海生人

名桜リア

海生人

それは、神に愛される子どもの物語。神に愛されれてしまった子どもは、決してその運命からは逃れる事はできない。


初めこそ幸せな運命を辿っていた。


しかし、神の悪戯で彼女の運命は翻弄されていく。


苦しみや悲しみに囚われて、辛い試練の中で、必死に生き抜こうとしていく。


しかし神は彼女が海を忘れ、人の世界で生きる事を許さなかった。


必死に生きている彼女に試練を与え続けた。


しかし、どうしても彼女は人の世界で生き続けようとしていた。


それを神は気に入らなかった。


そこで更なる試練を彼女に与える。


彼女はその試練に耐えることができるのあろうか。


これは彼女とその周りの人間を取り巻く、海の神と少女の物語。


彼女は、この運命に抗う事ができるのだろうか。








海がとってもきれー!


あれ?お父さん、どこー?


わ!足に何か当たった!


すごい…すごいすごい!おっきー!なんの生き物だろう?


『海が好きか?』


え?だれ?


『其方、海は好きか?』


うん!海、だーいすき!


『そうか、其方、名前は?』


名前?すよう!!


『“すよう“か。良き名だ。』


ふふん!そうでしょう!


『すようよ。』


なぁに?


『其方が海を愛し続けられたなら、その時はーーーー


なんてぇ?聞こえなーい!


“澄洋“!よかった…!


あ!おとうさーん!


びっくりした…。

探したんだよ、ここにいて良かった。


聞いて聞いて!


ん?なんだい?


あのね、さっきね…お声が聞こえていたの!


声?ここは海水浴場から遠いから聞こえにくいと思うんだけど…。

でも、もしかしたら子ども達の声だったのかもね。


むぅ!違うもん!綺麗な声の男の人の声だもん!


男の人…?

うーん…、もしかしたら夢を見たのかもしれないね。


違うもん!

信じてくれないお父さん、嫌い!


そう言わないで、さぁ、お母さんがカキ氷持って待ってるよ。


カキ氷!?やったー!

お父さん、早く早く!


澄洋、待って!また迷子になっちゃうから、手を繋ごうね。


うん!行こー!









