金木犀の香る頃 Re
トム
第1話
――その花言葉は謙虚で気高く……。
それと「
――ねぇ、この香り、素敵でしょう。
薄暗い部屋で一人、気怠い微睡みの中、現実と夢の境が曖昧な状態で、天井をぼんやり眺めていると、不意にその声を思い出した。……それはいつの事だったのか、朦朧とした意識のまま記憶の奥を掘り起こそうとしてみるが、一向にその声の主を思い出すことが出来ない。もどかしさについ気分が悪くなりかけた所で「……まぁ、それもどうでもいいか」と諦めの言葉を零してゆっくりと左腕を持ち上げる。
ボタボタボタタ……。
暗い部屋だと言うのに、まるで日差しを避けるような仕草で手を翳すと、どす黒く、少し生暖かい粘性のある液体が、見上げた顔に掛かる。
「……あぁ、切ったのはこっちの腕だったっけ」
手首からどくどくと流れる赤黒いそれを眺めながら、自虐気味に笑みを浮かべて言う。切ってからどのくらい時間が過ぎたのか、既に曖昧になり、先程から襲ってくる悪寒と薄れ始めた意識の中、全てを考えるのが面倒になり、このまま目を閉じようと、身体を横たえた時、遠くなった耳に物音が聴こえて、眩い光が瞼に直撃する。
……何だよ、やっとゆっくり眠れると思ったのに――。
――これでもう、奴らと会う必要もなくなるんだから。
~*~*~*~*~*~*~*~
真っ暗な海の底から浮き上がるような、なんとも言えない浮遊感の後、消えて行くはずだった意識が段々と戻って来る。……モヤモヤとする思考の中「何故」と疑問だけが浮かび上がると、周りの空気が騒がしい事に気がついた。
――あぁ、失敗しちゃったのか――。
閉じた瞼をゆっくり開くと同時、人工的な明かりが網膜を突き抜けて前頭葉あたりを貫いてくる。その刺激に思わず眉根を歪めると、誰かがすぐに耳元で大きな声で呼びかけてくる。「わかりますかぁ!? わかります――」と何度も肩のあたりを触りながら、お決まりの意識確認を行っている。少し高いその声音に女性だと気づくと、声は次に僕ではない方に向かい「意識戻りました!」と話すと別の声が聴こえてきた瞬間、一度に色んな声が耳に届き始めた。
……うるさいな……、一体何人が僕を取り囲んでいるんだよ。
「木下勇次君……勇次くん! 聴こえるかい? ここは病院だよ。もう大丈夫だか――」
一際大きく、恐らく医師だと思われるその人は、何やら手を動かしながら、懸命に僕の名をフルネームで呼び、今の状況を説明してくれるが、僕にとってはどうでもいい事だ。いや、はっきり言えば迷惑だ。
……生きてしまったのだから。
だから、その行為をやめてくれと言おうとするが、今の僕には唇を震わせるほどの力しかなく、当然ながら腹に力が入らない……故に口からは唯、空気が漏れただけで体はピクリともしない。そうしてくだらない抵抗をしている自分に嫌気が差すと、体力を使い切ったのか、いつの間にか意識はまた、泥濘に沈んでいく。
――遠くで、母の泣き叫ぶ声が響いていた……。
~*~*~*~*~*~*~*~
――ウゼェンダヨ!
……何がだよ?!
キエロ!
お前が消えろ!
チカヨルナ!
お前が近づいたんだろうが!
キモインダヨ!
お前の方がキモいんだよ!
ナンデコイツトオナジクウキスワナイトイケナインダヨ!
同意見だ! 僕もお前らと同じ空気なんか吸いたくない!
シネヨ! シネヨ! シネヨシネヨシネヨシネヨシネヨシネヨシネヨシネヨシネヨシネヨシネヨ――。
うるさい! 煩い煩い煩いうるさい! ウルサイ、ウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサ――
――死んでくれ!
