1-5: 帰路とキス


 ナミの『告白』から数日が経った土曜日。


 テニス部の練習もいよいよ本格的になりつつある。先輩たちの熱の入り方に、一部の新入部員たちが徐々に気圧されつつあるように見えてきた。時々返事が遅れると、直ぐさまそれを窘められる。たしかにその程度のことではあるけれど、四月の最初の週と比べればそれは雲泥の差だった。


 平日ならばもうすぐで完全下校の時間帯。まだギリギリ空いていた校内の売店で飲み物を買って、その近くにあるベンチに座って一息。わりと体力には自信があるほうだけれど、今日はかなりキツかった。喉のカラカラさ加減がひどい。


 とりあえず何でもいいから喉を潤したいと思い、目に付いたふつうのミネラルウォーターを選ぶほどには乾いている。もし売店が閉まっていたら、スクールバスでけいりんだい駅に辿り着くまでに干からびてしまうところだった。


「あ、セナだ」


「ん?」


 ペットボトルに口を付けたタイミングで名前を呼ばれる。声がした方を見てみれば、月明かりのような柔らかさでアストが笑っていた。


「部活おつかれさま」


「ありがと。アストも終わったところ?」


「うん」


「じゃあ、アストもおつかれさまだね」


「ありがと」


 ボクも何か買ってこよう、とアストも売店へと向かう。とくに迷うような素振りもなく何かを選んで戻ってきた。何となくアレを買ったのかな、なんて思いながら見ていたけれど、その予想は的中していた。


「ん?」


 アタシの視線に気付いたアストは、頭の上に疑問符を浮かべた。


「ううん。あー、やっぱりそれ選んだなー、って思って」


「あはは。バレた?」


 アストの手にあるのはレモンティーだった。


「わりといっつもそれ選んでるなー、って思って」


「定番だからね」


「そうかなぁ」


「ボクにとっては、ね」


 言いながらアストはキャップを開けるとくぴくぴ飲み始める。遠くの方からアストと同じ吹奏楽部の子たちと思われる集団の声が響いてきた。ふう、とアストが小さく息を吐いた。


「今から帰るところ?」


「うん」


「じゃあ、一緒していい?」


「いいよ」


 断る理由は、特になかった。




      ○




 バス停で次に来るバスを待っている間も、間もなくやってきたバスに乗っている間も、とくにアストとの間に会話は無かった。無言になるのはそこまで得意な方じゃない。だけど、ふんわりとした眼差しで暮れかかった窓の外を見ているアストに声をかけるほど、空気を読めない子になるつもりはなかった。


 その様子を見て、不意に思い出すことがあった。


 そういえばアストは、時々物思いに耽るように窓の外を眺めることがあった。今みたいにバスの中であっても、電車の中であっても、教室の中であってもそうだった。


 とくに今みたいに、夕暮れ時かそれを過ぎるくらいになってからはその傾向が強い気がした。一度、何を見ているの、と訊こうとしたことがあったような気もしたが、それがいつだったかはもう覚えていない。


 何があるのだろう。アストと同じ辺りを眺めてみようとしているが、よくわからない。時々街路樹や街路灯は見えるけれど、だから何だという話だった。


「セナ?」


「ん?」


 名前を呼ばれる。彼はいつも通りのふんわり感。


「どしたの?」


 ――どっちかと言えば、それはアタシのセリフなんだけど。


「別に。……なんで?」


「すっごい真剣な顔してたから。何かあったのかなー、って思って」


「え、何か眉間に皺よってたとか?」


「……ちょっとだけ」


「ウソ!? やだ、マジで?」


 慌てて目と目の間の皮膚を伸ばしてみる。そんなことをして効果があるのかと訊かれれば、そんなことわからないけれど。


 そんなアタシの様子を見たアストは、ぷっと小さく噴き出した。


「ま、わりとウソなんだけど」


「……アストぉ?」


「ゴメンて」


 ふんわりとした笑顔。彼の代名詞みたいな雰囲気。だけど、今そんな顔されたら、場所も場所だし怒るに怒れない。それは、ちょっとだけ、ズルいと思う。


「でも、何か考え込んでたみたいに見えたからさ。何かあったかなぁ、って思ったのはホントだよ」


「んー……」


 考え込んでいたのは、間違っていないかもしれない。思い当たるモノが無いわけではない。――というよりはむしろ、『あのこと』以外には無いと言ってもいいかもしれなかった。