『“澄洋“か…良き名前ね。』


『我らと共にあるのに、“丁度良き“名だな。』


『やっと見つけたわね。』


『あぁ、やっとだ。』


『あの子が“あそこ“を嫌いになるまで…』


『その時まで待たなければ。』


『そうね。その時が楽しみだわ。』


『あぁ、楽しみだ。』




『はやく会いたいな…“澄洋“。』








 漣の音がする。

その音と共に蝉が1週間の命の瞬きを響かせながら、真夏が来たと告げてくる。

蝉の声なんて気にならないほど、波の音が優しく、心を落ち着かせてくれる。

砂や海の温もりを感じたくて、靴と靴下を脱ぐ。

砂浜を少し歩き、波がきているところまで行って足をつける。

足元を濡らしていく海水を静かに見つめていると、冷たいようでどこか温かい、そんな感覚に不思議と心が安らげる。

足元から顔を上げると、そこには広大な水、いや、海がある。

どこまでも広がっていて果てが見えない。

果ては見えないといっても水平線は見える。

そこに太陽が沈んでいって、海の青色をオレンジ色に染めていっていて、とても不思議な感じだ。

日の出の時の色、真上にある時の色、夕日の時の色。

全部違う海の色を見せてきてくれる。

不思議なんだが、両親共に黒い目であるのに私は黒色ではなく、濃い青の目の色をしていて髪の色は黒に見える濃紺だった。

島の人達は海に好かれたんだろうと笑いながら、両親共に受け入れてくれた。

たくさんの人が、私を可愛がってくれた。

船に乗せてくれたり、私のことを揶揄ってくる男の子を叱ってくれたり、海の幸をくれたりと、笑顔で優しく暖かくしてくれた。

でも、あんなに幸せだった時も、気がつけば変わっていたけど。

何をどんなふうに言われたとしても、私は海と同じ色の髪の毛も目も大好きだ。

島の人に嫌われてしまっても。

今はそんな事、考えるのはやめよう。

大事な今の時を大切にしないと。

嫌な思考を頭を振って飛散させて、こうして目の前の景色を見ていると、色んな姿を見せてくれる海が私にとっては心が1番安らげる。

海のことが大好き。

どこまでも広大な海を、見てるだけで幸せになれる。

でも、静かに見ていたいのに、そうできない時がある

海に来た時に思わず、大きな声で叫びたくなってしまう。

何にもかもを吐き出して、消してしまいたくなる。

私が叫んでも、海が受け止めてくれる気がする。

だから、しんどい時は、海にむかって叫ぶのが習慣になっている。

それが今、この時だ。

息を思いっきり吸って肺に空気を溜めて、体を前に曲げて、今出せる限りの大きな声を海に向かって出す。


「あーーーーーーーー!」


体ががビリビリする程、自分から出たとは思えない声を出す。

児玉が聞こえてきそうなほど、大きな声が出た。

山じゃないから児玉なんて聞こえてこないけど。

海岸の近くにある家々にも、聞こえているのではないだろうかとも思う。

でもそんなの気にならないほど、自分の今出せる精一杯の声で叫んでいた。

きっと皆、最初は気にすると思うけど、すぐに気にしなくなるのではないかなと思うから、何も気にしないで声を出せる。

だって人は他人に興味なんて、そうそうわかないと私は思っているから。

それは私だってそうだから。

皆、そうなんじゃないかなって考える。

違うのかもしれないけど。

今はそんなこと、どうでもいいけど。

だって、私にとって海は、母であり、神であり、そして、私の家族であると言い切れる。

海は怖い、恐ろしい、そういう風に言う人もいるのだろう。

でも私は全く怖くないもないし、恐ろしくもない。

どんなに怖い海の生き物も、毒を持っている子でも、広くて深い深い海の中も、私にとっては何も怖くない。

もし、海の中で私に終わりがきたとしても、私はそれを受け入れられる。

どんな事があっても、私は海そのものが大好きなのだ。

そうやって考えながら、私は残りの着ていた服を脱ぎ捨てて、下着だけになって海に向かっていく。

恥ずかしい、なんて事は考えない。

そんなことよりも、早く海の中に入りたいから。

どんどん海の中に入っていって、深い場所まで進んでいく。

そのまま、少し深めのところで息を吸って体を沈めて、海の中に潜っていく。

まぁ、吸ったところで意味はないのだけど。

最初こそ、ただ濃い青い色が広がっているだけだ。

綺麗な景色を楽しみつつも、もっと深いところまで行こうと、ゆっくり下へと潜るように泳ぐ。

しばらく潜って深いところまで行くと、海の中の生き物達とたくさん出会う。

それが嬉しくて、体を前に向かってぐるっと回転させて、嬉しさを表現する。

本来なら、ずっと潜っていると、息が苦しくなっていくものだが、私はそうなったことはなかった。

息ができなくて苦しむことなく、どこまでもずっと潜ってられる。

小さい頃はそんな事はなかったと思う。

いや、小さい頃に何かあったような気がする。

でもなぜだろう。

靄がかかったように、幼い頃くらいの記憶が思い出せない。

思い出したいのに、どうしても出てこない。

大切な記憶だと、本能的に感じているのに。

でも、きっと思い出そうとしても、なぜ私がそうなっているのかはわからないだろうな。

けれど、息が出来るようになれていることがとても嬉しいから、どうしてかなんて、考えることもしなかった。

でもなんでだろうか、息が出来ている事を普通に受け入れることができた。

いつからだったかは、思い出す事はできないけど、気がつけば海が私の居場所になっていた。

最初こそ、波打ち際で遊んでいた程度だったが、気がつけば海の中で泳いでいた。

海に入るのが楽しくなって、普通に泳いで、海から上がってきた後に着替える事なくびしょ濡れのまま家に帰って、濡れて帰っていた事を母親に怒られけど。

海に入るのが楽しくなってからは、海に興味を持って、色んな本を読んで、生き物のこと、海の生まれた理由、海の存在、海の神様、本当にたくさんの事を調べていた。

海について知る事が、調べる事が嬉しかったし、楽しかった。

私は、気がつくと友達を作る事をやめて、海についての本を読む事と海で泳ぐ事に熱中した。

そうしていたら、いつの間にか、私の周りには同い年の子がいなくなっていた。

そんな事など、どうでも良かった。

気がついたら、親すらも1人いなくなっていた。

それすらも、なんの感情も浮かばない。

なんでかわからないけど、居なくなったんならしょうがないと、思っているようになっていたから、不思議だった。

そんな苦々しくも嫌な思い出と大切な思い出を絡めながら思い返して、その記憶を払拭するように息を海の中でしつつ、さらに深いところへと泳いでいく。

海面が少しだけ見えにくくなった位、かなり深いところまで泳いだところで、体を横にひねって上を向く。

そうすると、一面が太陽の光に照らされて、キラキラと光っている水面が見える。

とても美しく、見ているだけで心が洗われるようになれる。

1番、私が愛してる光景。

考えていたことが口に出ていたようで、思わず閉じていた口を開けしまったらしく、口の中から空気がもれ出ていた。

ゴボォッと口から空気が出て行ったけど、それでも苦しくもならないし、水も口の中には入らない。

口の中に、何かの膜が張っているような、そんな感じがする。

普通じゃない、まるでファンタジー世界ようだが、でもこれが私の現実であり、普通の事なのだ。

なぜか、これが変でな事であるとは思わず、ただ現実であるという認識が私の中にある。

どうしてかについては、考えたこともなかった。

現実であって、私の常識でもあるからだ。

上を向いていたのを、体を横に向けて泳ぐ体勢に戻して、ゆっくりと泳いでいると、海の奥の方からクジラが私の体に寄ってきて、ゆっくりと一緒に泳いでくれる。

それが嬉しくて、クジラの体を抱きしめてそっと寄り添う。

私から寄り添っていると、クジラの方も体を寄せてくれて、嬉しくて海の中で涙を流す。

でも、その涙は出ているかも分からない状態で、海に紛れていく。

するとたくさんの魚もイルカやサメも、私に寄ってきてくれる。

どんなに怖いと言われる子達も、私にとっては家族同然。

怖くないから、自分からその子たちに向かって、寄り添っていくし、触れ合いに行く。

幸せなし時間が、私を満たしてくれる。

凶暴なはずの海の生き物たちが、私には優しくしてくれて、寄り添っていく私を受け入れてくれる。

なぜか、毒を持っているはずの生き物達に触れても、私はなんともない。

不思議だとは思う。

でもそんなんだなくらいにしか、考えなかった。

そんなことよりもこのままずっと、幸せな時間が続けばいいのにと願ってやまないけど、そう言うわけにもいかない。

水面をチラリと見ると、先ほどとは打って変わって、オレンジ色になっていた。

海の色がそうなっていると言うことは、そろそろ家に帰らないといけないのだ。

それが、私を憂鬱させる。

