第2話




 入院して一月ひとつきが過ぎ、腕の固定具がギプスに代わった頃、外は秋の色合いを濃く見せ始めていた。落ち葉はまだまばらだが、空は重そうな色を頻繁に見せ、朝晩に吹く風はその温度を数段下げ始めていた。いつまでも部屋でじっとしていると、看護師さんから「少しは体動かした方が良いよ」と言われ、病院の敷地内での散策が許可された。



「こんにちわ~」

「……どうも」


 昼食後の散歩でもしようと病院の裏庭まで歩き、小さな緑地帯のベンチで空をぼんやり眺めていると、車椅子を押した看護師が僕を見かけて、挨拶をしてくれる。小声でそれに返答し、チラとその椅子に座ったお爺さんを見る。椅子の後ろには幾つもの液体が入った透明なビニールパックがぶら下がり、全ての管がそのお爺さんに向かって伸びている。彼は景色を見ているのか、いや見えているのか、目を糸のように細めたまま、只、看護師の「今日は暖かくて、風が気持ちいいですねぇ」と言う言葉を聞き流して、口をモゴモゴさせていた。


 ……彼は僕から見ればお爺さんだ。勿論、正確な年齢なんか知らない。ただ顔中に皺を刻み、まばらな頭髪は既に真っ白で、全てが枯れ木のように細い。顔には大きなシミがいくつか見え、ブランケットを掛けられて、車椅子で移動している。それはまるで……。


 ――生かされている様で。


 思考がおかしくなりそうになった所で、目をぎゅっと瞑る。あのお爺さんがどの様に生きて、今ここに居るのか知りもしないのに、何を勝手な事をと自分を叱責する。彼は僕から見れば何十倍も永く生きている。『生』を捨てず、必死に生きる為にここに居るかも知れないのに、僕のように安易に『それ』を捨てようとした人間が、おいそれと考えて良いことじゃない。




 ――あぁ、だから僕は生きたくなかったのか――。


 目標がなかった。


 居場所がなかった。


 未来が……見えなかった――。


 そう思えた瞬間、全てが腑に落ち、納得できた。……そうか、だからあの時、躊躇も遠慮もなくただの一度で、あそこまで深く斬る事が出来たんだ。虐められた悔しさじゃなく、自分を惨めと蔑むわけでもなく。……ただただ絶望し、それを最善と思い込んでしまったから。


 納得し、自虐的な笑みが小さく溢れると同時、俯いた地面に幾つかの雫が落ちる。こみ上げる衝動を抑えようと鼻を啜っていると、不意に嗅いだことの有る匂いが何処からとなく漂ってくる。袖口で顔をぐいと擦ってから振り返ってみると、そこにはオレンジ色の小さな花弁をたくさんつけた常緑樹が植わっていた。


「……この樹って」

「金木犀だよ」


 独り言に返事が来るとは思っていなかったので、どきりとしてそちらを見ると、僕から見て丁度樹の裏側から一人の女性が現れた。


「お邪魔したら悪いかなと思って静かにしてたんだけど……ごめんね」

「い、いえ……」


 同じ入院患者なのだろう、僕と同じ様に右の手首辺りにプラスティック製のバンドが見え、服装もパジャマの上にカーディガンを羽織っている。手元を見ると何やら本を持っているようで、芝生の方で読書でもしていたのかと考えた。


「……芝生側で座ってたんだけど、日陰になっちゃって。そのベンチ座ってもいい?」

「あ、はいどうぞ。僕はもう行き――」

「私は日向、日向薫(ひなたかおり)。キミは?」


 席を立とうとした僕に彼女はそう言って、既に腰をベンチに下ろしながら聞いてくる。まさかここで振り切って行くわけにも行かず「……木下勇次です」と答えるとすぐに「幾つ?」と尋問のようなやり取りが始まった。


◇  ◆  ◇


「ほうほう……。勇次君は私の一個下になるのかぁ。では特別に『薫ねえさん』と呼ばせてあげよう」

「え?」

「え、じゃないよ。……ほれほれ」

「……初対面ですよね。なのに――」

「細かい事を気にするんじゃなぁい!」


 ――その肌は透けるように白く、肌理など細かすぎて剥きたての卵のよう。長く伸ばした髪は癖なくまっすぐに伸びていて、黒と言うより濃紺とでも言えようか。クリクリとした大きな瞳は薄茶色をして、コロコロとその表情をよく変える。小さな唇は桜色を薄くしたようで、少し儚げに見えるが、ニコニコといつも上がった口角が、その姿を見なければ病人だなどと誰が思うだろう。


 そう、線も細く、何処から見ても薄幸そうな見た目で、超が付くくらいの美少女でありながら、この日向先輩は想像の埒外と言えるほどに姦しい。……因みに呼び名は「日向先輩」を押し通して納得させた。兎に角、僕の話を聞く事はなく、喋りだしたら自分が納得するまで止まらない。意見を聞いてきたかと思えば、選択肢は既にない。首肯するだけで話は続き、終着点は始発点どこだった? と言えるほどに散漫で、僕は既に、彼女の話の半分も理解できなくなっていた。



