夢を見ていた。

しろすけ

夢を見ていた。

 八月。鬱陶しい日差しが肌を焼く。じっとりとした嫌な汗が服にくっつき、おそらく、10歳ほどであろう少女は煩わしげに身を捩った。しかし、カンカン照りのベンチの上からは動かない。座ったときはあれほど熱かったベンチも、今は気にならないほどぬるくなっている。


 いつからこうしていただろう。



『 ”シツゴショウ” です』



 不意にその言葉が脳内をよぎってからだろうか。



『あんた、言葉が喋れないビョーキなんでしょ?』



 虚ろな目は夏の青空を映していた。大きな入道雲が視界の右端から迫ってきていた。


 額から汗が流れ、右目をかすめ、少女はぱちぱちと瞬きをした。そこでようやく、視線を落とした。


 鉄棒、すべり台、うんてい、ブランコ。ところどころ剥げているが、色とりどりに塗られた遊具たちが、「青空なんかよりもぼくたちと遊ぼうよ!」と、誘惑してくる。


 暑さなどものともしない勢いで、子供たちが笑い合いながら少女の目の前を走っていく。彼らの横顔が、汗が反射してキラキラと光って見えた。



「あのっ」



 一瞬、誰の声か分からなかった。子供たちが足を止め、一斉にこちらを見て、怪訝な顔をして初めて自分が発した声だと気がついた。同時に、自分が立ち上がっていることにも気がついた。


 きっと、同年代か、それより下だろう。彼らは次の言葉を待っている。自身の行動に違和感を覚え、だが、口は、混乱する少女の意思とは関係なく勝手に動き始める。



「私も一緒に遊んでいい?」



 悩んでいた先刻までが馬鹿馬鹿しく感じるほどすらすらと言葉を形取ることができた。歓喜に体が震える。


 しかし、違和感と矛盾がむくむくと膨れ上がっていることにも気がついていた。


 子供たちは顔を合わせ、にっと笑った。無邪気で純粋な目が少女に向く。それだけで心の奥底が沸き立つ。



「いいよ!」

「あそぼ、こっちこっち」

「鬼ごっこしよ〜」



 ああ。


 自然と笑みがこぼれる。笑ったのはいつぶりだろう。こんなに幸せなのは、いつぶりだろう。


 肌を流れる汗も今は心地よい。蟬の声も、虫が跳ねる音も、木の葉を揺らす風も、全部合わさって一つのメロディーと化し、少女を祝福していた。すべてが少女の味方に思えた。


 これは。


 これは、


 夢だ。





 目の前が真っ暗になった。否、少し赤い。真夏の太陽の日差しが瞼裏を焦がしている。ゆっくりと目を開く。


 飛び込んできた光に目を細める。その奥に、鮮やかに染まった見覚えのある遊具たちが並んでいた。


 蟬の大合唱は不協和音を極め、思わず顔をしかめた。耳朶をがんがんと打つ不愉快な曲はもはや耳をふさいだところでどうにもならず、早々に諦める。


 生ぬるい風が汗でべとついた髪を撫でる。空を見上げると、先程の入道雲が青空の半分ほどを埋め尽くしていた。


 やはり、いつの間にか眠って夢を見ていたらしい。負の感情が蓄積する。下唇を噛む。


 幼い声がして、逃げるように視線を移す。


 夢で見た光景とは違い、子供たちはボール遊びをしていた。一人の手が滑り、大人の顔ほどある大きさのボールが少女の足元まで転がってきた。



「ごめんなさい、とってー!」



 ボールを両手で掴み、砂を払いながら立ち上がって、彼らの元へ歩き出す。


 てっきり投げて渡してくれると思っていたのだろう、少女に声をかけた少年は両手を構えていたが、やがて意図を察して駆け寄ってきてくれた。



「ありがとう!」


 

 唐突に、いや、必然的に夢がフラッシュバックした。状況こそ違うが、今日は、今日こそが、その日なのだ。きっと、そうだ。



「…………っ」

「……?」



 一緒に遊びたい。


 心の中ではいくらでも言えるのに、いざ言葉にしようとすると喉元で霧散してしまう。言葉と言葉が離れていって、それらをつなげようとすればするほど、ますます頭がこんがらがり、パニックになって、喋れなくなる。


 柔らかいボールに爪が食い込んだ。


 たった一言。


 一緒に遊びたい。


 言って、ボールを渡す。自然な流れだ。


 さあ!