でも、帰るしかない。

そう考えて、私はクジラと周りにいた海の生き物達をそっと撫でて、海岸へと向かって泳ぎ出す。





 やっと海岸についた私は、鞄の中を漁って、タオルを取り出す。

タオルでしっかりと体を拭いて、脱いでいた制服を着る。

全ての服を着終えると、靴を最後に履いて憂鬱ではあるが、体を家の方へと向ける。

そのまま、ゆっくりと歩き始める。

でも、足取りはとても重い。

そろそろ、時間的には急いで家に帰らないといけないのに、そうする事が私にはできない。

いや、できないのではなく、やらないとも言える。

本来なら早く帰らないと、かなり自分にとって大変なことになる。

そう分かってはいても、足取りがどうしても重くなる。

どうにか自分の足を鼓舞して、少しづつ早くしていく。

砂浜にある階段を登り、そのまま階段の目の前にある坂道を登る。

少しずつ傾斜が高くなっていく坂道の途中にある細い道がある右側の道に向かって、足を向ける。

細長い道の中を進み、その途中にある小さな古民家。

昔、おばあちゃんが住んでいた家を亡くなった時に譲り受け、私と母親が住んでいる。

祖父は生まれる前に亡くなっていたけど、おばあちゃんはとても私に優しくしてくれていた。

いつも海の話をしてくれて、島に伝わる海の歌も教えてくれてた。

今ではもう、思い出すことも出来ない。

綺麗な歌だった気がする。

できれば覚えておきたかった。

海の歌だったから。

しかも、どんどん島の人が私を阻害していく中、おばあちゃんだけが私に優しくしてくれて、酷いことする志摩の人達を怒ってくれたりしていた。

私の味方だった。

私の目を見て、「キラキラしてて、海そのものの目をしてるねぇ。私は澄洋の目が大好きよ。」と話してくれるおばあちゃんが大好きだった。

そんな優しいおばあちゃんも、ある夏の日に坂道の途中で熱中症で倒れて亡くなってしまった。

小さな葬儀を済ました時、私のせいで死んだのではと、言われた事が忘れられない。

もしかしたら、そうなのかもしれないと、私は思ってしまったから。

だって、島の人達におばあちゃんが阻害されていたのも、私のせいだった。

私が居なければと思う時もある。

でも、おばあちゃんはいつも、私が生まれてきてくれてありがとうと、そう言ってくれていた。

それが私が、生きる事を鼓舞させてくれる中の1つだ。

葬儀が終わった後は、おばあちゃんの家の方が大きいからと言う理由で、この家に引っ越してきた。

改めて、この家に住んでる理由を考えながら、今は母親と2人で住んでいるおばあちゃんの家に、帰ってきた。

こここの家に住んでいるのは、私だけだったなら、どれほど良かったのだろう。

少し嫌な気持ちになりながら、木の引き戸を開ける。

ガラガラと鳴る引き戸の音と一緒に、小さい声で帰ってきた事を伝える。


「ただいま…。」


かなり小さい声を扉の音でカモフラージュしつつ、帰宅を告げる。

音を立てないようにこっそりと靴を脱いで、2階にある自分の部屋に向かおうとした。

しかし、聞こえないと思っていたはずの音と声が、リビングにいた人物には耳ざとかったみたいで、聞こえていたらしく、大きな怒声が聞こえてきた。


「遅いじゃないの!どこいってたのよ!」


家の扉の近くにある部屋の木の枠にガラスが嵌っている引き戸を開けて、私に向かって怒鳴った人物は私の母親だ。

真っ赤な顔をして、鬼のような形相で、私のことを睨んでいる。

出てきた母の手には酒瓶があり、私のところまで漂う酔ってしまいそうな程の酒気にどれだけ酔っ払っているのがわかる。

いつ見ても嫌な酔っ払った姿に、思わず顔を顰めけてしまう。

私のその表情が暗闇の中でも見えたのか、何かを私に向かって投げてきた。

投げる音だけして、なにを投げたのかが見えなかったから防ぐことができず、それが顔に当たる。

その瞬間に割れる音が聞こえたから、きっとこれが酒瓶だったのだろうと、私は瞬時に理解した。

額が痛かったから、多分投げた瓶が額に当たったのだろうと思っていると、目の中に液体が入ってくる。

最初は叫びから出てきたお酒だと思っていたけど、目に入っていた液体が黒かったから、その時にやっと頭から血が出てきたのだと理解した。

私の額にあったらしい、母親が飲んでいたであろう酒瓶の破片を拾い上げて、それを思いっきり握りしめる。

破片が食い込んで、手から大量の血が流れてきていることがわかったが、そんなことなどどうでもよかった。

最近母親は、私に約束したはずのことがあったからだ。

その事を苦々しげな感じを隠すこと無く母親に尋ねる。


「ねぇ…お酒飲まないって、言ってなかった…?」

「うるさいわねぇ、私だって飲みたい時があるのよ。」


しゃくりあげながら話す母親。

たった一つの約束も守れないと言うことに、失望すら覚える。

いつもそうだ。

小さい約束も、この母親は守ることが出来ない。

学校の三者面談に、お酒を呑んで来ないでと約束をしたのにも関わらず、酒気を纏ったまま、学校にやってきた。

先生は流石に呆れていたが、私のことに関心もないのか、今、こんな母親であってもどうでもいいのか、酔っ払った状態の母親と一緒に何もないように面談をするをする事になった。

普通い考えれば、母親を注意するか、私の心配とかをするはずなのに、何も言わない先生に、私は誰にも期待することを諦めた。

そんな母親に私はなんの関心も持たなかったけど、一応世間体のためにここから追い出されない為に母親を何度も説得した。

聞いてもらえる事は無かったけど。

私がこう考えてる間も、酒瓶を持って飲み続けている。

最早、何を言ってるのかすら分からない位、呂律が回っていないから、それほど呑んでいたと言う事だ。

酔ったままの姿に呆れるしかなく、小さくため息を吐く。

耳ざといのか私の吐く息の音を聞き取って、私に向かって怒鳴りつけてくる。


「何よ!その態度!それが親にする態度!?」


そう言いながら、私にズンズンと向かってきて、目の前に立った瞬間に思いっきり私の頬を叩いてくる。

叩かれたところがジンジンと痛む。

普通なら、言い返すところなのだろうが、もう何もかもがどうでも良かった。

殴られたのを気にする事なく、目の前の母親を力強く押し除けて、よろめいた瞬間を見逃さず、近くにある階段に向かって走っていく。

私のその態度が気に入らないのか、後ろで色々言っているのが聞こえくるのと、起き上がるような音が聞こえてきたから、追い付かれない様に、急いで自分の部屋に向かう。

後ろからよろめきながらも私を追って来るような足音も聞こえたが、追いつかれないように必死に走って部屋を目指した。

額や手から落ちる血のことも気にせずに。



 

 左右にある扉を見て、迷う事なく、左の扉を開けて中に入る。

右は、元々はお父さんが使っていた部屋だった。

今は、誰も使われておらず、物置になっている。

物置になっている部屋の前が、私の部屋だ。

自分の部屋に入ったと同時に勢いよくと扉を閉め、ガチャリと鍵をかける。

この部屋に鍵がついていて、良かったと思う。

外で母親が何かを口走りながら、扉を叩いている。

聞こえてくる声は、産んでやったのに恩知らずとか、早く出てこいとか、お前のせいで父親は出ていったんだとか、そんな感じのことを言っているのが、くぐもって聞こえてくる。

どんどん扉を叩きながら、何かを言ってくる母親に苛立ちを覚えて、私は握りしめていた破片を思いっきり振りかぶり壁に叩きつける。

手から血が飛び散ったが、そんなことは今は気にならない。

壁に当たった瞬間にバリンと音を立てて、瓶の破片がそこらじゅうに飛び散る。

荒くなった息を整えていたら、いつの間にか部屋の外が静かになっていて、母親が足音を強く踏み締めて階段を降りていく音が聞こえてくる。

やっと静かになって気を張り詰めていた私の口からは、息を止めてしまっていたのか、ふぅと口から息がもれる。

立ったままでなんの言葉も発する事なく上を見上げた。

父親がどうこうと言っていたが、あれは勝手に父親が浮気して出て行っただけで、私のせいでもなんでないことなのにいつもそれを言ってくる。

母親のせいかもしれないし、ただ好きな人ができたってだけかもしれないし、本当に私に嫌気がさしただけかもしれない。

真相は、父親しか知らない。

ぐちゃぐちゃな考えが浮かんでは消えていき、頬を温かい血とは違う雫が流れていったが、私は気がつかなかった。

しばらくの間そうしていたけど、ふと手から畳に落ちる血の音にハッとなる。

床に散らばってしまった破片よりも、畳に血がついてしまうことが気になって、慌てて電気をつけて、床にどれほどガラスが散らばっているのを確認すると共に、色んなところに散っている血を鞄から取り出したタオルで拭いていたが、拭いても拭いても取れない血に、どうしたらいいかわからずいにいたが、拭き続いているとふと思い出す。

