先生

 メンタルクリニック、待合室では静かにピアノ曲が流れている。長椅子に一人腰掛けながら、自分の順番を待つ。

『一時間ほど遅れています。外出の際はお声掛けください』

 受付に掲げられた立て札はいつも嘘吐きで、毎度二時間は待つ。その間、私は本を読む。本を読めるようになるまで、何度このクリニックに通ったことだろう。最初は、文字を文字として認識することすらできなかった。目が滑る、というより、私には文字一つ一つが画か何かのように見えた。象形文字のような、壁画のような、不思議な何か。その頃は、音楽も、音と音の繋がりの意味がわからなくなっていた。だから、ただじっと二時間座って、診察の順番を待っていた。

「がんばりすぎたんだね」

 二時間待って、大方の話を聞いた担当医はそう言っていたけれど、頑張りもしない私に何の価値があるというのだろう。

 ずっとそう思っていた。両親は教師で、私もそうなることを望まれて、実際に小学校の先生になった。

 二十七のとき、同じ学校の、六年の受け持ちの先生と恋仲になって、そのころ私は三年二組を担当して、おかしくなりそうなくらい忙しく、狂ってしまいそうなほど異常な日々に必死に食らいついていた。「税金払ってやってんだから」とかなんとか、いかれた理由で給食費を払わない親、授業中に「先生ってブスだよね」と大声を出す衝動性の強い女子生徒、子ども同士の他愛ない言い合いに対して、被害者ぶる親に「相手を転校させられないなら、先生のせいなので、殺しに行きます」と言われた日には面食らった。校長に相談したら「口先だけのことだから、ね、ほら」と鼻で嗤われる。その日の帰り、校門の前で、黒い革の鞄の中に片手を突っ込んだ、先ほどまで電話口にいた母親が、

「名城先生、わたし、ちゃんと、言いましたもんね。約束、しましたもんね。約束、守りましょうね。大人ですから、ね」

 と、焦点の合わない目で、首を絞めるような手つきのままゆっくりと近づいてきたこともあった。


 クラスは言うことを聞かないガキばかりで、奴らは、

「名城先生って脱税してるんだって。お母さんが言ってた」

 と、馬鹿みたいな嘘で、言葉の意味すらも知らない話で盛り上がる。

 同じ教師の恋人は、

「アスカは真面目にやりすぎだよ。もっと適当でいいんだ。子どもなんて放置してたって勝手に育つ。俺らは“授業”さえまともにやればいいんだから。“教育”とか“躾”は本来家庭でやることなんだよ。俺だって『先生、息子の箸の持ちかた早く直してあげてください。大人になって恥をかくのはあの子なんですよ』なんてクソみたいなこと、平気で何度も言われるよ。本当、頭の悪い親だと思うよ。お前の子どもだからまともに箸も持てねえんだろ、テメエが覚えてテメエで教えろよって、大声で言ってやりたくなるときもしょっちゅうだよ」

 そう言って、たこわさを舐めるように食べながら、日本酒を飲んだ。職場が同じだと、自然と会話も仕事の話になる。

 付き合って三年半。同棲の話も、婚約の話も、親や友人に会わせるという話すら一切出やしない。私はこの人の何なのだろう。私の部屋で、もはや習慣化されたセックスをし、天井を眺めながら思う。気持ちよくも、なんともないな。彼が達する。やっと眠れる、と思う。

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