True end

第3話





 入院から二ヶ月が過ぎ、腕のギプスも外れる頃、ボチボチ退院の話が聴こえ始めるようになった――。


「……神経の方も大丈夫そうだし、筋力の衰えはこれからのリハビリ次第だね」


 診察室でエコー写真を見ながら、先生がいろいろな所見を説明してくれる。左手首を深く切った僕は筋繊維や腱なども含め、かなり損傷が激しかったそうだ。特に神経までも傷つけてしまい、その修復にかなりの時間を費やして手術が行われた。お陰で、今ギプスの外れた僕の左腕は枯れ木のように細くなってはいるが、神経痛やそれに伴う痺れ症状などもなく、只筋肉が削ぎ落ちた細い腕になっただけ。手首の部分に大きな傷は残っているが、その部分は未だ包帯が巻かれ、患部を直に見ることは無い。……いや、実際包帯交換などで何度も傷自体は見ているが、大きなミミズ腫れのようになっているだけで、ブヨブヨとした肉の皮で塞がっている。


「今だから聞けるけど、よく一度でここまで斬れたもんだね。普通は何度も何度も浅く傷つける「躊躇い傷」が在ってもおかしく無いのに、ただの一回でなんて。大体、こんなに斬れる刃物なんてどうやって手に入れたんだい?」

「……通販ですよ」

「え?! そんなの普通売ってるかい?」

「有りますよ、日用品なんですから」

「日用……って、もしかして」

「はい。普通にポチれましたよ「包丁」」


 そう、僕が腕を斬ったのは只の「包丁」だ。常日頃、家庭で料理に使われている、最も身近な刃物。……ただ、その包丁の種類が少し、特殊なだけだ。柳刃包丁……通称刺身包丁と呼ばれるそれは、片刃で刃渡りが長く細身。故に引くように刃を入れると一瞬で深く斬ることが出来た。


「う~ん、確かに切り口がかなり綺麗だったから、逆にそれが幸いして手術もかなり楽だったけど……もう二度とそんな事に使っちゃダメだよ」

「……はい」

「間を開けない! 本当にそんな事もう二度として欲しくないんだよ。……ねぇ勇次君」


 それまで気さくな話し声だった先生が、始めて聞いたあの声音で、まっすぐこちらに向き直って話し始める。


「……僕はこれでも医者だ。君が想像も出来ない程の『絶望』や『死』を見て来ている。特に僕は整形外科医。事故などの思わぬ災いで、したくもない大きな怪我をした人や、それすら解らぬまま、息を引き取ってしまう人を沢山この目で見、この手で触れて来た。……中には年を経て自分を悲観し、自殺しようとした老老介護のお爺さんやお婆さん。片や、ボール遊びに夢中で道路に飛び出してしまい、トラックに撥ねられた、まだ二歳の女の子……。そして、自分が不治の病だと知り「生きたくない」と君と同じ様に手首を切った女子高生も居た。


 でも僕は、どんなに傷ついていようと、苦しんで居ようとも、絶対に……絶対に『生きて』欲しいと全力で医師として向き合い、救える「命」は救ってきたつもりだ。


 それでも尚、僕の力不足で救えなかった命は多々ある……。だけどね勇次君、君にはまだ幾らでも進む道は有ると思うんだ。逃げたって良い、立ち向かわなくてもいいんだ。……ただ「生きて」居て欲しいんだよ。今じゃなくてもいい、何時かでいい。「死ななくて良かった」と思う日がくれば、僕はそれが一番嬉しいんだ。……だからこれからの事、少し話をしないかい?」



 その真摯な眼差しに。


 その剥き出しの優しさに。


 僕は声を出すことすら忘れ、ただただ大きな雫を流しながら、先生に頭を垂れ、頷き続けるしか出来なかった。




~*~*~*~*~*~*~*~



 退院が翌週に決まった休日の朝、病室には僕と片桐先生、そして看護師長と父が居た。……継母も実は来ていたのだが、着替えの服の入れ替えや書類などの説明が終わった途端、父だけを先生達が残して、彼女は先に帰らせてしまった。