自分が額と手を怪我してて、そこから血が落ちていると言うことを。

怪我に気がついて、服の袖で額の血を拭いて、手から滴る血をタオルで押さえる。

そこからは慣れているから素早く怪我の部分を、すぐにずっと常備している救急箱を取り出して、箱の蓋をあけ、消毒液で消毒してから額の傷をガーゼで隠してテープで貼。

額をそうした後に、手のひらはガーゼを貼った後に包帯で隠した。

やっと自分の怪我を手当てをした後に、まだ床に付いていた血が落ちた畳を血が付いていないタオルで綺麗に拭く。

拭き終わった後に、タオルを近くの机に置いてゆらりと入り口に歩いて行って、扉にもたれかかって、そのま足を伸ばして座り込む。

伸ばしていた足を折り曲げて体育座りになり、足の上に腕を乗せて、その隙間に顔を埋める。

そのまま座り込んでじっとしていると、だんだんと勝手に涙が溢れてきて、小さく嗚咽をこぼす。

昨日、約束していたはずの事すら守らない母に、嫌気がさす。

どうして、たった1つの約束すら、守ることができないのか。

その事ばかり考えてしまう。

いつもそうだ。

もう呑まないって、何度も約束だけするけど、守られた試しがない。

それでも、いつかは私のことを考えてくれて、お酒をやめてくれるって信じていたけど、叶えられた事は一度もない。

それが1番苦しい。

もう悲しいとかそんな気持ちは、なくなってたと思ったけど、まだ私の中にあったんだと嘲笑してしまう。

消えてなくなってたと思ってた。

もう今、消えてしまいたいくらい、辛くて苦しくてしょうがない。

でもきっと、心配してくれる人なんて居ないだろう。

どんな人からも、見捨てられている私を、誰が心配してくれると言うのか。

グッと苦しくなって痛くなる胸を、抑えて下を向く。

しんどくてしんどくて、仕方ないのだ。

味方をしてくれていたおばあちゃんも、もういない。

どうしたらいいのか、もう分からなくなる。

苦しくて仕方ない時には、いつも聞こえて来る声がある。

海から聞こえてくるクジラやイルカ達の声。

本来は、海からはかなりの距離があるから、聞こえてくるはずもない。

ここは海じゃなくて、陸であり、しかも、ここに届くはずもないのに。

それでも聞こえてくる声に、顔をあげて、静かに耳を傾ける。

あぁ…この声こそが、私の求めていた声、私の大好きな言葉。

そう思うと、さっきまで悲しかったはずの気持ちが、幸せな気持ちに切り替わる。

海があって良かった、そう思えた。

なかったら、ここまで生きて来られなかっただろうとさえ思える。

そう考えて、夜ご飯を食べるのも忘れて、ゆっくりと立ち上がって、床に散らばっているガラスの破片を気にする事もなく、足に刺さろうが、そんなことよりも子守唄のように声を聞きながら眠りにつきたかったので、血がついてしまう事があっても痛くても、そんなことな事なんてどうでもよくて、ただ幸せな気持ちで布団に入って寝た。




 次の日の朝、私は血まみれになった制服を着ることなく、もう一つある制服に着替える。

そこで、足が痛い事に気がつく。


(しまった、破片の事を忘れてた。)


思わず面倒臭い気持ちにはなったがやるしかないと自分を奮い立たせて、まずは足に刺さったガラスを痛いながらもゆっくりピンセットで取り除いて、消毒をして昨日のように手当をする。

そこから、散らばっていたガラスの破片を小さな箒とちりとりで掃いていく。

全部取れたか確認して、ちりとりに入ったガラスをゴミ箱に捨てる。

布団の方を見ると、血まみれになっていたが、もう布団の事は諦める事にした。

やっと終わったと思って、時間を確認したら、遅刻ギリギリな事に気がついて、慌てて昨日来ていた制服トア違う制服に着替えて、鞄を持って部屋を出る。

階段を音を鳴らさないように、ゆっくりと降りていった後に、そっとリビングの引き戸を見ると、扉は閉まっていたから、顔を合わせずに済んでホッとする。

きっと、酒を飲んでリビングの床で大の字で寝ているのであろう母親を尻目に、声をかける事なくソッと家を出た。

ゆっくりと扉を閉めた後は、猛ダッシュで学校へと向かった。

必死に走ってなんとか遅刻せずになんとか学校に着くと、遅刻したら教師が五月蝿いから、走ってきたのはいいものの、気が重くなる。

家にいる時も憂鬱だが、学校にいる時も同じように憂鬱な気分になってくる。

私が怪我をしていることとかを気にして、腫れ物扱いをしてくる学校の人たちに、嫌気しか出てこない。

ここでも小さいため息を吐いて、校門をくぐると、好奇の目が私に向けられる。

私がよく怪我をして学校に来るから、(なんでそんな怪我をしてるんだろう。)とか、(もしかして家庭内暴力とか?)とか、(喧嘩してるって噂もあるよ。)こそこそと話ているのが聞こえてくる。

そういう目で見られたら、自分たちだって嫌だろうに、人には向けるんだから笑いしか出てこない。

小さく笑った私に、こそこそ話していた人達も、体をびくつかせてとして逃げていく。

逃げるくらいなら、言わなきゃいいものを。

そう思いながら、学校の校舎に向かう。

好奇の目で見てくる人の中には、私が喧嘩をしているから怪我をしているんだろうと、勘繰ってくる人がいるのは確かだ。

噂話をしているじゃないかと言うのを階段のどこかで話をしているのを、聞いた事がある。

喧嘩なんて一度もした事がないのに。

だからか、私が喧嘩が強いのだろうと思って、喧嘩を売ってくる奴もいる。

そんな奴には、喧嘩を売るように相手に向かって言葉を強くして、かなり強めに壁を殴れば大体逃げていく。

なんで逃げるのに、わざわざ喧嘩を売って来るのか、理解に苦しむ。

壁を殴ると痛いけど、逃げていってくれるんだから、ありがたいことだ。

まぁ、逃げている理由としては、私の目つきが悪いからと言う理由もあるからだろう。

この目は、生まれつきだからっ仕方ないのに、いつも鋭い目つきで睨まれてると勘違いされる。

かなり目つきが悪いらしく、教師にも怖がられるし、島のガタイのいい人にも、何睨んでんだとか言われてしまう。

生まれつきだと知っているはずなのに、なんでどんどん態度が変わっていくんだろうか。

昔は、そうでは無かったと思うんだが。

優しくしてくれてた人も、気がつけば態度が180度変わっていた。

最初こそ戸惑ったものだが、今となってはどうでもいいことだ。

でもいつからどうでもいいと、思い始めたんだろう。

冷たくされた時は、あんなにも悲しく、寂しくなったのに。

その気持ちが、いつも間にか消えてしまっていた。

もうどうでもいいと、思ったんだろうか。

こうして、私の気持ちは消えてしまっていくのだろうかとすら、思い始めてくる。

どんどん冷たくされるようになってからは、前髪を伸ばして、後ろの髪の毛をできるだけ短く自分で切って、鋭いと言われる目を隠すようになった。

それでも目つきが悪いからか、喧嘩を売ってくる奴が後を断たない。

女はそんなに喧嘩に強くないと思っているからの行動だろうけど、ただ目つきが悪いと言うつまらない理由で突っかかってきといて、私の行動を怖がって途中で逃げるんだから、呆れて物が言えない。

