書館で時間をつぶし、腹が減ったら近くのコンビニでおにぎりやパンを買って食べていた。


 一度、少しだけ早く帰ったら部屋に入れてもらえなかった。それからは、最低でも二時間は帰らないようにしている。


 そんな状況だったが、母や恋人たちに、罵声を浴びたり、殴られたりしたことはなかった。

 恋人が来たときに何時間か外に出されるだけ。大したことじゃない――自分にそう言い聞かせていた。

 


 小学二年生のときのことだ。

 やけに寒いと思って窓の外を見たら、雪が降っていた。こんな寒い日は絶対出かけたくない。そう思ってコタツでぬくぬくしていると、

「しばらく外で遊んできて」

 いつものように母が言った。


「でも、外は雪が……」

「これであったかいもんでも食べといで」


 母は笑顔で俺に五百円玉を握らせた。

 いつもより二百円多かった。


「今日、図書館休みなんやけど……」

 バタバタと化粧をして着替えている母に、俺の声は届かなかった。


 母の恋人が来る前にアパートを出た。

 かなり厚着をしたつもりだったが、しばらく歩くと震えが止まらなくなった。


 どうしたらいいんだろう。

 行くところも、帰るところもない。


 ビニール傘の上に、しんしんと雪が降り積もる。

 真っ白な世界に、自分だけが閉じ込められたような気がした。

 

 傘についた雪を振り落としていると、生垣の向こうから猫の鳴き声が聞こえてきた。ずいぶん大きな声だ。


(なんかあったんやろか)

 

 生垣の隙間からのぞくと、三匹の猫が縁側で鳴いているのが見えた。黒猫とトラ猫と三毛猫だ。

 閉め出されたのかなと心配していると、家の中からおばあちゃんが出てきた。


「見回りごくろうさん。寒かったやろ」

 猫たちは、にゃあにゃあと鳴きながら、我先にと家の中へ入っていく。


 窓を閉めようとしたばあちゃんが、生垣からのぞいている俺に気づいて目を丸くした。

 

「あんた、なんしよっとね。そんなとこおったら風邪ひくばい」

「えっと……」

 家から追い出されたとは言いづらい。モジモジしている俺にばあちゃんが言った。

「あっちから中に入り」 


 知らない人の家に上がるのは抵抗があったが、凍え死ぬよりマシだと思った。


「おじゃましまーす……」

 木で出来た古そうな門を開け、縁側のある庭の方にまわった。


「こ、こんにちは」

「はよ、中に入らんね」


 縁側で靴を脱ぎ、追い立てられるように家の中に入った。

 薄暗い室内には、大きな石油ストーブが燃えている。ばあちゃんは俺をストーブの前に座らせ、タオルを貸してくれた。


「ちゃんと拭かんと風邪引くばい。身体が冷えとるやろうけ、あったまり。靴も乾かしとくけ」


 部屋の中はとても暖かかった。

 ばあちゃんは、ストーブの上で湯気を立てている薬缶やかんを手に取り、急須にお湯を注いだ。


「ストーブの上で沸かすんだ……」 

「見たことないと? この上でスルメも焼けるんよ」

「スルメも!?」

「すごいやろ」


 ばあちゃんはニヤリと笑った。


 部屋の中から見る雪はきれいだった。俺はホッと息をつき、ずるずるとお茶をすすった。


 カチコチと掛け時計の音が響く。

 静かだな。時計の音以外聞こえない。

 そう思ったとき、いきなり大きな音が鳴り響いた。



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