 やっぱりあの日からずっと、ナミから言われた言葉がぐるぐると頭の中を回っている。どうやら『フウマのことが好きだ』とはっきり告げてきた彼女の眼差しに、まっすぐに射貫かれてしまったみたいだ。


 どうしよう。悩む。これはアストに言ってみるべきなのだろうか。


 こういう相談事は聞くことはそれなりにあっても、することはまるで無かったのでいざとなるとものすごく悩む。


 それに、よく考えてみれば、ナミはどちらかと言えばアストといっしょに話している時間の方が長かったはずだった。アタシとフウマが言い合いというかじゃれ合いのようなことをしている時も、アストはナミといっしょにアタシたちを眺めていた。


 アストは、それで良いのだろうか――。


「あの……」


 言いかけたところでブレーキがかかった。窓の外は見慣れた景色、駅前の交差点だった。もうすぐ到着というところで、何人かの生徒が後ろの席から立って降り口の方へとやってきた。


「うん?」


「ううん。……あの、もうちょっと後で話すね」


「ん、わかった」


 さすがにこんな状況で話せる内容じゃないことくらいは解っている。もう少し人がいなくなってから、この話を切り出すことにしようと思った。


 信号が青になり、ようやくバス停へと到着する。後部側の座席から殺到する生徒を眺めつつ、同時に自分の荷物を整えるふりをしながら、大丈夫そうなタイミングを窺う。


「……もしかしてさ」


「え?」


 耳元で囁かれた。普段よりも低い声に聞こえて、ちょっと驚く。


「言おうとしてた事って、ナミたちのこと?」


「……ぅえ? あ、うん。そう……だけど」


 まさか当てられるとは思ってなかった。


「アスト、もしかして知ってたの?」


「うん、まぁ。一応フウマから聞いてた」


 アイツは、アストにどういう伝え方をしたのだろう。ちょっとばかり気になったが、タイミングが良いのか悪いのか、降りていく生徒たちの流れが途絶えた。アストがすっと立ち上がったので、アタシも慌てて彼の後ろにつく。


「付き合うことにしたらしいよ」


「…………えっ」


 事も無げに言い放たれたアストの言葉に、アタシの心臓が跳ね上がった。返事もツーテンポくらい遅れる。


「部活行く直前に言われたんだけど、あのふたり付き合うことにしたらしい、って話」


 言葉が重ねられる。容赦なく。


「……『らしい』って何よ」


「フウマがイマイチはっきり言ってくれなかったんだけど、何となくナミの雰囲気的に」


「そう、なんだ」


 ものすごく心臓がドキドキしている。何でだろう。どうしてアタシの心臓はそんなに焦るような動き方をするんだろう。


 大好きなナミに彼氏ができたのに、どうして――?


「セナ? 行くよ?」


 気付けばアストはもうバスから降りるところ。アタシも慌てて出口を目指す。ラケットケースにくくりつけたスクールバスの乗車証を運転手さんに見せて、ステップを降りようとして――――。


「あっ……!」


 ラケットケースのベルトが降り口の手すりに一瞬引っかかったせいで、身体のバランスが崩れた。あと一段のところでステップを踏み外してしまう――そんなことに気付く間もなく、アタシの身体は前方へと投げ出されて――。


「!?」


 身体に痛みは無い。そういうタイプの『事故』は無い。


 あるのは全身を包む暖かさと、そして――。


「セナ? だいじょうぶだった?」


「え……?」


「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」


 心配そうなアストの声と運転手さんの声で、現実に戻される。


「あ、は、ハイ! 大丈夫でした!」


「気をつけて帰るんだよー」


 苦笑いをアタシたちにくれつつ扉を閉める運転手さん。大きなエンジン音を響かせて、バスは再び学校の方へと戻っていった。


 何となくそのバスの姿が見えなくなるまで見送ってから、並んで立っている彼を見上げる。


「疲れてるんじゃない? 足下覚束ないんだもの」


「そ、そんなこと……」


 上から降ってきたいつも通りの優しい眼差しに、アタシはいつも通りになれなかった。


 それは、フウマとナミが付き合い始めたことを聞かされたせいだろうか。


 それとも――。


 ――アストがアタシを抱きとめてくれたときに、アタシの唇が偶然に触れてしまった、彼の頬の感触のせいだろうか。


 目が離せなくなる。自分が自分じゃなくなっていくみたいな感覚になる。


「行こう。そろそろ電車来るよ」


「……ん」


 アタシだけが動揺しているのだろうか。でも、アタシはいったいどれに対して動揺しているのだろうか。


 また静かに歩き始めたアストの横には、どうしても並べなかった。

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