「木下さん……いえ、勇次君のお父さん、お聞きしたいのですが、勇次くんは今回どの様な理由で大怪我をしたと誰にお聞きに?」

「……妻の佐江……ですが? 一体何なんです? 何故妻を同席させな――」

「理由は?!」

「む、息子が部屋で作業をして何か誤って怪我を……した、と……!?」


 父は何故、自分が強い口調で詰め寄られているのか、大体、医師がこんな家庭の事情のようなことに介入してくるのか、そこに神経が言っている様子で、僕の方は全く見向きもせずに、ただ、困惑しながらも聞かれたことには返答している。そうして、僕のを確認して来た時に初めて何かに気がついたようで、父は初めて僕の方を見た。


「……お前、違うのか? なんだ?! 一体何でそんな怪我をしたんだ!?」

「落ち着いてください! 勇次君ならきちんと話しますから」


 口調を荒げ、突然大きな声で僕に詰め寄った父を、先生と山崎さんが肩を掴んで止めて宥めてくれる。そこで父も自分が大声を出したことに気がついたのか「失礼、取り乱しました」と椅子に座って僕をじっと見つめてきた。



 ――その鋭い眼差しに、僕の鼓動は跳ねまわり、喉の奥がカラカラに乾いていく。


 ……あぁ、やはりこの人は息子をそんな冷たい目で見られる人なんだ。



「この怪我は自分で自分の人生を『終わらせる』為に付けましたっ!?」


 言葉を最後まで言いきった瞬間、目の前にチカチカと火花が飛んだような気がした。直後、鼻から噴水のように血飛沫が飛び、口の中も切れたのか、鉄錆のような味が口腔内を占拠する。痛みはすぐに追いついてきた。が、声に出せるわけもなく、僕はその瞬間に希薄な意識を手放した。



◇  ◇  ◇



 意識がふわふわとして、熱に浮かされている様な、真綿に寝そべっているような、不思議な感覚に陥っていると、遠い場所から水の膜を貼ったような音が聞こえてくる。それはなにか大きく叫んでいるようで、判然とはしないが、まるで言い争っている感じがして……っ! そうだ、僕は父に殴られて、そのままもんどり打ってベッドに昏倒したんだった!


「……はっ! むぐぅぅ!」


 覚醒した勢いで体を起こそうとしたが、思った以上に顔面に受けた拳の衝撃が酷かった。目を開けた途端、意識外へ追いやっていた激痛が鼻と言わず、口と言わず。顔全体がえぐられたような酷い痛みに襲われて、その場でただジタバタと足を揺らしていると、直ぐ側で山崎さんの「勇次くん!? 大丈夫? 動かないで! 直ぐに処置をするから」と声が聞こえ、その向こうで叫んでいる声の主に気がついた。


「勇次君の父親でしょ?! なんで、いきなり殴るの?! まずは理由を聞くのが常識じゃないんですか!」

「お前は誰だ?! ここは、息子の病室だ! 大体、理由も何も、どうせこいつがで『自殺』を選んだだけだろう! 折角高い金払って良い高校まで行かせてやったのに、いつもつまらなそうにしやがって! 何が終わらせるだ?! 引っ掻き回されるこっちの身にもなってみろ!?」


 そこにはいつの間にこの部屋に入ってきたのか、日向先輩と父の口論が続いていた。父は流石に彼女にまで手は出していないのだろうが、片桐先生が彼女に覆いかぶさるように、立ちはだかって「薫ちゃん! ちょっと落ち着いて! 木下さんも! まずは勇次くんの怪我を見ないと!」


