第20話 来栖博士の思い

「私は、ある会社に恩返しがしたかったのだ。私がずっとずっと苦しい研究を続けてこられたのは、私の研究結果がいずれその会社を支える力となり、エネルギーとなることを信じてきたからだった」


 少し顔を伏せ、静かな口調で来栖先生は話を続ける。


「何気ない毎日を送っていたある日の事、私の妻が原因不明の心疾患で倒れてしまってね。情けない話なのだが、あの時は私も仕事が忙しく、なかなか妻の病室を訪ねてやることができなかった…」

「そ、そんなことがあったのですね…」

「お、お気の毒です…」


 まさか来栖先生の奥様がご病気をされていたなんて、僕は全く知らなかった。


「その時、ある会社の人たちが私と妻の元を訪ねてきたんだ。彼らは、病気と闘う人たちの助けになりたいのだと言ってくれてね。それからその会社の人たちは、毎日のように妻の容態を気にかけては彼女の心を献身的に支え続けてくれてね。おかげで妻は病気を克服して、今は元気に日常を送っている」

「そうでしたか、それはよかった…」

「その時だよ、僕がその会社に対して、なにか恩返しをしたいと思ったのは。なにか研究で大きな成果を出して、その権利や名声をすべてその会社に譲渡して、それによって会社が売り上げを伸ばして儲かったなら、きっと会社はさらに大きくなり、さらに多くに人を救えるのではないかと思った。だからこそ私は、毎日必死に研究を繰り返した…。すべては、受けた恩を返すために…」

「…では、その研究の結果たどりついたのが…」

「あぁ、私はついに発見した…。これまで解明されていなかった、4級アンモニウム塩から有機酸が非酵素的に、常温常圧で得られる化学反応、アルケスト反応を…」


 アルケスト反応は、まぎれもない有機化学分野における大発見だった。当初こそあまり騒がれなかったものの、今やその応用性や実用性はいろいろな分野の学者先生から大いに注目されている。


「これで、受けた恩を返すことができる。そう確信した私は、必死になって反応の詳細や実験結果をまとめ上げて、ついにそれらは論文として学会誌に掲載されるに至った」

「…例の事件が起こるのは、まさにその時ですか?」

「あぁ…。今すぐ論文の内容を取り下げろ、さもなくばお前の家族に何が起こっても知らないぞ、と…。中には実験結果は不正に得られたものだと言うものや、私の人格を否定したりするものも…」

「そ、それじゃあその嫌がらせのせいで、研究の意欲がそぎ落とされてしまったと…?」


 恐る恐るといった様子でそう言葉を発する遠山。しかしその考えは間違っていたらしく…。


「いや、あんな低レベルな嫌がらせになど、脅しになど負けるものかと思った。だからこそそれからも、私は必死になって研究をつづけた。…しかし、ついこの間、その嫌がらせを行っていた犯人が判明したのだ。それが…」

「ま、まさか…」


 …それは、決して考えたくなどない可能性。しかしここまで来栖先生を憔悴させ元日があるというのなら、それを説明するには最も高い可能性…。


「あぁ…。私が恩返しを誓った、その会社のIPから書き込まれていることが判明した…」

「な、なんと……」

「そ、そんなことが…」


 ずっとずっと信じていた相手に裏切られてしまう。それがどれほどつらく悲しい事であるか、僕のような者には想像もつかない…。


「…それがわかって以降、もう、どうでもよくなってしまった…。私がこれまで頑張ってきたのは、いったい何のためだったのかと、わからなくなってしまった…」


 全身の力を脱力させ、心の底からがっかりしたような態度を見せる来栖先生。…そんな状態の彼にこれ以上何かを聞くのは酷なことかもしれないけれど、それでも僕は最後にひとつだけ確認しておきたいことがあった。


「…来栖先生、どうかお聞かせください」

「……」

「…その会社とは、リースリル製薬ですか?」

「……」


 僕の質問に、来栖先生は言葉を返しはしなかった。が、ゆっくりとその首を縦に振ってこたえた。言葉で返さなかったのは、いまだ捨てきれぬ会社に対するせめてもの気持ちの表れだったのかもしれない…。


――――


 来栖先生の家を後にした僕たち二人は、横に並んでゆっくりと足を進めていた。


「も、もうさっぱり分かりませんよ先輩…。あの会社は一体なにをしようとしているんでしょう…?先輩の開発した新薬を台無しにしたり、怪しげなお金を動かしたりしたかと思えば、来栖先生に対してあんなひどい嫌がらせをしてたなんて…。い、今でも信じられないですよ…」


 遠山がそういうのも無理はない。僕だっていまだに信じられないのだから…。


「…あんなクリーンな会社がそんなことをするからには、きっとなにか理由があるんだろうけど…。いったいどんな理由が…」


 リースリルが来栖先生個人を嫌っているとは考えずらいから、きっと先生が発見したアルケスト反応が会社にとって不都合な存在なのだろうけど、だとしてもなにがそこまで面白くないのかがわからない…。会社の秘密を暴くでも、信用を下げるものでもない、ただの化学反応じゃないか…。それがどうして…。

 …一度考え始めてしまったら、抜け出せない無限ループに足を踏み入れてしまう。僕はそれを自ら阻止するべく、これからある場所を目指すこととした。


「遠山、僕は少し用事があるから先に帰ってくれてかまわないよ」

「え??なにかあるんですか??僕もご一緒しますよ??」

「いや、それには及ばないよ。僕個人の都合だからね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る