「うを! やけに勇くんが赤いと思ったら、私に照れてるんじゃなくてもうこんな時間か」

「……何処に照れる要素が在ったのかは甚だ疑問がありますが、日向先輩のおしゃべりが原因なのは明らかです」

「今何時?!」

「……」


 良く言えば天真爛漫……なのだろうが、彼女の場合は天然不遜とでも言えようか、いや、別に横柄であるとか見下しているとかではないのだが……。何と言うか『おねぇちゃん感』をどうしても出したいのがあからさますぎて、少し引いてしまえるほどだ。そんな彼女が矢継ぎ早にずっと話し続けていたのだ。かれこれ二時間近く彼女が来てから経っている。ふと持ったスマホの時計を確認すると、四時半をとうに過ぎて居た。


「嘘! やっばい! 渡辺さんに怒られる! じゃぁ明日! またお昼すぎにここで!」

「……は?! ……あ、ちょ」


 やはりと言うか、当然と言うのか。彼女はその渡辺さんが怖いのか、それとも自分の言いたいことを言い切ったからなのか、僕の返事など全く聞く気は無いようで。手に持つ本を抱えるように、振り返ることなく小走りに、病院に向けて走り去っていった。


「……う、少し冷えてきたな。……戻ろう」


 置き去りにされた僕はぼうっと彼女の去った方を眺めた後、日が無くなり始めて、少し冷たくなった風にブルリと体を震わせると、愚痴るように一言零し、根の生えたベンチからゆっくり腰を上げた。



~*~*~*~*~*~*~*~



 結局その次の日から三日間、僕は毎日のように先輩の機関銃の様なおしゃべりを、ただただ隣で聞かされるという、拷問なのか修行なのかよくわからない毎日が続いた。いや、次の日は一応言われたので行ったが、翌日については勿論お断りした……はずだ。では何故話を聞かされているのか?


「この部屋からだと丁度、あの金木犀がきれいに見えるんだ」


 ……やっとあの修行から抜け出せると思っていたら、彼女は誰に聞いたのか、僕の病室に「お見舞いだよ~!」と声高らかに現れたのだ。


「……誰にこの病室聞いたんです?」

「フッフッフッ、お坊ちゃまの君に、この私の情報網を教えてあげるには、まだ少し早いと思うのだよ。なにし――」

「はいはい、意味のわかんない「ごっこ遊び」には付き合いませんよ」

「……んな! んだと?!」


 窓からこちらに振り返り、その大きく、くりくりとした目をこれでもかと見開いて、何処かのアニメで聞いたようなセリフをさも大袈裟に言う。思わずジト目で見返して、こちらも大きなリアクションでため息を零すと、何故か彼女は満足したのか、真っ白に輝く、綺麗に並んだ歯を見せながら「うん! そのリアクション良い! 有能執事っぽいよ」と朗らかに笑ってベッドに腰を落とした。……有能執事ってなんだ? と一瞬聞こうかと思ったが、それを言えばまたあのマシンガントークが炸裂すると考えて、完全スルーでなんとか乗り越える。


「……あれ? 聞かないの?」

「何がです」

「執事のこ――」

「結構です。なにかのラノベか、アニメでしょ」

「鋭いツッコミ! いや~流石は私の見込んだ弟子! 阿吽の呼吸が出来つつ有るねぇ」


 ……正直、一時が万事こんな調子で、話がどんどんずれていく。大体昨日も「勇次君」「勇クン」最終的には「勇」だった。なのに今日はいきなり『弟子』と来た。まぁ、別に僕をなんと呼ぼうが構わないが、なんとも距離の詰め方がおかしな人だ。こんな事を頭で考えている最中も、僕のことなどお構いなしに、彼女の話はどんどん進む。「ん~、あ! 弟子になったんだから芸名をつけないと」等と言い始めたところで、僕は慌てて待ったをかける。


「やりませんし、要りません。変な名前をつけたらそれこそ「弟子」辞めますよ」

「えぇ~! いいじゃん、なんか付けたほうが楽しいよ」

「気分で変な名前考えないでください」


 ――お邪魔しまぁ~す!


