4-1

「久しぶり」

 入国ゲートから吐きだされてきた人混みの中に、目的の姿を見つける。俺が声をかけると、いつものように右手をあげて彼は答えた。

 ほつれたネルシャツにくたびれたジーンズ、踵の潰れたスニーカー、小脇に抱えたスケートボード。恥ずかしくなるほど懐古趣味に満ちたヒッピースタイルだ。しかしながら、そのラフな見た目からは想像つかないが、どれもかなりのビンテージ品らしい。

「珍しいじゃないか。こんな時期に来日するなんて」

「まぁ、せっかくのお招きだからね。君は相変わらず元気そうでなにより」

 寄ってきた彼、ジーン・マクドネルから差しだされた右手をとり、固く握手する。俺たちと話す時くらいしか使う機会はない筈なのに、日本語は一層流暢になっている。

「お招き? いつもの温泉巡りじゃないのかい?」

「聞いていないのか? 麗しの女神から呼びだしがあったんだが」

 ジーンは不思議そうな表情で俺を見たが、心当たりはない。

 もっとも彼の言う、麗しの女神、が邦香なら、多少突飛な言動があったとしてもいまさら愕きはない。

「とはいえ、この時期の温泉は経験がない。確かに、それも楽しみなんだけどね」

 語りながら、人混みの邪魔にならぬようジーンは歩き出す。

 そうして俺たちは、ひとまずジーンの定宿としているホテルへと向かった。



 『ラクシャス』が国政レベルでの稼働を開始し、この国の政治・行政行為の判断が人の手から離れて早くも三年がたった。

 俺はメンテナンス担当として、日々些細なエラーに対処しつつ、比較的平穏に生活している。

 思えば、平凡な高校の生徒会運営ソフトから始まったアプリが、随分と大きく成長したものだ。

 そんな感慨が、生まれないでもない。

 政治が人の手を離れ、社会は変わったのだろうか。

 プロジェクト推進者の一人として、陰に日向に苦労した身としてなら、やっぱり何かしら変化していてほしい、出来れば世の中がどこか良くなってきた、と皆に感じて欲しい、というのが偽りのない本音だ。

 しかしそれが、開発側の勝手な願望にすぎないことは百も承知だ。

 現実には、職を失ったりなど直接の影響を受けた人を別にすれば、世間の反応は期待していたほどではなかった。激変した、と評価してくれた人もそれなりに居たが、昔とさほど差はない、いや何の変わりもない、と評する人の方が多数派だった。無論、社会情勢が悪化した、という主張も少なくなかった。

 もっとも、それが当然の結果なのも理解している。政治アプリの登場以前でさえ、日々政治ニュースのチェックに余念がない者もいれば、生まれてから一度も選挙など行ったことがない、政治家の名前なんて一人も知らない、と胸を張って語る者もいた。政治への興味と期待の度合いは様々なのだから、アプリが執り行う政治への印象が異なるのも必然だろう。

 元来、『ラクシャス』は何かを劇的に変化させようとするアプリではない。開発者として理解はしているのだ。政治アプリの真価は長期間かけて社会構造を徐々に最適化する能力にこそある。政治の主体が人からプログラムへと入れ替わっても、大して変わらない、と落胆される状況こそ、『ラクシャス』が十全に性能を発揮している証明だと。

 だから、その真の評価はまだ当分定まらないだろうし、ひょっとしたら永久に賛否両論のままかもしれない。

 ただ、世界中に政治アプリが導入されて以降、とりあえず、目立った社会的混乱が生じていないのだけは確かな事実だった。



「なんだ、やっぱり邦香の招待か」

「ああ。彼女も元気なんだろう?」

 部屋に落ちつくと、ジーンはカーテンを開き、眩しそうに街並みを眺めた。

 都心部にある、今となっては多少寂れた感も否めない老舗日系ホテルのスイートルームがジーンの定宿だった。

 湾岸部の外資系ホテルと異なり、スイートではあっても広さはそれなりだし、室内の調度はどこか控えめだ。もっとも決して貧相ではない。勿論、老舗だけあって、値段は外資系ホテルと遜色ない。

