good ending

終話



 入院から二ヶ月が過ぎ、腕のギプスも外れる頃、ボチボチ退院の話が聴こえ始めるようになった――。


「……神経の方も大丈夫そうだし、筋力の衰えはこれからのリハビリ次第だね」


 診察室でエコー写真を見ながら、先生がいろいろな所見を説明してくれる。左手首を深く切った僕は筋繊維や腱なども含め、かなり損傷が激しかったそうだ。特に神経までも傷つけてしまい、その修復にかなりの時間を費やして手術が行われた。お陰で、今ギプスの外れた僕の左腕は枯れ木のように細くなってはいるが、神経痛やそれに伴う痺れ症状などもなく、只筋肉が削ぎ落ちた細い腕になっただけ。手首の部分に大きな傷は残っているが、その部分は未だ包帯が巻かれ、患部を直に見ることは無い。……いや、実際包帯交換などで何度も傷自体は見ているが、大きなミミズ腫れのようになっているだけで、ブヨブヨとした肉の皮で塞がっている。


「今だから聞けるけど、よく一度でここまでもんだね。普通は何度も何度も浅く傷つける「躊躇い傷」が在ってもおかしく無いのに、ただの一回でなんて。大体、こんなに斬れる刃物なんてどうやって手に入れたんだい?」

「……通販ですよ」

「え?! そんなの普通売ってるかい?」

「有りますよ、なんですから」

「日用……って、もしかして」

「はい。普通にポチれましたよ「包丁」」


 そう、僕が腕を斬ったのは只の「包丁」だ。常日頃、家庭で料理に使われている、最も身近な刃物。……ただ、その包丁の種類が少し、特殊なだけだ。「柳刃包丁」……通称「刺身包丁」と呼ばれるそれは、片刃で刃渡りが長く細身。故に引くように刃を入れると一瞬で深く斬ることが出来た。


「う~ん、確かに切り口がかなり綺麗だったから、逆にそれが幸いして手術もかなり楽だったけど……もう二度とに使っちゃダメだよ」

「……はい」

「間を開けない! 本当にそんな事もう二度として欲しくないんだよ。……ねぇ勇次君」


 それまで気さくな話し声だった先生が、始めて聞いたあの声音で、まっすぐこちらに向き直って話し始める。


「……僕はこれでも医者だ。君が想像も出来ない程の『絶望』や『死』を見て来ている。特に僕は整形外科医。事故などの思わぬ災いで、したくもない大きな怪我をした人や、それすら解らぬまま、息を引き取ってしまう人を沢山この目で見、この手で触れて来た。……中には年を経て自分を悲観し、自殺しようとした老老介護のお爺さんやお婆さん。片や、ボール遊びに夢中で道路に飛び出してしまい、トラックに撥ねられた、まだ二歳の女の子……。そして、自分が不治の病だと知り「生きたくない」と君と同じ様に手首を切った女子高生も居た。


 でも僕は、どんなに傷ついていようと、苦しんで居ようとも、絶対に……絶対に『生きて』欲しいと全力で医師として向き合い、救える「命」は救ってきたつもりだ。


 それでも尚、僕の力不足で救えなかった命は多々ある……。だけどね勇次君、君にはまだ、幾らでも進む道は有ると思うんだ。逃げたって良い、立ち向かわなくてもいいんだ。……ただ「生きて」居て欲しいんだよ。今じゃなくてもいい、何時かでいい。「死ななくて良かった」と思う日がくれば、僕はそれが一番嬉しいんだ。……だからこれからの事、少し話をしないかい?」



 その真摯な眼差しに。


 その剥き出しの優しさに。


 僕は声を出すことすら忘れ、ただただ大きな雫を流しながら、先生に頭を垂れ、頷き続けるしか出来なかった。




~*~*~*~*~*~*~*~



 退院が翌週に決まった休日の朝、病室には僕と片桐先生、そして看護師長と父が居た。……継母も実は来ていたのだが、着替えの服の入れ替えや書類などの説明が終わった途端、父だけを先生達が残して、彼女は先に帰らせてしまった。



「木下さん……いえ、勇次君のお父さん、お聞きしたいのですが、勇次くんは今回どの様な理由で大怪我をしたと誰にお聞きに?」

「……妻の佐江……ですが? 一体何なんです? 何故妻を同席させな――」

「理由は?!」

「……っ!? む、息子が部屋で作業をして何か誤って怪我をしたと……!?」


 父は何故自分がこんなに強い口調で詰め寄られているのか、大体何故医師がこんな家庭の事情のようなことに介入してくるのか、そこに神経が言っている様子で、僕の方は全く見向きもせずに、ただ、困惑しながらも聞かれたことには返答している。そうして、僕の怪我の理由を確認して来た所で、やっと何かに気がついたようで、父は初めて僕の方を見た。


「……お前、違うのか? なんだ?! 一体何でそんな怪我をしたんだ!?」

「落ち着いてください! 勇次君ならきちんと話しますから」


 口調を荒げ、突然大きな声で僕に詰め寄った父を、先生と山崎さんが肩を掴んで止め、宥めてくれる。そこで父も自分が大声を出したことに気がついたのか「失礼、取り乱しました」と椅子に座って僕をじっと見つめてきた。



 ……初めて父と目が合ったような気がした。


 ――こんなに弱々しく怯えるような目をしていたのか?


 父は、もしかして強い人ではなかったのか。……もしかして、あの日から父、父さんは僕から逃げるために目を背けていたのか? 


 母を失ったあの日、僕が父さんに掴みかかって言い放ったあの日から……。



 ――お父さんは、僕やお母さんが嫌いなの?! 何故、お母さんが痛い痛いと言ってる時に、一緒にそばに居てくれなかったの?! ねぇ! どうして?! どうしてなの?! お父さん! お父さん!


