第52話

 私は多少気が動転していたのだろう。

 青年に言われるまで、お茶のことなど気が回らなかった。


「ごめんなさい、気が利かなくて。どうぞ」

「ありがとう。いただきます」


 青年は一口飲んで「懐かしいな」と言う。


「トマトはまだ育てているの?」

「ええ、一応ね」

「一つ貰っていい?お腹が空いているんだ」

「わかったわ。少し待っていて」


 突然現れた過去の記憶を持っているという青年に、私は戸惑っていた。

 エルヴィンの魂を持っていることは確かだけど、記憶のある人とは初めて接するので、なんだか変な感じがする。

 すっかり青年に主導されていた。


「お待たせ。はい、どうぞ」

「ありがとう。あ、君の分のお茶を淹れておいたから飲んで」

「う、うん。いただきます」


 渡したトマトを手で弄ぶようにしている青年は、私がお茶を飲む様子をじっと見つめてくる。

 真剣な表情になり、この後何か話があるのだろうとわかった私は、お茶を一口飲んでから背筋を伸ばした。


「さっきの話だけど、時代や立場が自由になったのは本当だよ」

「でも王子なのでしょう?年齢的に第一王子ではないの?」

「うん、第一王子だよ。でも、知ってる?この国は長子相続ではなくなったんだよ」

「知らなかった。でも、王子なら義務はあるでしょ?」

「多少はね。でも、あの時代とは違う。立場のために愛のない結婚を強いられても、拒否できる。強く願えばある程度融通が効く。逆に、自分の結婚を好きに決めるための地位を得られる立場とも言える」


 彼の話を聞いて、無意識に期待してしまいそうになった。

 結局私が置いていかれるのは同じなのに。


「……さて!本題だ。今日、ここに来たのは君の願いを叶えに来たんだ。遅くなって、何度も苦しめてごめん。ディアーナ……。もう楽になっていいよ」

「――ッ!!」


 何年ぶりだろうか、青年から慈しむように私の本当の名前を呼ばれた。考える間もなく涙が溢れ出す。

 次の瞬間、胸に激痛が走った。

 息を吸うことも吐くこともできないくらいの痛みに、はくはくと口を開けることしかできない。三百年生きてきて、感じたことのない程の激痛。

 体に力が入らなくなり、椅子から崩れ落ちそうになる。

 体が傾くと、青年が駆け寄り抱き留めてくれた。


「ごめん、いきなりすぎた。……でも、躊躇ったら僕にはできる気がしなくて。なかなか決心がつかなくて会いに来るのにも時間がかかった」


 青年に抱きかかえられて横になる。

 見上げると、私を見下ろす彼と目が合った。

 青年は優しい笑顔を浮かべていたが、目に涙が滲んでいる。


「私、やっと死ねるのね?」

「うん……お茶に毒を入れたんだ……」

「辛い役目をさせてしまってごめんなさい」


 青年はゆるゆると首を振る。


「僕もすぐにいくよ」

「それはだめ」

「自分は残されたほうの気持ちがわからないんだと僕に言ったのに。僕には辛い目にあえって?」


 青年は泣きそうな顔をしながらくすくすと笑って言った。私も精一杯微笑んでみせる。


「指先が冷たくなってきたな……」


 眉間に皺を寄せ、青年は私の手をきつく握りしめる。熱を与えるかのように。


「本当に、覚えているのね……?」

「うん。全て思い出した。初めての出会いから、二度目の僕も、その後も。ずっと一人にさせてごめん。もう大丈夫だ。もう……」


 青年の涙が頬に当たる。

 雨のように私の顔に降り注いでくる。

 まぶたにも涙が落ちてきて目を瞑ると、もうまぶたを開ける気力がなかった。


「ディアーナ、ディアーナ……」と青年が名前を呼ぶ声だけが耳に響いてくる。


(最後に今の名前を聞けば良かった――――)




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