 だが、今や世界中で採用されている政治アプリの大半は『ナーサティア』がベースである。殊更強欲な真似をせずとも、一般的なパテント料を受けとるだけで、ジーンは生涯金銭的な不自由を感じないだろう。

「どうだろう。とりあえずは元気な筈だけどな。今、世界のどこに居るのかは聞いてない」

「おやおや、女神はまだ放浪の途上かい? 随分と長旅だね」

 この国で『ラクシャス』国政版が正式に採用されるのとほぼ時を同じくして、途上国まで含めた世界の過半数の国々で、何らかの形で政治アプリが採用されるようになった。

 選挙制度の廃止を見届けた後、邦香は、自分が成した行為の結果を肌で知りたいんだ、と言いだしそのまま一人、世界を巡る旅へと出かけていった。

 以来、三年ほど過ぎたがまだ帰国していない。

「旅人気分なんじゃないかな。学生の頃には、いつかバックパッカースタイルで自由気ままに旅をしてみたい、なんて語っていたから。もっとも、途中何度か一時帰国しているようだけど」

「なるほど。しかし気ままな旅人気分は大変結構だが、本当に彼女は一人旅なのかい?」

 ジーンは頷くと、無造作にベッドの脇にボストンバッグを放りだし、ソファーへと座りこむ。

「政治アプリ成立の立役者にしてはずいぶんと不用心だな。どうせなら、君も一緒にいけばよかったのに」

「俺に言われてもな」

 ジーンの遠慮ない物言いに、俺は苦笑するしかなかった。

「あいつは誰にも相談一つせず、気づいた時にはもう旅だっていた。どうしようもない。それに、国の採用さえ決まれば、あいつにはそれ以上もう何もすることがないが、俺の仕事はむしろ採用されてからが本番だ」

 地方自治版では充分に運用実績を積んでいたし、シミュレーションは可能な限り繰り返したが、国政版はこれまでと比較にならないほど規模の大きなアプリだ。案の定、初期の不具合は大量に発生した。

 だが仮にあの頃、一緒に世界を旅しよう、と誘われたら俺はどうしただろうか。

 『ラクシャス』のメンテナンスがある、と断ったか。それともそんなものは放りだして同行したか。

 邦香が姿を消した後、自問しなかったわけではない。

「なるほど。どうやら、些か配慮に欠けた質問をしてしまったようだが」

 俺の態度を見て、ジーンも苦笑した。そしてすぐ、表情を改める。

「これは別に、君が振られ男だと揶揄したかったわけではなくてね。実は米国むこうでCIA《その筋》から忠告されたんだ。どうやら、世界中には我々を敵視している勢力が予想以上に存在する、と」

 しかも、その内の幾つかは、どうやら実力行使の準備を始めているらしい。

「ここだけの話、今回の訪日にも連中のSPがこっそり何人かついてきているんだ。鬱陶しいから必要ない、と僕は断ったんだがね。今更、僕がどうなったところで歴史は変わりなどしないと」

「おいおい。『ナーサティア』だって、まだ当分メンテナンスは必要だろうが」

「多少トラブったところで、君の『ラクシャス』がどうにかしてくれるだろ」

 当然のようにジーンは断言すると、少し口調を変えた。

「実はそんなわけで、この件に関しての忠告も、今回の目的の一つなんだ。君も、今後は身の回りについて、くれぐれも注意してくれ」

 もっとも、外交ルートでも忠告してあるから、すでに日本の警察ポリスが動いている筈ではあるが、とジーンは言い添える。

「そして、彼女にも伝えて欲しいんだ。途上国にとって政治アプリの恩恵は先進国よりずっと大きいはずだが、その分、政治アプリを厭い、恨んでいる勢力も増大する。そろそろ、一人旅は終わりにする潮時だと」