 そんな混沌な状態で、ただただ痛みで何も考えることが出来ない僕は、悔しくて、腹立たしくて……声も出せずに涙をボロボロ流し続けた。



~*~*~*~*~*~*~*~



「……薫ちゃん、もう自分の部屋に戻らないと」

「……」


 眼の前のベッドで彼、木下勇次君が顔に包帯を巻き付けて眠っている。今日の昼過ぎ、彼の父親に強烈な右フックを喰らってしまったからだ。その瞬間を私は、病室ドアの隙間から覗き込んでいた。いつものように勇次くんとの会話を楽しもうと部屋を訪れた時、由紀恵さんに「今はちょっと立て込んでるから待っててね」と入口で言われ、たまたまそのドアが閉じる時にそれは起こった。眼の前で人が殴られる瞬間なんて見たことがなくて、驚きと恐怖で体が硬直してしまったけれど、ベッドに倒れていく勇次くんを見た瞬間、私はそのドアを力一杯開いて、飛び込んでいた。片桐先生が、勇次くんを殴ったオジサンを「お父さん!?」と呼んでいたので、彼の父親だと気がついたけれど、なんで殴ったのか理由がわからなかった。由紀恵ちゃんが勇次くんを介抱しているのを確認して、私はそのおじさんの前に飛び出し、何故殴るのか、どうして理由を聞かないのかと問い詰めようとすると、激昂したそのおじさんはぎゃあぎゃあと騒ぎ立てながら、意味不明なことを喚いていた。片桐先生が私に気づいて目の前に立ち塞がったけれど、納得なんて出来ない私はずっと先生を挟む形で怒鳴り合っていた。流石にその状況はすぐにナースステーションに伝わり、なだれ込むように沢山の人が押し寄せて、その場は収まったけど。その後、ひどい怪我を負った勇次くんは処置室に連れて行かれ、結局、この部屋に戻ってきたのは鎮痛剤で眠った状態の彼だった。


「……彼は頑張ったのよ、ただお父さんと上手く話ができなかっただけな――」

「そんなの納得できないよ。……勇次君はまだ病人だよ、左腕だってあんなに細くて……なのに、なのにあんなが、勇次くんを殴ったりなんか……しちゃダメなのにぃぃ」


 眠る彼の痛々しい顔の包帯と、枯れ木のように細くなってしまった歪な左腕を見ていると、思わず涙が止まらなくなる。グズグズと鼻を鳴らして愚痴のように話を零していると、由紀恵ちゃんが背中を擦りながら「薫ちゃんは優しいね、彼のことを気にしてそこまで泣いて……」とティッシュを差し出してくれる。


「……あいがど」


 貰ったティッシュで鼻をかみ、流した涙を手で拭うと、視界には彼の痛々しい包帯と、瞑った眦の長い睫毛が何故か、チグハグに見えて私の中の何かが、どくんと跳ねる。



 ――この木はお母さんの木なんだ、だからボクのタカラモノ! だって、お母さんの事、ボクはダイスキだから――。



 広い庭の日当たりのいい場所に、その木は植えられていた。……当時はその名前すら知らず、花も咲いていない唯の葉を茂らせた木だとしか思わなかったけれど、その年の秋にはどこからか、甘い香りが風に乗って、私の暮らす狭いアパートの部屋に届き始めた。初めはこの香りが何なのか知らず、その家で共に暮す叔母に聞くと、彼女の指さした場所に、彼の家の庭の木があった。


「あの木のオレンジ色の花が見える? 金木犀って言うの。この香りはあの木に咲いた花からしているんだよ」



 私の両親は小学校に上がる頃、自動車事故で同時に逝ってしまった。事故の原因は対向車線をはみ出してきた、居眠り運転のトラックとの正面衝突。両親は信号で右折待ちをしていた為に避けることも出来ず、ノーブレーキで突っ込んできたトラックにぶつかって、車は原型を留めない程に破壊され、直後炎上し即死だったろうと後から聞かされた。葬儀に来た親戚縁者は残った私をどうするかで揉め、唯一独身者だった父方の叔母に引き取られて、この家に越してきた。


 両親を失い、いきなり誰も知らない土地へいきなり引っ越しまでさせられ、当時の私は総てを失い、絶望で「失語症」になりかけていた。感情の全てを「」で埋め尽くされ、眼の前の光景は色すら見えなくなりかけて、生きる意味を見つけられなくなって居た。


 そんな絶望の真っ暗な路で立ち止まっている時、同い年くらいの男の子が突然目の前にちょこんと座り込み、俯いた私の顔を覗き込んで声を掛けてきた。


「こんちわ!」


 舌っ足らずな可愛らしい声で、満面の笑みで私の顔をまっすぐに見てそう言われた。


 ……その時の私には、眩しいほどの笑顔や、可愛い声にも反応できなくて、ただ黙ってその子を見返していると、何を思ったのかその男の子はやおら立ち上がり、私のだらりと下ろした手を掴み、またあの笑顔でそう言った。


 ――ボクのタカラモノ見せてあげる!




 ――貴女がなんですね。


 少しだけ開いた窓の側、ベッドとその窓の間に立つ、妙齢で影のない女性に心の中で尋ねると、彼女はふわりと微笑んで、目礼を返してきた。

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