 はやく!



「たいちょうわるい?」



 顔を覗き込んできた少年に虚をつかれ、なんとか紡ぎ合わせていた思考がバラバラに崩れ去った。どこからか車のクラクションが聞こえた。



 まただめ?



 半ばボールを押し付けるようにして渡す。そして、何もかもを振り切るかのように背を向けて走った。背後から何か聞こえたが、砂を蹴る音と自身の荒い呼吸に邪魔されて聞き取れなかった。聞き取れたとして立ち止まることはなかっただろう。



 どうして、どうして?



 公園を出て、空気が捻じ曲がるほど熱されたコンクリートの上を駆ける。


 住宅街に入ったところで視界がぐにゃりと歪み、フィルターがかかったかのように滲んだ。


 覚束ない足取りの少女は電柱に手を突いて荒い息を整えた。


 汗が滝のように吹き出し、涙と混ざる。


 背中を丸め、嗚咽を漏らし、今にも崩れ落ちそうな少女を嘲笑うように、虫たちが耳障りな旋律を奏でる。その崩壊した旋律の間をかいくぐるようにして、再びどこからともなく車のクラクションが聞こえた。


 跳ねるように顔を上げる。道路のずっと奥まで家が立ち並び、反対側も同じだった。少女以外誰もいない。もちろん、タイヤが地面を擦る音さえ聞こえない。


 あれほど騒がしかった合唱団が嘘のように静まり返っていた。


 もう一度、今度ははっきりとクラクションが鳴った。それは少女の記憶の中からだった。



 ▲



 半年前。二月。まだ寒い時期だった。


 お気に入りの赤いマフラーを膝にかけ、暖房が効いた車内で少女は揺られていた。窓に張り付き、何度も通ったことがある景色をまるで初めて見るかのような表情で眺めていた。家族と毎日のように通っている公園が見えたと思うとあっという間に後ろに流れていった。



「何食べよっか、ね」



 助手席の母が振り向き、少女に向かって微笑んだ。窓から体を離し、



「ミートソースのパスタ!」



 少女は目を輝かせてそう告げた。「ははは」と、ハンドルを右にきりながら父が豪快に笑う。行きつけのファミレスが右手に姿を表した。



「鈴音はいっつもそれだなぁ」

「だって、美味しいんだもん!」



 家族三人、誰も想像していなかった。


 信号無視をした自動車が、まさか突っ込んでくるなんて。この幸せが車もろとも破壊されるなんて。知るはずがなかった。


 まるで自らが被害者だ、とでも言わんばかりにけたたましいクラクションがすぐ横で発せられ、何事かとそちらを向く前に激しい衝撃が体を打った。


 粉々になったガラスが飛び散り、母の悲鳴を最後に、少女は頭をどこかにぶつけ、そのまま意識を手放した。あっという間の出来事だった。



「シツゴショウです」



 病院のベッドの上で聞かされた、自分の症状。脳が怪我をしてうまく言葉を話せなくなってしまったらしい。


 父と母は骨こそ折ったものの、命に別状はなかった。二人は自身の身に起こった不幸よりも、少女を優しく抱きしめ、泣いた。



「リハビリを続ければ喋れるようになりますよ。だから、大丈夫」



 少女は強く頷いた。まだ事の大変さを理解していなかったが、これ以上両親を心配させたくなかった。



 ▲



 リハビリの結果は先の公園での出来事が全てだった。



「…………っ」



 いつまで経っても改善しない状況に、両親は憤ることもせず優しく少女を受け入れた。どこか憐れむような、それでいて慈愛に満ちた目が真っ直ぐに少女を捉え、いつしかそれに息苦しさを覚えるようになっていた。


 いっそ、叱ってほしかった。こんな自分を受け入れてほしくなかった。


 あのクラクションはトラウマとして脳裏に焼き付き、少女をことごとく邪魔した。


 何か喋ろうとすると脳を貫くようなクラクションが横から介入して、あのとき砕け散ったガラスのように、紡ごうとした言葉がばらばらに蹴散らされて散乱してしまう。そうなってしまっては修復は不可能であった。