 あの日、あの時、父さんは何も言わなかった。一切の言い訳も、自己弁護もなく。葬儀場で、僕の大きな泣きわめく声だけが響き渡っても、父さんは留めることもせず、只黙って僕に言われるがまま、僕にズボンがしわくちゃにされるがまま、じっとそこに立っていた。



 ――だから僕は、貴方父さんに嫌われているのだと思っていたんだ。



「……この傷は、自分の『命』を捨てようと思い、部屋でつけたもので――!」


 最後の言葉を言い切る前に、左の頬に熱が奔る。たれたと気づくのには少しだけ時間的差異が生じてしまった。一瞬で脳が揺れ、目の焦点が合わなくなってしまったからだ。僕はそのまま声も出せずにベッドに昏倒すると、ビックリして慌てた先生達が「勇次君!?」と大きな声で僕に駆け寄ってきてくれるが、正直すぐに追いついてきた痛みと衝撃で声も出せずに悶絶してしまう。


「ちょっと何してるんです――」

「馬鹿野郎! お、おま、お前まで失ったら、俺は、俺はァァァ!」



 父は、大声で泣きながらそう叫んでいた。



◇ ◇ ◇ ◇




「……俺は上手く気持ちを伝えることが出来ないんだ。乃秋のあ……お前の母さんが入院した時、少しでもいい病院に入れたくて、手術をしてくれる所をずっと探していた。……ただ、あの頃はまだ俺も若かったから……金が必要だったんだ。其の為に必死で働いて……結局間に合わせられずに、あんな事になってしまった。……だから、お前にあんなふうに責められても、言い返すことなんて出来なかったよ。まだ幼稚園のお前が、泣きじゃくりながらズボンを必死に掴むんだ。抱きしめることも出来ず、ただ責められて、ずっと自分を責めてきた。次は間違わないようにと思って、進む道も決めてやり、学校にも行かせたつもりだった。片親だと言われてはいけないと思い、知り合いに頼んで佐江を紹介してもらった。……でも、結局全部、俺の独り相撲になってしまってたんだな」


「僕の方こそ、あの時父さんに嫌われたんだと勘違いしてしまった所為で、今の僕が出来上がってしまったんだと思う。……もっと早く、父さんに相談するべきだった」


「それはお互い様だ。俺……父さんはこれからちゃんと勇次と話をする。だから勇次も父さんに話をしてくれ」


「……はい」



 ――その日、僕は初めて父さんと長い話をしたと思う。


 本音をぶつけ合ったからと言って、今すぐ仲良しこよしが出来る年齢でも、仲でもない。当然未だギクシャクとした部分は否めないが、それはそれとして打ち解けて細かい話を始めた。ただやはり、継母や義妹とは相性的に無理だというのは伝えると、寂しそうにしながらも父さんは「そこはもう仕方ないな」と渋々ではあるが折れてくれた。そうして肝心な虐めの話に入ると、激昂し「担任に制裁を加えないと駄目だ!」言い始め、今度は僕と片桐先生で羽交い締める結果になってしまった。


「……君のお父さんって、一体幾つ? 僕仕事上、体力必要で結構ジムとかで鍛えているのに、全然勝てそうな気がしないんだけど」

「え? 確か……今年三十九だったような」

「若っ!? え? まだ三十台なの?! え? 確か社長さんだよね? えぇ!? 何してる人??」

「……建築屋です」

「――っ! 道理でムッキムキなはずだぁ!」


 そう言って仰け反る片桐先生を余所に、何故だか病室の入り口付近で、二人の女性がコソコソと話をしているのが気になって仕方がない。


「……で、先輩はどの様な御用で?」


 先程から気がついては居たのだが、流石に家族の話に入ってくるとは思わなかったので、放っておいたのが仇になってしまった。事もあろうに師長がコソコソと既に要約を話し込んでいるようで、彼女の大きなクリクリの瞳は、輝きを増してキラッキラになっている。……思わず、ベッドに座り込み、大きなため息を漏らした途端、隣で父さんが小声で僕に話しかけてくる。


「……な、なぁ勇次、せ、先生が「腹筋見せろ」とか言ってくるんだが」


 何の話だと思い、そちらに目線を向けてみれば「あ、あのお父さん! そ、その上腕二頭筋はどこに気をつけてトレーニングを!?」等とメガネをクイクイさせながら詰め寄っていた。



「……何このカオス」


 僕はそれだけ呟いて、病室の窓辺に腰を落ち着けると、フワと気持ちのいい風と一緒に甘い香りが漂う。


 隣で母がニッコリと微笑み、僕と父を交互に見てウンウンと嬉しそうに頷いている。



「……やっと思い出したよ、母さんの実家の庭に植わってた木。大きさが違ってたから分からなかったんだ」



 ――母さんが好きだと教えてくれた、あの木が金木犀だったんだね。




 ――勇君、この木はね、お母さんが産まれた時にお爺ちゃんが植えてくれたの。だからお母さんはこの木が大好きなのよ、今はまだ花が咲いていないけれど、秋には小さなオレンジ色の花がたくさん咲いて、とってもいい香りがするのよ。だからまたいつか、この木に花が咲く頃、今度はパパも連れて、一緒に来ようね。




「……ねぇ、お父さん」

「なんだ?」



 ――退院したら、母さんの実家に行きたいんだけど。




 ……まだまだ始まったばかりだけれど、最初の目標は出来た気がするよ。ありがとう、お母さん。


 ――今度は空から見守っていてください。




 ~fin~




 

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