しかも、私からは喧嘩を売らないのに、わざわざ向こうからしてくるんだから、馬鹿そのものだと思う。

相手をする人もいないのに、しかも、人工も少ない島だから喧嘩する相手も少ないのに、わざわざ私に喧嘩を売ってこようとするんだから、意味が分からない奴らだと、心の中で馬鹿にする。


「しょうもない奴ばっかりだな。」


口に出して呟いてから、しまったと思う。

独り言ほど、恥ずかしいものはない。

少し顔が熱くなるのを感じながら、先ほどよりも足早になって、すぐそこにある下駄箱に向かっていく。

学校の中で履かないといけない靴がある下駄箱の前に立って、履き替えようとしてると、声をかけられる。

その声は、母親の次に嫌いなやつだった。

後ろから聞こえてきたから、違うやつであれと思いながら、そろそろと後ろを振り返ると、思っていた人物がそこに立っていた。

思わずため息をついてしまう。


「おい、澄洋。」

「はぁ…。」


ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら、取り巻きを従えて、私の名前、島崎 澄洋の下の名前を呼んでくるのは、大庭 晋という、学校の中でも1番嫌いな奴だ。

太っていて、イキっているのか髪の毛を金髪にして、短めの髪の毛で、学校指定の半袖の白いシャツに黒いズボンを身につけて、取り巻きの2人を連れて、汚らしくて吐き気のするダミ声で話しかけてくる。

自分がこの島の町長の息子だから、この島にいられ悪なるんじゃないかって下手に出ると私が思って何も言えなくなると思って、調子に乗っているみたいだ。

いつもそう。

勝手に私をターゲットにして、自分の言いなりにしようとしてくる。

今までのターーゲットは、島で1番の可愛い子だった。

その子には、たくさん庇ってくれる子達がいたから、均衡を保てていた。

なのに、気がつけばターゲットが私に変わったものだから、その保たれていた均衡も無くなって、私の味方をしてくれる人なんているはずもなく、1人で相手をしないといけなくなった。

そんな奴が嫌な目で私を見るようになってからは、学校が更に嫌になってしまった。

今も、名前を呼ばれた事も嫌でしょうがなく、顔を顰めてつつも、無視して靴を履き替えていると、いきなり腕を掴んできた。


「おい!無視するな!俺はこの島の町長の息子だぞ!」


怒ったことを隠しもせずに、私の腕を掴み上げて、唾を飛ばしながら、怒鳴りつけてくる。

汚らしい唾を吐きかけられて、気分がさっきよりももっと、急激に下がっていく。

掴まれていない方の手で、顔を拭いて、掴まれている方の手を思いっきり振り払う。

勢いよく振り払われたのが痛かったのか、払われた腕を掴みながら後ろによろめく。

そんな奴を、嫌な顔を隠す事なく視線を向けて、怪訝な声で強めに言葉を発する。


「…名前で呼んでいいなんて、言った覚えないんだけど。」

「くそっ!俺がいいって決めたから、いいんだよ。逆らうんじゃねぇ!」

「そうだぞ、晋くんに逆らうんじゃねぇよ!」


名前すら覚えていない2人の取り巻きを含めて、うるさい声で私に向かって話しかけてくる。

一体誰がそう決めたのか、勝手に人の名前を呼んでくるのがとても腹立たしい。

私の気持ちを無視して決められたことに腹も立っていたので、掴まれた時に落とした鞄を勢いよく拾って、奴らを無視して、教室に向かって歩いていく。

もう構っているのも面倒くさくになったし、無視して横を通り過ぎようとすると、また腕を掴んでくる。

触られたところから、嫌なものが流れ込んでくるような気がした。

振り払おうとするが、さっきとは違って痛いくらいに力を込めて握ってくる。


「おいおい、どこに行くんだよ。そう邪険にすんなよ。なぁ、す・よ・う。」


態々、名前を一文字ずつ呼んで、強調してくる。

気持ち悪いくらいねっとりとした声で読んでくるもんだから、吐きそうな気持ちになってくる。

殴ってやりたい気持ちになってくるが、その気持ちをなんとか抑える。

じゃないと、私が教師に怒られて、ややこしい事になるのは目に見えてるから。

でも、気がつけば、口だけでなく、体までもが勝手に行動を起こしてしまっていた。


「勝手に名前で呼ばないでって、言ってるで、しょ!」

「いてぇ!」

「晋くん!」

「お前何すんだよ!晋くん、大丈夫か!?」


最後の言葉を言うと同時に、自分の持っていた鞄を思いっきり振りかぶって、大庭にぶつける。

顔面に当たったのか、顔を押さえて大庭はよろけて後ろに下がった。

取り巻き達が私に何かを言ってくるが、よろけた瞬間に手が離れたので、ダッシュで逃げる。

近くにあった階段を、転けるかもしれない勢いで走って上がる。

後ろから聞こえてきた声を無視して、急いで教室に向かう。


「お前っ!こんな事して、許されると思うなよ!」


(うるさい、ばーか!)


心の中でそう思いながら、少しいい気味だなとも考えて、クスリと笑いが溢れ出てきた。

そのまま教室に向かって行って、勢いよく教室の扉をバンっと開けたしまったせいで、教室中にいる人達の目線を集めてしまった。

なんだか居心地が悪くなって、早歩きで自分の席に移動した。

席に着いた瞬間、安心したのか、息が口からもれる。

さっき絡んできたやつとは、教室自体が違うので、教室で会うことがない。

安心した理由は、きっとそれだろう。

そう考えていると、今度はお節介な子が絡んできた。

これは避けようもない。

だって、同じ教室なだけでなく、私の目の前の席なのだから。


「大丈夫?さっき、あの面倒な人たちに絡まれてたんでしょ?平気?」

「大丈夫。平気。」


見られていたのかと、心の中で舌打ちをして、冷たく返事をする。

普通の人なら、冷たい返事に引いてくれるところだが、この子は違う。

引く事なく、私に話しかけてくる。

今まで人達は、私を嫌厭してきたのに。

なんでこの子だけはそうしないのか解らないけど、なんとなくそれが煩わしかった。

話かけられていても無視して、鞄から教科書を机の中に詰めていく。

無視して用意をしている私のことを気にする事なく、話しかけ続けてくる。


「良かったぁ、何もなくて。あいつら、大きい顔しすぎだよね。だってさ、そんなに強いわけでもないのに、この島の中でちょっと強いだけじゃん?しかも、親がこの島の町長ってだけで強がっちゃってさ。井の中の蛙って感じだよねぇ。それにさぁ…。」