 不意をつかれるのにも弱くなった。必要以上に驚いてしまい、何度も周囲を心配させた。



「……ぅ」



 か弱い嗚咽に呼応するかのようにポツリと雫が少女の手の甲を打った。見上げると、いつの間にか空は分厚い雲に覆われていた。


 少女は急ぐ素振りも見せず、ゆっくりと歩き始めた。一歩一歩進むたびに雨は勢いを増し、ごうごうと強い風が唸った。



『あんた、言葉が喋れないビョーキなんでしょ?』



 クラスメイトから発された心無い言葉。その後謝罪をもらい、事は穏便に収束したが、これも少女の心にべっとりとこびりついて離れないものとなっていた。



『うつったりしないよね? 喋れなくなるの、イヤなんだけど』



 望んでこうなったわけじゃない。



『鈴音に近づくなー! 声を奪われるぞ〜!』



 過去に憤ったってしょうがないのだ。



 だって、もう終わりにするんだから。



 ゆったりとはしていたが、少女の足先は迷いがなかった。半年前、不幸な事故が起こったあの交差点。全てが始まった場所。


 わざわざ両親が家にいない時間に抜け出してきたのだ。覚悟は決まっていた。


 お気に入りのピンクのワンピースが濡れて肌と密着する。だが、少女は嫌がるそぶりも見せない。


 雨足は更に強くなる。


 両親の優しい色が溶けた瞳が少女を見ているように感じた。ぐっと堪え、振り払うように頭を振る。



 ――ごめんなさい。



 子供たちと元気に喋る、夢の中の自分が少女を嘲笑っていた。



『私。もう諦めるの?』



 夢みたいに喋れたらいいのに。



 ふと思った。数秒経って、少女は足を止めた。頰を打ちつけた雨粒がその輪郭をなぞって半開きになった口の横を伝い、顎から落ちた。


 ただの嫉妬から出た気持ちだった。


 もしも、現実を夢のように捉えることができたなら。


 少女は嘲笑を浮かべ、その考えを一蹴した。


 なんて馬鹿馬鹿しい。そんなことができたら今まで苦労していないだろう。



 でも──。



 中途半端な希望が少女の足を止めたことに変わりはなかった。


 考えれば考えるほど現実味を浴びてくる。憎らしかった夢の中の少女と、雨に打たれる少女の姿が重なった。それは必然に思えた。


 もしかしたら喋ることができるかもしれない。


 試してみよう。どうせ終わりにするなら、何をしたっていいじゃないか。


 少女は空を見上げた。突然の雨に慌てて飛んでいくカラスがちょうど真上を通過した。


 特別なことが起こることもなく、カラスは住宅街の屋根の向こうへと姿を消した。


 そもそも現実と夢を混濁させたことなど一度もなかった。やり方など一つも分からない。


 まずは夢への入り口を作らなければいけない。漠然とそう感じた。


 少女は微睡《まどろ》むような目でもう一度空を見つめた。


 今よりももっと幼かった頃に見た夢を思い出す。まさしく、夢のような光景。



 このになったら。



 念じた。


 刺すような雨粒が少女の顔と道路の上で弾けた。


 雨に目をやられないようにと少女は瞬きを繰り返した。両手を祈るようにして胸の前で組んだ。


 空から降り注ぐ雫がゆっくりに見えた。いつしか雨の音は聞こえなくなっていた。


 今度は、もっと強く念じた。焦ってはいけない。この半年で学んだことだ。



 お願い。



 私に希望を見せて。



 ごつんと少女の頭に何かが当たり、声にならない悲鳴をあげ、後ろに尻もちをついた。


 心臓がばくばくとビートを刻み、少女は荒い呼吸を整える。完全に集中が切れてしまった。


 祈りは失敗に思えた。


 目の前に転がった飴を見るまでは。


 赤色の包み紙の飴を手に取り、驚きのあまり少女は金魚のように口を開けたり閉めたりした。


 そんな少女を待たず、また一つ、二つと固形物が地面をうつ音がして、瞬く間に飴が道路を埋め尽くした。大量の飴が空から降ってきていた。


 両手を開いて、握る。頬をつねってみる。微かに痛みがある。


 ごつん、と再びうなじあたりに衝撃が走り、思わず「いたいっ」と声が出た。



「あ……」



 目を見開く。



「喋れる」



「喋れる!」



 勢いよく立ち上がり、すっかり足場がなくなった道路を踊るようにして、飴と飴の間を歩く。まばらに地面を打つ飴の音が耳に心地よい。



「痛いから、私の上には落ちてこないでね!」



 空に呼びかけると、雲の隙間から漏れ出した日光がきらきらと光って反応した。すると飴が少女を避けるようにして降り始めた。


 それは少女を祝う紙吹雪のようだった。地面の上を飛び跳ねる度に笑みが零れ落ちる。せき止められていた半年分の笑顔が溢れ出て止まらない。



「空が飛びたいな、キラキラさん! あと、綺麗なドレスが着たい!」



 またしても日光が煌めき、少女の体がふわりと浮いた。びしょ濡れだったワンピースは突風にさらされたと思うと、純白のドレスへと変貌を遂げ、少女の身体も髪もすっかり乾いていた。



