第13話
人が森に踏み入った感覚がした。
しばらくすると、少し雑な足音が聞こえてくる。
振り返れば、鬱蒼とした森の中から伝令係の制服を着た彼が姿を現す。
「いらっしゃい」
「おう、雑草取りしてたのか」
「うん。今日は暑いし、冷たいお茶を出すね」
「普通の茶にしてくれよ」
(そう言われると、苦いやつをおみまいしたくなるじゃない)
苦い薬草茶を出そうかと思ったけど、おでこに汗が滲む軍人を見ていると、いたずら心が消えた。
「はい、どうぞ」
「いただきます――あんたの名前を考えてきたぞ」
喉が渇いていたのか、ぐいっと一気にあおったと思ったら、いきなり訳がわからないことを言う。
「ん?今、なんて?」
「だから、名前を考えてきた」
「なぜ?」
「名前がないのは不便だろ。呼びたいときに呼べないと困る」
「……呼ぶ必要ないし、魔女って呼べばいいって言ったよね。それに、今まで呼ばなくても支障なかったじゃない」
「街中では呼べないだろ。それとも、もう街には行かなくていいのか?」
そう言われると、確かに街で何かあったときに咄嗟に魔女と呼ばれるのは少し困る。
この期間に買い揃えておきたい物もある。
「ルーナ、ってどうだ?」
「…………」
「気に入らないか?結構真剣に考えたんだぞ。あんたに似合いそうな名前を」
「どうして、その名前に?」
「あんたは月の光のような髪をしているし、目の色も肌も薄くて儚い。月っぽいなと思ったんだ。な?良い名前だろ?ルーナ」
「…………」
「え。おい!どうした!?」
軍人の慌てた声と視線で、自分が涙を流していたことに気づいた。
「あれ……?なんでだろう。あれ?あは。なんで、はは……」
「もしかして泣くほど嫌だったのか?それならすまん!もう呼ばない。俺が勝手にしたことだから忘れてくれ」
「ううん!……えっと、自分の名前って久しぶりだなって思ったから、かな」
「なんだ。泣くほど嬉しかったのか。焦った……。ははっ。可愛いところあるじゃないか」
ぐりぐりと髪をかき混ぜるように撫でられ、髪型が乱れた。
乱れた髪を手ぐしで直しながら、涙の意味を悟られまいと抗議するように睨むと、軍人は「はははっ」と上機嫌に笑う。口角がきれいに上がった笑顔。
「ねぇ。もしかして、女性の涙に弱い?」
「はっ?何言ってんだ?」
「だって、すっごく焦った顔してた」
「そっ、そりゃいきなり泣かれたら焦るだろ」
「ふぅん」
少し、仕返しとばかりににやつきながら見れば、むっと不機嫌顔に。
逃げるように、軍人は出口へと向かっていく。
「薪割ってくる」
「あ。ありがとう。私も薬草摘もうかな」
◇
「ルーナ」
「…………」
「ルーナ」
夕食後に片付けの済んだテーブルの上で、昼に摘んだ薬草の仕分けをしていると、軍人が呼んでくる。
ちなみに、今夜ももちろん軍人が晩御飯を作ってくれて、美味しく頂いた。
夕方、来て早々突然名前を授けられたと思ったら、軍人は無駄に名前を呼んでくるようになった。
まだ名付けられて数時間しか経っていないのに、もう鬱陶しく感じるほど、ことある事に呼んでくる。
名前を呼んだ後に何かを言ってくることもあるけど、何も用がないことも多く、面倒くさくて無視している。
「ルーナ」
「もぅ!何よ?」
「ははっ。反応した。自分の名前覚えたな!」
「ちょっと!人をペットみたいに言わないで」
「悪い悪い」
笑いながら、絶対に悪いと思っていない口調で言われる。
人に名前を付けたことがそんなに嬉しいのか、その日は軍人の笑顔が印象的だった。
◇
夜、窓を開けて物思いに月を見上げる。
月を見て感傷的な気持ちになるのは、軍人がいきなり私にルーナなんて名前を付けたせい。
「ほんと、何がそんなに嬉しいんだか。名付けられた私より嬉しそうって。なんでよ。ルーナ、か……」
「名前?」
「っ!」
足音をさせず、気配も感じなかった。
いきなり窓の下から話しかけられて、驚いた。
「ソルったら、音も立てずに近づいて。驚かせないでちょうだい」
「猫なんだから無理だな」
ソルは軽い身のこなしでぴょんと窓枠に飛び乗ってくる。
そして猫らしく、体を擦り付けて甘えてきた。
私も引き寄せられるように、ソルのふわふわの毛を撫で回す。
「そうでした。でも、ソルは話せるんだからもう少しこう――」
「で?名前って何の話だ?」
「え。いや、あのぅ……」
ソルの鋭い視線に、つい視線を逸らしてしまう。
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