 その声は突然ドアの傍から聴こえ、どきりとして振り向くと、そこには検査キットを乗せたワゴンを押して、ニマニマと変な笑みを見せる山崎看護師長が居た。


「いらっしゃい、由紀恵ちゃん!」

「お邪魔しますね薫ちゃん」


 ……なるほど、情報源はこの人か。看護師長なら当然、患者が何処の病室に居るか把握して居る。昨日の話の中で、僕が整形外科に入院している事は話していた。ならば、その階の看護師長と仲が良ければ病室を聞くくらいは……って、ここは僕の病室だぞ! なんで彼女にお邪魔しますって……。それを言おうとしてすぐ諦めた。師長は僕に体温計を渡してくるが、全くこちらを見ていない。血圧測定の器具を嵌めたと思えばすぐに彼女との話に戻ってしまい、僕は完全に空気化してしまって居る。


「木下くん、薫ちゃんといつの間に仲良くなったの?」

「……僕の意思とは無関係です」

「「……アハハハハハハハ!」」


 せめてもの抵抗だと言わんばかりに、体温計を渡すついでに来た質問にそう返すと、一瞬二人は顔を見つめ合い、直後に大きな声で爆笑する。


「ね、勇って面白いでしょ由紀恵ちゃん」

「アハハハ、ホントにね。何「意思と無関係」って。アハハ」


 その言葉を聞かされて、自分自身もハッとした。一体僕は何を言っているのだ? 周りの雑音が聴きたくなくて、全てを諦めて「あんな事」をしたのに、昨日今日会った人間のことでこんなに自分がかき回されて……。大体、話にしたってそうだ。聞きたくなければ、適当にやり過ごす事だって出来たはず。いや、現に今まではずっとそうして生きてきた。にも拘らず、彼女の言動に対しては言い返し、あしらわれて、二転三転し……。



 ――絶望していたんじゃないのか?


 ――諦めたんじゃなかったのか?


「薫ちゃんもそろそろ回診じゃない?」

「え……あ、そうかも。じゃぁ勇、また明日ね」


 僕が黙っても尚、二人の会話は続き、終いにはそう言い残して部屋を出て行った。



 ――また明日ね――


 彼女の去り際に言ったその言葉が頭の隅に引っかかり、何かがモヤモヤと霞んで見える。だけど、その靄は晴れるどころか濃くなって、何時しか自分がぎゅっと目を瞑っているのに気がついた。




~*~*~*~*~*~*~*~



「そうなんだ、薫ちゃんなら僕も知ってるよ」

「そうなんですか」

「うん、今は別の階に居るけど、最初はこの階に入院していたからね」



 数日後の回診時、片桐先生が病室で、僕の腕を見ながら世間話をしていると、日向先輩の話を看護師長が持ち出し、そんな事を話してくれる。驚いたのは彼女がこの病院に入院して、既に一年が経っていると聞いた時だ。今ってそんなに長期で入院は出来ないんじゃ? と聞くと、先生は少し顔に影を落として「あぁ、少し事情があってね」と深くは話してくれなかった。……まぁ僕としてもそこまで突っ込んで聞く内容では無いと思ったので「すみません、余計なことを聞きました」と頭を下げる。そうして少し場の空気が淀んだと思った時、ふと看護師長が呟いた。


「……やっぱりこの部屋は、金木犀の香りが良くするわね」


 窓の外、ちょうどその直下辺りにあの芝生が有る。だからその隣に立つ金木犀も窓から覗けばすぐに見える。この部屋は三階にあるが、金木犀はそこまで高く育っては居ない。それでも風が吹くとその香りは風に乗り、病棟端のこの部屋にだけは必ず運んでくれるのだ。


「山崎さんはこの香り、苦手?」


 そんな事を考えながら、窓辺に立って外を眺める母を見ていると、突然片桐先生がそんな事を看護師長に聞く。


「……ん~、別に嫌って訳ではないんだけど、実家のトイレがね、この匂いだったのよ」

「あぁ! それ分かりますよ。僕のじいちゃん家が汲み取り式でね。ばあちゃんが「便所花」とか言って、よく一輪挿しに挿してました」

「あら、私ん家は芳香剤だったけどね」


 ――『ベンジョバナ』? なんだ? トイレ?


「……ん? 勇次君には分からないか? 昔はトイレの臭い消しに良く使われていたんだよ「金木犀の香り」が」

「そうそう。……今はおトイレもあまり匂いがしなくなったから、使われなくなったけど、昔は「消臭」より「芳香」で紛らわせてたのよ」


 そんな話を二人で僕に言ってくるが、そもそも僕は生家が今の家だし、祖父母の家は母方にしか無い。その母方にしたって、母が亡くなってから疎遠になってしまったし、父の祖父母は他界している。家にアロマオイルやキャンドルなんかは置かれているが、そもそもあれ等は継母達が持ち込んだので、嫌いだった。


「ほら、お爺ちゃん家は「線香」の匂いがする。とか、なかった?」

「……幼稚園に通っていた頃なので、覚えていないですね」

「くぅ~、「核家族化」の波は津波ですねぇ山崎さん」


 結局僕そっちのけで二人は「畳の匂いがする家は古い!」「線香臭いと年寄り臭い」と匂い談義で盛り上がり、そんな様子を母が微笑ましそうに眺めているのを、ただ黙ってため息を零すしか僕には出来なかった。






 


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