「すごい、すごい!」



 飴の間を抜け、屋根の上まで飛び上がる。それでも止まらず、ぐんぐん上昇する。


 少女は視界いっぱいの曇り空を睨みつけた。少女を祝福するには暗すぎる景色だったためだ。



「キラキラさん!」



 日光―― “キラキラさん” を中心にして雲が真っ二つに裂かれた。すると、青空と星空が混ざった、ため息が出るほど美しい、見たこともない空が広がった。澄み渡った青の隣に紺色の夜の帳が降りていて、そこには天の川が流れていた。満ちに満ちた大きな月が夜の中で人を惑わすほど美しく輝き、青空の中心にはくっきりとした七色の虹が空の端と端を繋いでかかっていた。昼と夜の境界線は曖昧に動き続け、二度と同じ形を取らなかった。



「本当に綺麗……」



 うっとりとその様を眺める。いつまでも見ていられそうだった。


 雲が視界から消えたが、飴はいまだ降り注いでいた。夜が空の半分を覆っていたが、不思議と辺りは明るかった。


 全てが少女の思い通りだった。空中で一回転、純白のドレスをはためかせながら少女は全身で喜びを表した。


 次に話し相手が欲しくなった。やりたいことは山ほどあった。



「しりとり、伝言ゲーム、アルプス一万尺 、早口言葉、そうじゃなくても、いっぱい話せる相手が欲しい! えっと……」



 今度は虹が七色に輝いた。少女はそれ以上に目を輝かせた。



「虹さん!」



 願った瞬間、茶色いものが少女の真横を追い越していった。それは少女の目の前で減速すると、こちらを振り向いた。可愛らしいクマのぬいぐるみだった。同じ流れでうさぎと、ゾウのぬいぐるみが少女を囲んだ。彼らは口々に少女に話しかけた。



「ぼくたちと一緒に遊ぼう!」

「あたし、いっぱいいっぱい遊びを考えたわ!」

「鈴音ちゃんは何がしたい? おしゃべりでもなんでも、何時間でも付き合うよ!」



 歓喜に体が震え、少女はぬいぐるみたちを抱き寄せた。「うん、うん!」と力強く頷く。しかし、あれほど喋れるようになった日のことを想像していたが、いざ喋るとなると何を話せばいいのか分からなかった。



「言葉が出ないや、言葉が出なくて嬉しいことってあるんだね!」

「逆だよ、嬉しくて言葉が出ないのさ」



 ゾウが言った。



「あはは、そうかも! だって、こんなに幸せ!」



 空を背景にぬいぐるみたちと戯れ、その度に笑みがこぼれた。しりとりも、伝言ゲームも、雑談も、全て行った頃には十分な時間が経っていた。満足して地面に着地してからも少女の足取りは軽やかでまるでまだ空を飛んでいるかのようだった。


 続いて少女は平凡な住宅街にふと嫌気がさした。


 幻想的な光景と喋るぬいぐるみたちは日常を忘れさせてくれるが、無機質に立ち並ぶ家々はそうではない。



「やだなぁ、現実味がありすぎる」



 腰に手を当て、頬を膨らませる。


 少女は現実に引き戻されるのを恐れていた。せっかく自由になれたのだ、もっと夢を謳歌しても許されるだろう。


 そのためには現実を示すものを消さなければならない。この世界を夢で満たさなければならない。少女はどこか、そう確信した。



「コンクリートの反対……うーん、ジャングル、とか?」

「いいね!」

「あたしたちも自然がいっぱいの方が楽しいわ!」

「うん! ぼくは色とりどりにして欲しいな!」

「色とりどりね、分かった!」



 ぬいぐるみたちに肯定されて気が良くなった少女は満足気に頷き、再び虹に祈りを捧げた。


 すぐにコンクリートの隙間から細い芽が生えてきた。気づいた頃には幾千もの芽が少女の頭より高く伸び、住宅街の中からは太い幹が塀を破壊しながら姿を現した。


 蔦や蔓がジャングルを繋ぎ合わせ、巨大な木々の葉はあっという間にコンクリートの灰色を覆い隠してしまった。聞いたこともない鳥の鳴き声や、見たこともない動物が足元を走り抜ける様は少女の心を踊らせるのに十分だった。