「邦香がジーンを呼びだしたんだろ? だったらいずれ現れるさ。直接、本人に忠告してやってくれよ」

 あいつが素直に従うかは微妙だが、と内心で独りごちながら俺はジーンに告げた。

「しかし、政治アプリを敵視する勢力、か」

「コンピュータによる統治は、理想的とまではいかなくても、旧来の政治との比較でなら間違いなく効率的で優れている。そして性別、人種、宗教などが理由の不公平を是正し始めている筈だ。政策の一つ一つは地味で、目立ちづらいがね」

 ジーンは誇らしげに胸を張った。

「結果として、それが政治アプリの効果だとは意識されぬままに、洋の東西を問わず、どのエリアでも二一世紀に入ってからの停滞感が払拭されて社会は活性化し始めている。……しかし、それこそが不満な連中はどうしたって現れる」

「逆恨み、か」

 それは当然だろうな、と俺は思った。

「ああ。これまで優遇されていた人々は、相対的に自分が社会から冷遇されていると感じるだろう。世の中全体は活況となれば尚更だ。これは最初から予想されていた事態ではあるが」

 ジーンにとっても、意外ではなかったようだ。

「我々の作った『ナーサティア』や『ラクシャス』は、殊更社会の改革を目指したソフトではない。しかし既存社会における無駄・非効率は当然正し、無意味な特定層への優遇も解消している。結果、職が無くなり路頭に迷う者が生じれば、財産を失う者も現れる。途上国では、これが特に顕著だ」

「とはいえ、失われた職以上に、新たな勤め先が生じているはずだ。失業率は全世界的に改善しているよな」

「勿論、社会が順調に回りだしているのだから仕事には事欠かない。喜んでか否応無しかは別にして、大半は次の仕事についているよ。とはいえ、労働を軽蔑していたり、働かずに富だけ詐取するのが当然だと考える輩は、どんな社会にも寄生しているからな」

 途上国では特権階級、先進国では投資家とか、資産家とか呼ばれていた連中だよ、とジーンは指摘した。

「政治アプリが稼働し始めてから、投資という営利行為は事実上消失した。有望だと判断した投資先には真っ先に国が資本投下して、利益を国家で独占してしまうからな。金持ちがネットワークを利用して儲け話を身内で独占、なんて真似は不可能になった」

 事業投資だけではない。金融商品や為替、債権などでも政治アプリの指示の元、体制側が儲け続け、機関投資家や個人投資家は負け続けた。結果、わずか三年で超富裕層はかなり縮小し、今後もさらなる減少が予想されている。生き残るのは、本人が極めて有能な一握りだけだろう。

「そもそも、連中は世の中で一番、代わりがきく存在だった。一千万、投資する者が九十九名破産しても、十億投資する者が一名存在すれば社会的には支障がない。十億投資する者を百名破産させても、一千億、国が代わって投資すれば何ら問題は生じない」

 もっとも、この状況には批判も多い。いわば賭博に胴元が参加しているも同然だからだ。しかも出目を調整可能なギャンブルでだ。

 とはいえ、これまでも体制側の投資は認められていた。人間が政策を決めている間は社会を都合良くコントロールなどできず、また政治家からの個人的要求による恣意的な投資も少なくなく、国側が必ずしも勝たない、というのが現実だったからだろう。むしろ多くの場合民間投資家による予測の方が正しく、国家資本の投資をカモにしていた。

 そのため『ラクシャス』も当然、国の投資が違法である、などとは判断せず、有望な分野に投資を済ませてから、政策的にその産業を栄えさせる、という手法で大いに利益をあげては国庫を潤していた。

「予想どおり、一般社会での政治アプリへの支持は、消極的な者も含めればそれなりに高い。貧困層の救済に不満を抱いていた中産階級の一部も、自分たちが経済的にランクダウンしていく将来を暗示されて以降は大半が黙りこんだ。しかし富裕層の一部からは今も激しい反発がある。一生遊んで暮らせる筈の我々が、労働をせねばならぬ状況に追い込まれている。なぜこんな世の中になってしまったのだ、とね」