私が反応してもしなくても、永遠に話し続けるのが、加藤 紗希。

加藤は、茶色の髪を二つ括りにしていて、癖っ毛なのかふわふわとした髪の毛に、少し化粧をしているのかちょっと派手めな口紅をつけて、まつ毛はマスカラ?っていうものをつけているらしい。

謂わゆる、可愛いと言われる部類の子だ。

そんな子が、なんで私に興味を持って話しかけてくるのか、全く理解ができない。

しかも、必ず話しかけてきては、私が無視しててもずっと話してくる。

正直イヤホンをつけたいくらい、うるさい。

イヤホンなんて高いもの、買えるはずもないが。

大きな声で、うるさいって言ってやりたい。

でも、それを本人に言ったところで、通用しないのがこの子だ。

前に一度だけ、うるさいと言った事がある。

すると、ポカンとした後に、「冗談言えるんだね、おもしろーい!」で返されて、終わってしまった。

その後も、彼女の話は永遠に続いていたが。

そして、うるさいと言ったことも通要しないまま、彼女に話しかけられてきている。

今も彼女のまマシンガントークは続いたまま。

まだ続くのか、この話…っと思っていた矢先に、チャイムが鳴る。


「あ、チャイムだぁ…。また話そうねぇ。」


その言葉に、私は心の中でもう話さなくていいと思った。

これを本人に伝えたところで流されるだけなので、伝えることは一生ない。

彼女が前を向いたと同時に、教師が入ってくる。

立ち上がって、適当に挨拶をした後に座った瞬間に私は窓の外を見る。

この学校は高台にあるからか、海が一望できるのだ。

それだけが、学校に来る理由とも言える。

海が見える事以外で、学校に来る意味は全くない。

怒られることも面倒だから、一応教科書とノートは広げる。

でもノートには何も書いていないし、教科書も広げてはいるが見てもいない。

それでも、教師は見て見ぬ振りをする。

私が可哀想な子だと、思っているからだろうか。

それならば、余計なお世話だと、心の中でまた舌打ちをする。

荒れた心の中であっても、海を見れば、そんな気持ちが飛散していく。

あぁ、海はやっぱり、私の母であり、心の置き所で、神そのものなのだ。

私を産んだ母親であろう人は、ただ産んだだけ。

私の本当の母は、海そのもの。

そう考えると、心が和やかになる。

海を見ていると、早く海に行きたくて体がそわそわする。

早く学校が終わらないだろうか。

そうすれば、また海に行ける。

早く早くと考えていたら、何度目かのチャイムがなって、昼ご飯の時間だと告げてくる。

仕方なくご飯を食べようかと立ちあがろうとすると、またも彼女が話しかけてくる。


「ねぇねぇ!今日こそは一緒に食べよう!私ね、お弁当作ってるの、一緒に食べない?あ、でも一つしかないから…あ!そうだ!分けっこしようね!それなら一緒に食べられるもんね!どこで食べようかな…。あ!そうそう、中庭いこ!そこなら…。」

「行かない。一緒にも食べない。私、ご飯、買いに行かないといけないから行くね。」

「え、待って!私も…。」

「いい、来ないで。」


冷たく言い放って、私は教室を出る。

ちょっと立ち止まって、教室の中の声を聞いてみる。

どんな話をするかは、予想はついているけど、聞いてみたくなった。

すると、教室の中から聞こえてきたのは、加藤さんを擁護する声。


「大丈夫?あんな風にいう事がないよねぇ。」

「酷いじゃん。せっかく優しくしてやってんのに。」

「仕方ないよ。可哀想な子なんだし。」

「でもこれ見よがしに、包帯つけてさ、構って下さいアピールは引くよねぇ。」

「わかるぅ。」


あはは!と、嫌な笑い声を聞いて、吐き気がする。

自分勝手な言葉を、私を聞いていないと思っていっている事もムカつく要因だ。

私がいたら、言わないままな癖に居なくなると言い出す。

何も知らないのに、好き勝手に話す。

知ろうともしてない癖に、なんでそんな事を上から目線で言われないといけないのか。

聞いてるのも嫌になる。

そんな彼女達に苛立ちを覚えた後に、好き勝手にものを言う彼女達に対して、もう何も考えたくなくて、教室の前から移動する。


移動した澄洋は、知らなかった。

どんなに澄洋に邪険にされていた子が言っていた言葉を。


「なんでそんな言い方するの!?優しくしてやってる訳じゃなくて、私はあの子の、澄洋ちゃんのことが好きでしてるだけ!そんな言い方しないで!かまってアピールなんかじゃない!きっと本当に怪我をしてるかもしれないでしょ!勝手なこと言わないでよ!」


彼女の行動全てが、澄洋のことを思ってしていたことを。


その事に何も気がついていないことを。


彼女は知る由もなかった。





 私はあの後、屋上に来ていた。

屋上は本来、入れないけど、海が好きな用務員さんと話が合って、そうしたら、屋上の鍵の合鍵を貸してくれた。

学校での味方は、この用務員のおじさんだけ。

たくさん海について話していると、私の手に一本の鍵を載せてくれた。


『本来はダメだけど、君は悪いことには使わないだろうから、秘密だよ?』


笑いながらそう言ってウィンクをしながら、お茶目に言ってくれた。。

その鍵を使って、屋上に入れるようになった。

その陰で、私は心地のいい場所を手に入れることができたんだ。

風がとても気持ちがいい。

風に乗って、海の匂いも感じることができる。

それだけで幸せになれた。

売店で買った袋の蓋を開けて、パンを食べる。

モソモソ食べてたけど、最初は味がしてたのに、どんどん味がしなくなっていく。

いつも、普通に味を感じるはずなのに。

でも、よく考えると、日々、どんどん味がしなくなっていっていた。

工場で作られているパンだとしても、屋上で食べてたら、美味しいと感じていたのに、今は少ししか味を感じない。

それが不思議でしょうがない。

最初こそ、気にしてはいた、と言うよりは、怖くなっていた。

急に奪われていっていた味覚。

でも、今となっては、なぜか気にならなくなった。

むしろ無くなるのが普通とさえ、思えるようになってきている。

なんでだろう?