「飴はジャングルに合わないかな?」



 少女の呟きに、



「元々コンクリートに合ってるかって言われたら微妙だけどね」



 と、クマが返した。少女は「確かに」とけらけら笑い、それを最後に飴は空から落ちてこなくなった。地面に落ちていた飴も半透明になったかと思うと静かに姿を消した。


 木々は成長を続け、空すらも隠してしまった。数千もの芽はそれぞれが鮮やかな実をつけ、ジャングルを彩った。


 火花のように表面が弾けている実をつけたもの、背景が透けるほど薄い葉っぱがカーテンのようになっているもの、シャンデリアのような形をしていて、ほのかに光る実をつけたもの、見たことのない植物たちだらけだった。


 大小様々、何百は優に超えるだろう数々の色がその場に溢れていた。少女は思わず感嘆の息を漏らす。


 間違いなく、今まで生きてきた中で最も素晴らしい光景だった。



「すごい、すごい!」



 もう現実を示すものは無くなっていた。少女は自身が夢の奥底に辿り着いたのだと強く確信した。



「遊びましょう! みて、蔓のブランコ!」



 ウサギのぬいぐるみが空中をぴょんぴょん跳ね、ブランコに乗って楽しげな声をあげた。


 少女たちは時間を忘れて遊び呆けた。


 ジャングルの中で一番高い木に登ってみたりもした。少女は遥か彼方まで続く鮮やかなジャングルを見下ろし、続いて虹と月に挨拶をした。


 ゾウのぬいぐるみが黄色く熟した実を頬張り、あまりの酸っぱさに身を捩る様には声をあげて笑った。


 少女は、声が出るたびに新鮮な喜びが体の奥深くから湧き上がるのを感じていた。



 ずっとこの時間が続けばいいのに。



 だが、そうはいかなかった。



「ぼくたちの他の誰かにも会って喋ろうよ! 喋れるようになったことを言おう!」



 クマの一言が発端だった。



「誰がいいかしら?」

「お友達?」

「いやいや」

「まずは、決まってるでしょ!」



 ぬいぐるみたちは話し合い、少女の方を向いてにっこりと笑った。



「ご両親に会おう!」



 雷が身を撃つような感覚に襲われる。



 どうして今まで忘れていたのだろう?



 両親が、あの優しさが混じった憐れむような目で少女を見ているように感じた。「うっ」と少女は口を押さえる。



「大丈夫!?」



 ぬいぐるみたちが心配そうに少女を囲む。


 ダムが決壊するかのように、それまで封印されていた記憶が一気に溢れ出てくる。



『あんた、言葉が喋れないビョーキなんでしょ?』



 流れ込む現実。



『うつったりしないよね? 喋れなくなるの、イヤなんだけど』



 うるさい。



『鈴音に近づくなー! 声を奪われるぞ〜!』

「うるさい、うるさいっ!」



 心配そうにするぬいぐるみたちを押しのけ、全速力で駆ける。



「鈴音ちゃん!?」

「危ないよ! そっちは――」

「黙って! もう喋らないで!」



 彼らは敵だ。


 現実を流し込んで、この夢を破壊しようとする敵。


 そこで少女はジャングルに異変が訪れていることにようやく気がついた。色彩豊かだった蔓や蔦は茶色く枯れ、青々と茂っていた分厚い葉の層も今やしおれ、空が見えている。幻想的な空は普通の青空に戻り、虹も月も見えなくなっていた。


 背後で木の幹が軋む乾いた音がした。何事かと足を止めて振り返る。ぬいぐるみたちがその身を巨大化させ、周辺の草花を踏み潰し、木々を押し倒していた。彼らの瞳は赤々と光り、少女を捉えていた。友好的な態度は微塵も感じられない。