「――っ!!」
その怨嗟の声で瞼を開けると、眼の前には見慣れぬ天井。動悸が激しく、鼓動の音が耳に響いて煩い。ピーピーと機械の音が鳴り響いているが、体が汗でベタつき、その事が物凄く不快に感じて、それどころではなくなっていると、すぐに誰かが近づいてきた。
「……どうしましたか? ……って、すごい汗?!」
近づいた声はそう言うと、リノリウムの床をキュイキュイと鳴らしながら、何処かに電話でもしているのか、一人で近くをウロウロしている。……その音が妙に耳障りで眉根を寄せたまま目を閉じていると「えぇ……はぃ……あ、少し辛そうな表情です。木下さん、何処か痛みますか?!」と声を掛けてくる。
「……音が」
「音?」
「……いえ、痛みとかはないです。ただ眩しかっただけです」
問答するのも面倒になり、適当に答えて少し目を開けてみると、耳に小さな携帯電話を持ったまま、ベッド脇の機械をチェックしている看護師が見えた。……あぁ、やっぱり僕は死に損なったのか。未だにぼんやりした頭でそんな事を思いながら、身を捩ろうと腕を動かすと、繋がった管が一緒にズレて上手く動かせない。ふと、何だと思い、そちらに目線を動かしてみれば左の腕には固定具のような物が包帯でぐるぐると巻きつけられていて、肘から先が棒の様に固定されている。
「……あまり動かないでね、神経まで斬れていたから、今こっちの腕は固定しているの」
僕がゴソゴソしたのに気づいた看護師が、そう言いながら機械のパネルを弄っていると、すぐ後ろから白衣を着たメガネの男が側に来て、看護師と二、三言葉をかわした後、僕の方に柔和な顔を向けて、話しかけてきた。
――もう大丈夫だからね――。
その声音は少し低く、口調はゆっくりと落ち着いていた。その言葉を耳にした瞬間、ささくれだった心の奥が少しじんわりとしてくる。……何故そう思ったのかは分からない。ただ、その声が今の僕にはとてもまっすぐに届いて……気づくと彼が話し続けているにも関わらず、涙が止まらなくなっていた。
~*~*~*~*~*~*~*~
「勇次くんのお話を聞く限り、かなり酷い虐めを受けているようですが、お母様はこの事をご存知でしたか?」
「……いえ、あの、それは一体どういう事です? それに私は――」
――彼の実の母ではないので。
僕の話を主治医である、片桐先生だけが真面目に聞いてくれた。
……始まりは廊下で肩がぶつかっただけの事。当然僕はすぐに謝った。が、それを彼は許さなかった。下げた頭を思い切り殴られ、転倒した僕を笑いながら足で蹴り、そのまま教室に引っ張られて執拗に罵声を浴びせてきた。……それが事の始まりだ。
クラス内カースト上位だった彼の言うことは絶対で、すぐにその行為はエスカレートしていった。持ってきたものが無くなり、机には傷が増え。あぁ、そう言えば机は外に置かれたこともしょっちゅうだった。同ランクに居た友人達はいつの間にか目を合わせてはくれなくなり、遂には彼らと同じ様に僕のことを蔑んでくる。少しでも反抗的と捉えられれば躊躇なく殴られ、教師に話そうとすれば、教師のほうが逃げていく。
そして彼らはニヤニヤと笑いながら言うのだ。
――イジってるだけじゃん。と。
……親は僕に無関心だった。実の親は父だけで、実母は鬼籍に入っている。後妻として父が連れてきた彼女には連れ子が居て、二人はその娘と笑い合っていた。僕が自室で泣いている時に……。
――生きたくなかった。
……だけど、彼奴等のせいで死を選んだと思うのが嫌だったのに……。
個室に移って三日が過ぎた。母はずっと窓側の椅子に座って、僕の傍を離れようとはせず、黙ってこちらを見つめている。
「……勇次くん、どうして黙っていたの? どうして教えてくれなかったの?」
病室のドアを開けて、先生との面談を終えた継母が、ぶつぶつと小さく抗議の声を上げながら、香水の匂いを撒き散らしながら入ってくる。……あぁ、この人はいつもそうだ。父と娘の前では優しい母親を演じ、僕の前ではその欝憤を晴らすかのように、濃い化粧でキツイ匂いをさせてくる。僕が未だに彼女のことを名字で呼ぶのが許せないのだろう。そんな彼女を母はきつい表情で睨みつけるが、彼女に見えることはない。
「……言ってどうにかなるの?」
「そんなのすぐ学校に――」
「そんな事すれば酷くなる事ぐらい、想像できますよね。担任にも話はしましたよ。彼ら曰く「イジってる」だけで「友達同士のじゃれ合い」だそうです」
彼女の言う言葉を先回りして言うと、二の句が告げなくなった彼女はぐっと声をつまらせ、俯いてボソボソ呟く。
「じゃあ私にどうしろって言うの、もしこんな事があの人に知られたら……。大体私はこんな面倒事を抱えた――」
見るからに派手な出で立ちで、綺羅びやかな人生を謳歌し、甘い汁だけを啜って寄生してきた人なのだ。努力や理不尽などとは無縁で生きてきたからこそ、僕のような人間はさぞ扱いづらい人種に見えているだろう。持て余す厄介者、自宅でも極力関わらず、衣食住だけ提供しておけば文句を言わない。だから放っておいたのに、まさかこんなことになるなんて……。もしこんな事が父にでも知れたら、複雑な状態になるかも知れない――。
「……父さんには適当でいいですよ。どうせあの人は僕より仕事のほうが大事でしょうから」