「一生の間に少しくらい、働いてもバチは当たらないと思うんだけどな」

「『ナーサティア』も『ラクシャス』も、基本的には社会を効率化する。同時に社会を維持するためのコストを均等配分する方向で政策を進めている。……合理的な社会で全世界の人々が公平に労働を分担したなら、理論上は、皆が週に二日ないしは三日も働けば充分な筈なんだ。それだけで充分に人類は社会を維持、発展させることができる。後の五日間は世界中の人々が食べて遊んで、ハッピーに過ごせばいい。社会構造がその領域まで整理されるには、当分先の話だろうが」

 政治アプリが国政レベルでの稼働を始めて三年。今のところ、『ラクシャス』も『ナーサティア』も、国を治めるための方法論は、安定的で効率の良い社会を目指す方向のようだ。

 効率が良い社会、とはつまり生産性の高い社会、でありそのためには非生産的な公共投資や不要な職業の労働者を減らす必要がある。

 例えば、貧富の差と、犯罪の発生率との相関関係はすでに二〇世紀に証明されている。なので収入格差を一定の範囲に収めれば犯罪が減り、防犯システムから警察官まで、治安維持のための社会コストが削減できる。

 合理的な行政運営のもと、国民の格差が縮小すると、より社会は合理化が進む。そして周囲の国が合理化――生産性を高めている以上、経済的な敗北を避けるためにも、政治アプリはひたすら自国の社会の効率化を進めざるを得ない。

 政治アプリの視点では、国を動かす高級官僚より、道ばたで手作りのシルバーアクセサリーを売るヒッピーの方が、より生産性の高い存在だろう。政治アプリでは代行できない、人でなければ実行不可能な労働だからだ。

 結果、役人や投資家、資産で暮らす富裕層といった従来なら労働には縁遠かった人々も、より生産に寄与する分野で働かざるを得なくなる。彼らが働き、そこで発生した富が公平に分配されるならば、さらに人々の平均労働時間は短くなる。

「今後二世代から三世代、時間にして半世紀程度かければ、社会の大部分が最適化されて今より遙かに無駄が減り、人々の労働時間は短縮する筈だ。もっとも、永遠に理想の状態へと至ることはないだろうが」

「それは『ナーサティア』での解析結果か?」

「いや、PCでのシミュレーション結果を踏まえての、ごく個人的な直感だよ。あのアプリは、そういう判りやすい将来像など示してはくれない」

 我ながら、融通の利かないアプリを作ったと思うよ、とジーンは笑った。

「『ラクシャス』の分析ではどうだい?」

「生憎、ウチのには、将来を予測する機能自体まったく実装していないんだ。とはいえ労働時間とその偏りはどちらも減少させていくべき変数と認識しているだろうからな。方向としてはおそらく『ナーサティア』と大差ないだろう」

 稼働してまだ三年とはいえ、社会の均衡化・安定化の兆しはすでに現れている。

「もっとも、格差が縮小して犯罪が減って、世の中が安定してそれで万事めでたしめでたし、では済まないようだけど」

 一見、『ラクシャス』の治世は順調だが、順調であるが故の問題点もその陰では見え始めている。

 俺がぼやくと、ジーンも心当たりがあるのか、神妙な顔になった。

「それはまぁ、何事においてもそうだろう。たった一つの処方箋で万事解決、というわけにはいかないさ。そもそも、政治が原因でない社会問題に対してはまったく無力だしな。最近、従来とは異なった理由で政治アプリを拒否する勢力が生まれつつあるのも、相応の理由があっての事だ」

 そう頷くジーンと、互いに顔を見合わせて、小さく笑う。

 本当に、何事も万事都合良くは収まらない。お互いに苦い笑みだった。

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