 背筋に悪寒が走った。



「私が、みんなを敵だって思ったからだ」



 明らかな敵意を向けられ、腰が抜けそうになったが、なんとか踏ん張り、再び背を向けて走り出す。大地を揺るがす足音が少女を追う。


 夢の世界は音を立てて崩れ始めていた。



「だめ、だめ!」



 何度も転びそうになりながら走り続ける。夢の世界へ呼びかける。キラキラさんも虹さんも何処にもいない。先程の願いが最後だったのか、誰も応えてくれない。


 するすると木の合間をくぐり抜けていく少女とは反対に、猛獣と化したぬいぐるみたちは障害物をいちいち薙ぎ倒していかなければならなかった。しかし、その距離は遠くなるどころか徐々に狭まっていた。


 遂にクマの鋭い爪が少女の白いドレスを掠った。生暖かい息が首元に吹きかかる。



「元に戻って! お願い!」



 正面数十メートル、現実によって蝕まれ、腐敗した大木がゆっくりと傾き始めていた。


 休ませてくれと悲鳴を上げる両脚に鞭を打ち、更に加速する。大木と地面の間に滑り込み、間一髪、向こう側へ抜ける。数秒前まで少女が走っていた地面が大木によって押し潰された。


 生臭い、血が錆びついたような猛獣の息が遠くなった。今頃彼らは大木をよじ登っているところだろう。



「お願いだから……! 夢の世界に……、戻して!」



 少女の願いは虚しく空に響いた。既に体力は限界を迎えていた。


 半分泣きながら肩越しに背後を見る。



「嘘……」



 ゾウが長い鼻を巧みに扱い、道を阻んでいた大木を投げ飛ばしたところだった。轟音が響き渡り、衝撃で一瞬体が浮く。


 合計六つの、爛々と光る赤が少女を捉える。



「たすけて!」



 ジャングルはすっかり崩れ去っていた。少女を守る障害物ももう無い。


 中でも一番小柄で機敏なウサギが素早く距離を詰めてきた。追いつかれる。



「たすけてぇ! ママ、パパ! たすけてぇっ」



 涙と鼻水で顔はぐちゃぐちゃになっていた。だが、心のなかではどこか冷静な自分もいた。



 母と父のことなんてすっかり忘れていたのに、都合がいいときに頼るなんて、なんて自分勝手なんだろう。



 視界が滲む。振り払うように目を擦る。



『ご両親に会おう!』



 会いたい。もちろん、会いたい。「喋れるようになったんだ」って言いたい。でも、それはこの夢の世界で良いのだろうか。


 否、良くない。


 じゃだめだ。少女が「喋れるようになった」と言わなきゃいけないのは


 この夢の中で良い知らせを告げたとして、それが、夢が作り出した幻の両親だとしたら意味がない。


 もし現実に戻り、夢の中でしか喋れないと少女が言ったら、両親はどんな反応をするだろう。


 それに、どう転んでも夢が終われば喋れなくなる。また惨めにならない。



 ハッとした。



「結局、私は……」



 ウサギを含む猛獣たちが何故か失速した。一気に距離が離れる。



「私は……やっぱり、死にたくない」



 ビシ、と音がした。見ると、空に亀裂が入っていた。



「ずっと逃げてたんだ。もう逃げちゃだめだ」



 枯れきった蔦を踏む。地平線の彼方まで続く、茶色いジャングルを走る。



「自分は喋れないんだって決めつけて、被害者だからってその立場に甘えてた」



 空の亀裂が広がった。夢の崩壊は近い。だが、もう止めたりはしない。



「勇気を出して、いっぱい頑張って、それでも無理だったらって思うと怖かった。だから、頑張るふりをしてどこか手を抜いてた。できないに理由をつけようとしてた」



 両親のせいにして。トラウマのせいにして。



「しょうがないよね、って逃げるための、私の汚いエゴ」



 二人はそれを見抜いていたのかもしれない。それでも黙って少女を応援してくれていた。優しさが今になって身に沁みる。どうして気が付かなかったのだろう。分かった気になっていたのだろう。



