ド定番に挑む!溺愛❤短編小説集

鳴瀬憂

❖私と王子の円満な婚約破棄計画

「婚約破棄を前提に、僕と婚約してくれないか」


 そんな馬鹿げた申し出をしてきたのはオルヒデーエ王国の王太子、エミル・オルヒデーエそのひとだった。正直唖然としてしまう。とにかく、分別のある淑女に言うようなセリフではないのは確かである。つまり私、レネ・アルノルト子爵令嬢はよほど分別のない女だと思われているらしい。


 冗談ではない。


 此処は王宮の噴水広場の前で、夜会を抜け出してきた私たちが秘密の会話をしているというところだ。慣れない靴を履いて靴擦れを起こして会場を抜け出た私を追いかけ、エミル王子が気づかわしげにハンカチを差し出してくる。


 それはそう、ロマンティックであると言ってもいいだろう。なにしろ王子は乙女が愛する恋愛小説に出てくるように金髪碧眼で、整った顔立ちをしているのだからロマンスを期待するなという方が無理だ。いくら自分がありふれた茶色の髪に黒っぽい瞳の持ち主だとしても。

 普通ならここから「君を前から好ましい女性だと思っていた」とか口説き文句が始まる場面のはずなのだが。


「実は……ロイス侯爵家のアデーレ嬢から婚約を迫られていてね。僕は彼女とはどうしても婚約したくないんだ」

「はあ、そうですか」


 エミル王子が婚約を嫌がる理由に興味はなかった。どうせ顔が好みではないとか勝気そうな性格が嫌だとかそんなところだろう、と私は推測したが黙っておいた。社交界一の美人なのに勿体ないとは思ったけれど。


「アデーレ嬢が僕を諦めて別の男と婚約するまでの、一定期間だけでもいいから婚約者となってくれる女性を探していた」


 聞いてもいないのにぺらぺら喋り続ける王子殿下から逃げる方法を探していたのだが、あいにく私は足を負傷している。正直もう一度靴を履くのも億劫なほどに痛い。靴擦れとはそういうものである。


「そこで君と出会った――これは運命ではないかと」

「気のせいではないかと思うんですが」


 私の言葉は黙殺された。エミル王子は私の前に跪いて、足の甲にキスをした。待って、普通こういう時はまず手からでしょうが――……くすぐったい。むずむずする。掴まれた足を振りほどこうとしたが思ったよりがっちりつかまれていたので身動きが取れなかった。


「はい、と君はそう言ってくれるだけでいいんだ」

「困ります! 強引すぎやしませんか殿下」


 ふう、と足から手を放してくれたエミル王子はようやく諦めてくれた……わけではなかった。


「財政支援をさせてもらおう」

「な……」


 私はごくりと生唾を飲み込んだ。アルノルト子爵家は当主である父親があまりにも人を疑うということを知らない人間であり、その結果多くの借金を背負い込んでいた。今日私が着用しているドレスは昨シーズン着倒したものを一旦ばらばらにし、裁縫上手なメイドのメアリがひと針ひと針仕立て直したものだった。


 我がアルノルト子爵家は仕立屋で社交シーズン用のドレス一着を仕立てる余裕すらないド級の貧乏貴族……つまりはジリ貧である。頼みの綱である兄は賭博で身を持ち崩し行方知れずになっており、必死になって長女の私と母とで家財を売り払って金策している。


「い」


 私はそんな王子からの提案に。


「いかほどご用意いただけるんでしょうか……?」


 愚かにも飛びついてしまったのであった。






 翌日には「エミル王太子殿下、アルノルト子爵令嬢と婚約か!」という新聞記事が世間に出回っていた。ほんとどこからそういうの掴んでくるのだろうか。

 そのときごくわずかな給金で我が家に尽くしてくれている執事のゲルトが震え声で「お嬢様にお客様です」と言ったとき嫌な予感がしなかった、と言えば嘘になる。


 ででん、と巨大な包みが次から次へと子爵邸の応接間に運び込まれ、あっという間に床が見えなくなってしまった。その中央の長椅子に優雅に座しているのはエミル・オルヒデーエ王太子殿下そのひとである。


 それに応対する子爵家三人はびくびくしながら殿下に尋ねた。


「ええっと、殿下……どうして我が家に」

「君のご両親に挨拶をしておかねばと思ってね。さぞや驚かれただろう、新聞記事を読んで」

「あは……ひどいですわね、ゴシップ誌というのは適当なことばかり書いて」

「いえ? 僕がレディ・レネに結婚を申し込んだのは本当です」


 そのときの両親の顔といったらまあ、鳩が豆鉄砲を食らうってこういう顔なのだろうなあという感じだった。そりゃそうか、質素倹約に勤しむ我が家の一人娘が王太子と婚約なんてありえないものね。


「エミル殿下……あの」


 父母には真実を話しておいた方がよいのでは、と思ったもののすっかり固まって放心状態のふたりには気づかれないように人差し指を口元に添えた。はいはい黙っていろ、ってことね。ようやく石化から解けた両親は恐縮しきりに「うちの娘のことをお願いします」とかしこまっていた。


 挨拶を終え、玄関までエミル王子を送ると――周囲に目配せして二人きりにしてほしい、という合図を送って来た。執事と両親に下がってもらうと、殿下は「君のところの窮状は話には聞いていたけれど」と嘆息した。


「あはは……調度品は大体売り払ってしまいまして」


 あってもなくてもいいけど見栄えがする壺とか花瓶とか、ちょっとした絵とかそういったものは真っ先に手放されたので玄関ホールはがらんとしてさみしい印象だ。家にあるのは生活必需品ばかりで、客用の茶器さえない。