自分の小声が聴こえたことに気づき、一瞬バツが悪そうな顔を見せたが、僕の発言に気を取り直したのか、咳払いを一つした後「そ、そう? じゃあ……あ、そうだ。部屋で作業中に誤って、怪我をしたって事にしておくわね」と言ってすぐ「だけど学校の件はどうするの?」と聞いてきたので「今は考えたくないので、休学にでもしておいてください」と頼んだ。
◇ ◆ ◇
回診の時間をとうに過ぎて、夕方のオレンジにベッドが染め上げられる頃、片桐先生が「これ、患者さんが持ってきてくれたんだ」と、見知ったドーナッツ店の紙袋を持って来てくれる。ベッド脇の椅子に腰掛け、備え付けの床頭台からテーブル部を引き出すと、紙袋からナプキンを数枚取り出して広げ、数珠のような形をしたそれを僕の方に向けて置いた。
「山崎さんには内緒にね」
そう言う先生の顔は、三十代と聞いているにも関わらず、ずいぶん若いと思わせる表情で自分の分もと紙袋を覗きながらニコニコしている。因みに山崎さんとは、この階の看護師長で、こんな時間におやつなど食べたら……。
――ベッドの反対側に立つ母は、そんな先生をただ柔らかく笑って見ている。僕にとってもここ最近で一番、心安らぐ時間となった。無論忙しい先生だ、毎日ここに来れるわけじゃない。それでもなんとか時間を作っては、こうして僕の身体と心のケアをずっとしてくれる……。
「……学校、休学したんだって?」
「はい。少し時間が欲しくて」
二人でドーナッツを齧っていると、不意に彼がそう聞いてくる。恐らく入院手続きの話の途中で、そんな話になったんだろうと思っていると、最後の一つまみを口に放り込んでから、彼は続きを話してきた。
「うんそうだね、まずは身体の傷をしっかり治そう。それ以外は考えなくていいよ」
そう言って、目を細めてからうんうんと確認するかのように頷いた後、一瞬哀しそうな顔を覗かせて。
「……片桐せんせ――」
「はぁ~い木下さん、検温……って先生?! あ!」
「「……あ!?」」
その横顔が気になって声をかけようとした瞬間、病室のドアが開き、検査道具を乗せたワゴンを押して彼女が大きな声で入ってくる。
「や、山崎さん!?」
その後、ドーナッツの入った袋を見つけられ、残った紙袋の中身を渡して事なきを得た先生は「……一番のお気に入りが」と肩を落として部屋を後にした。
~*~*~*~*~*~*~*~
「……それで、体調の方はどうなんだ」
入院して幾度目かの休日、朝の早い時間に病室のドアを開いて入ってきたのは、仏頂面を隠そうともしない父だった。椅子に腰掛け大きくため息のようなものを吐き出すと、嫌々ながらにそんな質問をしてくる。
……この人は、母さんを失ってから変わってしまった。それまでも仕事一筋で、家庭の事にあまり興味がなかったのは知っている。僕に対しては全く愛情を見せてはくれなかった。別にそれが嫌だとは思わない。産まれてすぐそうだったのだ。だから僕は父の愛情を知らない。……母はなぜこんな人を愛したのだろう? そう思って窓の側に立つ彼女を見やるが、彼女はただ寂しそうな表情をして、父親を見つめている。そんな表情を見るのが辛くて「おかげさまで、傷の方の痛みはなくなったよ」と答える。
「そうか……。で、学校を休学したと聞いたが、どういう事なんだ?」
継母から聞いたのだろう、僕の方をチラと見た後、窓の外を眺めるように視線をずらして理由を問うてくる。
もしここで僕が本音を言えばどうにかなるのだろうか……。父は、父さんは僕の話をちゃんと聞いてくれるのだろうか? いや、どうだろう、僕の通う進学校に進路を決めたのはこの人だ。父の言う通りの学校を受験し、今まで逆らわずに生きてきた。……生きてきたのか? 今はそれは置いておいて、とにかく全て、この人に敷かれたレールに乗ってきた。が、結果として今の僕が出来上がっている。流されてきたことは重々承知しているし、自分の意志がなかったとも言えるだろう。
……でも。
自我すらまともになかった幼少期の僕に何が出来た? 言い訳だ等とは思わない。そう決められて生かされてきたのだ。それしか処世術を知らなかったんだ。母が死んだ時、初めて父に怒りが湧いた。病院には一度か二度顔を出しただけで、家にすら戻らなくなり、結局母は最期の瞬間を僕と二人で過ごした。そんな父を、当時まだ小学生だった僕は許せなかった。泣き喚いて、葬儀場で生まれて初めて父に掴みかかったのを、今も鮮明に覚えている。
そんな父親に、僕の今の気持ちが伝わるのだろか? そんな風に頭の中で色々考えていると、病室のドアをノックする音が聞こえてきた。
「パパァ、まだ時間掛かるの?」
「……いや、すぐ行くよ」
扉は開いていない。が、声の主にはすぐ気がつく。継母の連れ子、由美。その声が聞こえた途端、父は僕への言葉とは違うワントーン上がった声で返事をした後「まぁ、とにかく休学の件は佐江に任せてある。部屋の方も片付けた。あとは――」
結局、彼女の言葉に腰が浮き上がった彼は、適当に僕への指示を済ませると、幾ばくかのお金が入った封筒を差し出し「入り用はこれで済ませろ」と告げ、そそくさとドアの向こうへ消えて行く。
――ドアが閉まる瞬間、その向こうに在ったのは、知っては居るが、見知らぬ『彼ら』の光景。
……それはテレビに映った『笑い合う、微笑ましい家族』そのもで……僕の嫌いな光景だった。
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