 私は最低だ。



 亀裂が空を覆い尽くす。


 ぬいぐるみたちと遊んでいる時、考えないようにしていただけで薄々と感じていた。心のなかにぽっかりと開いた穴が塞がらないことに。無理やり笑っていることに。


 ここで笑えなきゃ、もう救われない。


 そう思って。


 両親に伝えたいことがたくさんある。もう甘えない。夢の世界にも甘えない。幻想で暮らしていてはいつまで経っても成長しない。



 喋りたい。笑いたい。両親の前で。



「お願い!」



 声を張り上げる。



「現実に帰して!!」



 亀裂から光が溢れ、がらがらと音を立てて世界が崩れた。少女はしっかりと硬い地面を踏みしめた。


 見慣れた風景が目に飛び込む。


 灰色。コンクリートと、薄暗い雲。土砂降りの雨。行きつけのファミレス。交差点。歩行者用の信号機。赤色。タイヤが水を跳ねる音。道路の上。


 刺すようなクラクションが少女を貫いた。



「ぇ……?」



 一台の軽自動車が奇声をあげて突っ込んでくる。運転席の男と目が合った。口と目を大きく開け、焦りが見えていた。数分見つめ合っているようで、実際は数秒にも満たなかった。


 背筋が凍りついた。現状を脳みそが整理する前に息が詰まった。死がそこまで迫っていた。


 あの日と重なる。フラッシュバックする。体が硬直する――。



「鈴音ーーっ!」



 腕を強くぐいと引っ張られ、少女はされるがままに体を傾けた。すぐ目の前を車が通り過ぎ、甲高いブレーキ音を響かせて止まった。「大丈夫ですかっ」先程の男が出てくる。



「怪我してない!?」



 歩道まで移動し、少女の腕を掴んだ主はかがみ込み、叫ぶように言った。母だった。



「…………」



 未だ現状を飲み込めず、少女はただ小さく頷いた。母は目を潤ませ、少女を抱き寄せた。



「ほんとに、ほんとに心配したんだから……! この馬鹿……! 馬鹿……!!」



 母のぬくもりが冷え切った体に広がり、不安も恐怖心も全てが魔法のようにさっぱりと消え、涙がこみ上げる。嗚咽を漏らす。



「鈴音か!?」



 父の声がした。彼は駆け寄り、現状を訊く前に母と少女を一緒に抱いた。



「良かった、良かった……」



 父も泣いていた。いつも明るく、楽観的な彼が涙を流すところを見るのは初めてだった。



「ご……ごめんなさい……」



 二人は少女からゆっくり体を離し、驚いたようにこちらを見つめた。優しさが詰まった目。憐れみなどこもっていなかった。最初からそうだった。



「ごめんなさい……」



 心の奥底から湧き上がってきたものを留めることができず、涙がぼろぼろ溢れた。


 謝っても謝りきれない。



「ごめん……なさい……」



 ワンピースの裾を握りしめ、肩を震わせる。母が両手を伸ばし、少女の頬をそっと撫でた。



「鈴音、いいのよ」



 そのまま母に両頬をつままれ、変な声が出た。



「ふふ、変な顔」

「んむー」



 いつの間にか雨は止んでいた。雲の間から日光が差し込み、母と父の顔を照らす。



「なんだっていいの、鈴音が無事なら、私たちはね」



 頬から手を離し、母は微笑んだ。「鈴音」と父が優しく声をかける。



「よく頑張ったな」



 大きな手で頭を撫でられると、ようやく収まってきていた涙がまた溢れ、少女は二人の腕の中で声を上げて泣いた。



 ▲



 事件も一段落し、少女とその家族は帰路を歩いていた。右手は母、左手は父の手に繋がれ、少女は楽しそうに水たまりを飛び越えた。夕焼けがあたりを明るく焦がしている。


 代わり映えしない風景だったが、母と父がそこに居るだけで、空を飛んだときよりも心が踊り、色とりどりのジャングルで遊んだときよりも世界が鮮やかに見えた。


 スズムシが静かに音楽を奏でている。夕方の柔らかい風が心地よい。



「買い物から帰ったら誰もいないからびっくりしちゃったの。パパに連絡して、ご近所走り回ってたら『たすけてぇ』って声がして」



 少女は驚いた。夢の中で叫んでいたことだ。



「絶対鈴音だと思ったの」

「……ずっと、えと、はなしてなかったのに?」

「私が鈴音の声忘れるわけないでしょう?」



 温かいものが胸の奥に広がる。嬉しくて自然と笑みがこぼれる。父と母もその様子を見て笑顔を浮かべる。



「パパは、かいしゃ、やすみ?」

「そうだな。飛び出してきたけど、今日はこのまま休みにしてもらおうか。鈴音のお祝いパーティーもしなくちゃいけないしな!」

「そうね! 何食べましょうか」



 目を輝かせ、満面の笑顔で少女は声を上げた。



「ミートソースのパスタ!」

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