私としても、とても変な感じだ。

でも、まぁいいか、と思って。黙々とご飯を食べる。

その中で、海をただ見つめている。

すると、不思議だけど、海に魅入られていく。

なんでかな。

海よりもかなり遠いのに、海の中にいるような心持ちになる。

それがとても気持ちよくて、それでいて、海に呼ばれているみたい。


『おいで…。』


行かなきゃ…。


「…ちゃ…!」


『来るといい、私の元に…。』


あぁ、行かないと…。


『待っているとも。』


「す…ちゃん!。」


きっと私はそこに…。


『君の居場所はここだ。』


そう、私の居場所は…。


「澄洋ちゃん!!」

「うえ!?」


突然の大きな声に、私は素っ頓狂な声をあげる。

声が聞こえた方を見れば、私にずっと構ってくる加藤さんがいた。

心配そうな顔で、私の事を覗き込んでいた。

その表情に、また煩わしさを覚える。

しかも、私は誰にもここに居ることを話していないはず。

大きな声を出されたことよりも、なんでここにいるのかと言う疑問の方が大きかった。


「なんでここにいるの…。」

「なんでって…なんとなく。海が好きっぽいから、きっと海が良く見えるここに、澄洋ちゃんがいると思ったし!って、そうじゃくて!どうしたの、澄洋ちゃん。なんだか変だったよ?」


またも、すごい勢いで話してくる加藤さん。

そんな加藤さんにあれ?と、疑問が湧いてくる。

どうして私が、海が好きなのを知っているのか。

好きっぽいとはいえ、ここに居ると的確に当てられるだろうか。

しかも、用務員さんに鍵を貸してもらわないと、入れないこの場所にだ。

訳が分からなくなってくる。

しかも黙って聞いていると、突然、私の様子が変だと告げられる。

これについては、流石に看過できなかった。

急に大きな声を出してきて、しかも、憩いの場に現れて、あろう事か私の事を変と言い出す始末だ。

怒りが湧いてきて、強めな声で反論する。


「変って…、何言ってるの、失礼じゃない。」

「だって…消えちゃいそうな感じだったから…。」

「私が…消える?」


この子は、一体何を言っているのだろうか。

人が勝手に消えるなんてこと、ファンタジーの世界以外で、起こるはずもない。

ここはファンタジーじゃなくて、現実の世界。

まさか、神隠しが起こるなんてことを、信じてたりするのだろうか。

もう中学生にもなるのに、信じてるはずないよね。

人が消えるなんて、そんな摩訶不思議なことが起こるわけもない。

また何か言い出したと、私は呆れて言い返した。


「人が急に消える訳ないでしょ。変なこと言わないで。」

「だって!本当にどこいくか分からない感じで…こっちの声も聞こえてない感じだったし…だから!」

「ちょっと考え事してただけでしょ。意味わからない。もう私行くから、着いて来ないで。」

「あ、ちょ…!」


何か言いたそうな加藤さんを置いて、私は屋上を出ていった。

本当に変な子。

でも、私も人の事、言えないか。

そう思いながら、私は階段を降りていく。


私は気が付かなかった。


屋上の扉の向こうでは、加藤さんが泣いていたことを。


私の歩いていた階段の途中には、チャプンと水音がしていたことを。




 最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。

やっと苦痛の時間が、終わりを告げた。

あんなに話しかけてきていた加藤さんも、話しかけてこなくなって、ホッとしていた。

もう煩わされずに済むと。

そこでふと、思うことがあった。

なんで私は、こんなにも人と話すことが、煩わしくなっているのだろうか。

昔は、自分から話しかけに行っていっていたほど、人と話すのが好きだった。

色んな人から、嫌われはじめてから?