「持参した贈り物は気に入ったもの以外、換金してくれて構わないよ。今度の婚約披露パーティーで着るドレスと、それに合わせた装飾品だけは残しておいてほしい」

「かしこまりました、殿下」

「その『殿下』というのはやめてくれないか……せっかくだし婚約者らしく名前で呼んでほしい」

「ええっと、ではエミル様……でしょうか」


 私がおそるおそるその名で呼ぶとエミル様の顔が、ぱあっと輝いた。うわ眩しい、顔が良いと笑顔が太陽のように眩い光を放つとは知らなかった。


「うん、いいね――レネ」


 そんなこんなでお互いを名前で呼ぶようになり、雰囲気だけは婚約者っぽくなったところで待ち受けていたのだが婚約披露パーティーという難関だった。






 煌めくシャンデリアは魔法灯で、青やオレンジの明かりが床に零れ落ちてくる。宮殿のダンスホールは眩く光り輝き、まるで夜を知らないようであった。王宮主催行事の主役に自分がなろうとはにわかには信じがたかったが、人々の注目を浴びながらくるくるとワルツを踊っているのが現実である。


 視線を送る人々の中にはエミル様が忌み嫌っているアデーレ嬢がいて、いまにもハンカチを食いちぎらんばかりに悔しがっている。そんな目で見ないでよ、私のせいじゃないんですって。大体エミル様が私に声を掛けたのは、偶然、私がこないだの夜会で靴擦れになったからで……なんて言おうものなら、世の女性たちは自分の足に合わない靴を履いてわざと足を痛める者が出てくることだろう。


 いや待てよ、その割にはエミル様、私の家……アルノルト子爵家の状況についてよく知っていたな。目星でもつけていたのだろうか、もしくは。


「あの、エミル様」

「何かな」


 ふんわりとした笑顔を浮かべながらエミル様は首を傾げる。その間もステップを間違えることなく、それどころか私のミスをカバーし続けていた。それにしても完璧なひとだな、まったくもって。


「私達って……こないだの夜会以前にお話ししたことってありましたっけ」

「……」

「エミル様?」


 するとエミル様は、ぼそりと呟いたが聞き取れなかった。


「いまなんと?」

「なんでもないよ」


 優雅な笑みを浮かべて、エミル様は曲が終わるまで完璧に踊り続け――初々しい婚約者たちは拍手喝さいを受けたのだった。






「くそ」


 婚約披露パーティーが終わってからエミルは小さく悪態を吐いていた。案の定、アデーレは隙を見てはエミルに話しかけ「どういうことなのです」と詰め寄って来た。


『我がロイス侯爵家と王家は当初から婚約を決めていたはず、急に反故になさるとは……』

『おかしいな。僕は貴女と婚約などした覚えはないのだけれど』


 しれっとエミルが言えばアデーレは顔を真っ赤にして激怒した。


『いい加減、君の顔を見るのもうんざりだ。消えてくれないかな?』


 冷ややかな声音で言い切り、醒めた眼差しを向けられたアデーレは逃げるようにその場から立ち去った。レネにあたることがなければいいけれど……そう思いながらも、少しぐらい彼女に突っかかられでもすればいいのにと真逆のことを考えていた。


「君が憶えていなければ意味がない」


 強引に婚約に持ち込んだはいいが、自ら定めた期限内に彼女を振り向かせなければ婚約破棄をすることになってしまう。それだけは避けなければならない。もしそのような場合には彼女の爪先にふたたびキスをして縋ってでも、契約は続行させる必要がある。


 そのためにもエミルは策を練り続けなければならなかった。



 子供の頃、宮殿から逃げ出したことがある。


 王太子としての教育は厳しく、幼子にも容赦がなかったのだ。子供は辛いも苦しいのも嫌だ、大人になれば耐えられるというものでもないけれど――いまのほうが自分に嘘をつくのが上手くなったとは思う。そんなこんなでエミルは宮殿の裏の木陰で膝を抱え、ぐすぐす鼻を鳴らしていた。


『あなた、泣いているの』


 そのとき愛らしい小鳥の囀りのような声が頭上から降って来た。その子は宮殿の見学に訪れた貴族の子供のようだった。赤く腫れた目で見上げると栗色の髪の少女がきょとんとした表情でエミルを見下ろしている。

 すると彼女ははっとしたように着ていたドレスのポケットを探ると、真っ白なハンカチを取り出した。


『わたし、ハンカチこれしか持ってなくて、その……よかったら、使って』


 差し出されたハンカチを震える手で受け取る。白いハンカチには赤い糸でレネと刺繍してあった――おそらく彼女の名前だろう。その証拠に「レネどこへ行ったの!」と彼女を探す声が宮殿の前庭に響いていた。


『わたし行かなくちゃ』

『あ……』


 お礼を言う間もなく、少女は走り去ってしまった。まるで風のように。

 エミルは少女の名がレネ・アルノルトであることをすぐに調べた。それ以降彼女が王室の関連行事に出席する機会を窺っていた――窺い続けていた、が、一向にその日は来なかった。ありがとうの、たった一言を言いたい。最初はそれだけだったはずなのに、いよいよエミルはこじらせてしまいようやく会えた彼女にこんな馬鹿げたことを言ってしまったのだ。


「婚約破棄を前提に、僕と婚約してくれないか」


 なんとかこの前提が覆るように、彼女に自分を愛してもらえるように。エミルの闘いは続くのだった。

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