そもそも、なんで嫌われ始めていたんだろう。

訳のわからない疑問が、私の心を乱していく。

すると、遠くでクジラの鳴き声が聞こえた気がした。

その瞬間に考えていたことが、消えていった。

私は一体、何を考えていたのだろうか。

そうか、やっとこの苦痛の時間が終わる、そう考えていたんだった。

やっと思い出して、いそいそと海に行きたくて帰りの準備をしていると、後ろから嫌な声が聞こえてきた。


「おい、澄洋。」


相変わらずのダミ声が聞こえてきた方を嫌々見てみると、そこにはやっぱり嫌な笑みを浮かべた大庭がそこにいた。

大庭の嫌な顔を見ているだけで、吐き気がしてくる。

とりあえず視界を机に戻して、大庭の事を無視して、自分が帰る準備をする。

それに腹が立ったのかなんなのか、私の肩を掴んで引っ張ってきた。


「おい!無視すんなよ!」


かなり強い力で、大庭の方に体を向けさせられる。

それに苛立ったけど、大きい声を出すのも面倒で、適当な口調で言葉を返す。


「何、なんか用?何にも用がないなら話しかけないで。」

「この俺が話しかけてやってんのに、上から目線とはいい度胸じゃねぇか。」

「上から目線も何も、あんたの事、相手にしてないだけ。」

「こいつ…!」


また腹が立ったらしい大庭は、私に向かって拳を振り上げてきた。

殴られるのには慣れてるけど、思わず目を瞑って拳がくるのを待つ。

すると、先生だと思われる声が、聞こえてきた。


「おい!大庭!何をしているんだ!」

「先生!?いや、こ、これは…。」

「まさか、また人を殴ろうとしてたんじゃないだろうな。」

「そ、そんなこと…。」

「ならその振り上げた拳はなんだ!理由を言いなさい!」

「そ、それは…!」


怯えた様子の大庭が、私の肩から手を離した瞬間に、残りの教科書とノートを詰めて鞄を手に取ってから、走って教室から逃げ出す。

後ろから、「おい、島崎!」という、先生の言葉が聞こえてきたが、無視してそのまま走って、急いで靴を履き替えて、校門を出る。




 そのまま走っていると、だんだん面白くなってきて、大きな声で笑ってしまった。

怯えた大庭の顔なんて、そうそう見れるもんじゃない。

爽快な気分で、学校の前の道を走っていく。

しばらく走りながら笑っていたが、ちょっとずつ気持ちが落ち着いてきたのか、ゆっくりと足取りが重くなっていく。

それに合わせて、笑い声も落ち着いてくる。

なんだか、悲しくなってくる。

こんな事しか、私には起きない。

殴られそうになる、家では癇癪を起こされる、変な奴に絡まれる、遠巻きにものを言われる。

エトセトラ…なんて。

そんなこと考えていたら、乾いた笑いが出てくる。

どうして私の人生は、こんな事しか起きないのだろう。

小さい頃は幸せだった。

お父さんもいて、楽しかった。

友達もいっぱい居て、元気に遊んでた。

でも、その幸せは、変わってしまったんだ。

あんなに優しかったお父さんが、いつ知り合ったのかわからない知らない女の人と出て行った事から、この地獄は始まった。

お母さんは、初めこそ、お父さんは帰ってきてくれるって信じて私に言い続けてたけど、いつからか、私がいるからお父さんは帰ってこないと言う話に変わっていった。

お前がいるから、お父さんは浮気したんだと、私はそう言い続けられた。

いつしかお母さんは、お酒に溺れて、飲んでは私に八つ当たりしてくる。

殴られたり、蹴られたり、怒鳴られたり。

でも、そんな私を気にしてくれる友達が1人いた。

優しくしてくれて、私を腫れ物のようにしていた子達なんて気にしなくていいって言ってくれて、そのおかげで、私はお母さんに事など気にせずにいられた。

ずっとこうして、この子と過ごせたらいいのに。

そう思えるほど

幸せな日々だった。

そんなある日に、その子を驚かせようと、いつもの公園に行った時だ。

驚くかなと、ワクワクしていた時に、思いもよらない言葉が聞こえてきた。


「あの子は可哀想な子。」


「汚いし、怪我いっぱいしてる。」


「だから、私が助けてあげてるの。」


「すごい!」


「優しい!」


「あんな子にそんなことしてあげるなんて、さすが、〜ちゃん!」


現実が受け入れられなかった。

あんなに優しかった子が、そんな事を思っていたなんて。

私を、自分が優位に立つための道具にしていたなんて。

すると、私の中に溜まっていた怒りが爆発して、彼女の方に走っていっていた。

その後の事は、何も覚えていない。

気がついたら、あの子はボロボロの状態で泣いていて、私もボロボロの状態で彼女の前に立っていた。

そこからは、怒涛の時間だった。

親が謝罪するような事態にまで発展して、お母さんが彼女のお母さんに謝って、家に帰って扉が閉まったその瞬間、蹴飛ばされた。

壁に体が当たった後、泣きながら謝ったけど、お母さんは許してくれず、そのままずっと蹴ったり殴ったりの繰り返し。

合間に、私に対する暴言の数々。

なんて言っていたかは、全く覚えてないけど、私の事を怒っていたのはわかった。

お母さんが満足するまで、この状態は続いた。

覚えてるのはそこまで。

気がついたら、私は病院にいた。

周りの大人に心配されたけど、そんなことどうでもよかった。

お母さんがいないことの方が、私には怖かったから。

どんな事をされても、お母さんが居ない事が、嫌だった。

だって、一人になってしまう。

私の世界は、お母さんだけだったから。

でも、部屋にいろんな大人が来ても、その人達の中にお母さんは居なかった。

部屋に入ってくる人がいる度に、お母さんについて必死に聞いた。


「ねぇ!お母さんは!?どこにいるの!?」


掴みかかって、その人に泣きながら聞いた。

必死に服を掴んで、持てる力で揺らしながら聞いたのに。

そう必死で聞いても、苦笑いしながらこう答えるだけだった。


「お母さんとはしばらくお別れなんだ。会えるまで、いい子で待ってようね。」


なんでそんなことを言うのか。

お父さんがいなくなって、お母さんが私の全てだった。

お母さんが居る世界を奪われたら、どうやって生きていけばいいのかわからない。

殴られたって、蹴られたって、暴言を吐かれたって、そんなことなんてどうでもよかったんだ。

ただお母さんがいるのならそれでいい。

そう思っている中で、私は、たくさんの子どものいる場所、児童擁護施設と言うところに預けられた。

私はそこで、誰とも話さず、心を閉ざした。

お母さんに会えるまで、我慢しようと決めたから。

どんなに話しかけられても、無視し続けた。

ずっとここで待っていたら、きっとお母さんが迎えにいてくれると信じてたから。

周りの大人には、異様に見えたかもしれないけど、そんなことなど私は知り得なかったし、どうでもよかった。

数日そうしていたら、お母さんが私を迎えに来てくれた。

嬉しくて嬉しくて、姿が見えた瞬間抱きついた。


「お母さん!会いたかった!」

「…私もよ。ごめんなさいね。あんな事しちゃって…。」

「ううん!お母さんがいればそれでいいの!」


(いつもの優しいお母さんだ!)


純粋だった私は、そう考えたんだ。

泣きながら、私を抱きしめてくれるお母さんを、私もぎゅっと抱きしめる。

これで、お母さんは優しいお母さんになると。

でも、そんなこと起こるはずなんてなかった。

確かに周りから見たら、とても優しいお母さんに見えただろう。

そんなお母さんも、家の中では一切そうじゃなかった。

外ではとても優しいお母さんだった。

でも、家の中では、お酒を飲んで酔っ払って、私の体の見えないところを殴ってきた。

そこは見えないから、バレないと思って。

でも、でもね、時々、お母さんは優しくなるの。

何か思い出したように。

ごめんなさいって私に謝りながら、ご飯も作ってくれるし、一緒に遊んでもくれる。

その日は、ちょっとだけしかなかったけど。

機嫌のいい日は、私のことを大切にしてくれる。

機嫌の悪い日は、私を殴って、蹴って、暴言吐いてと、見えないところをたくさん攻撃してくる。

しかも、機嫌のいい日も少ない。

ほとんどが私に対して、怒ってくるばかりだ。

でも、誰も助けてくれない。

周りに聞こえるほどの声でやってきているというのに、誰も助けてくれない。

一回は助けてくれたことがあった。

引き離された時があったから。

でも、それも一回だけ。

前の時と合わせたら、2回だけか。

まぁ、その時の私は、お母さんと一緒にいれるならなんでもよかった。

叩かれても何されても、私の世界は“お母さん“だったから。

だから、児童相談所の人が来るときは、またお母さんと引き裂かれるんじゃないかと思って、必死で笑顔を作って、質問に全て、はいで答えた。

本当は間違いだったんだと気がつく事はできなかった。

気がつくまで時間がかかった。

それまではずっと、お母さんといられたらそれでよかったから。

ある日、お母さんの機嫌がすごく悪くて、私はごめんなさいしか言えなかった。

そんな中で、お母さんが強い言葉で私に言い放った。


お母さん


「なんであんたが、ここに居るのよ!」


お願い…


「あの人はいなくなったのに、あの人に似てるあんたがここに居るの!」


言わないで


「あんたなんて…あんたなんて…!」


否定しないで


「死んじゃえば、よかった!」




お願い




「私の子どもじゃない!」





お母さん!





「生まれてこなきゃ、よかったのに!」






その言葉を聞いた瞬間に、私の心が砕けたような音が聞こえてきた。

ずっと叩いてくるお母さんが振り翳してきた手を見た時に、体を思いっきり押して、よろけた瞬間に、家から飛び出した。

そのまま、靴もはかず、ただ走り続けた。


「あーーーーーーーーー!」


何も考えず叫び続けて、坂道を転けながら走り続けた。

もう、私には何もなくなった。

どうしたらいいのか、私にはわからなくなった。

お母さんという、私の“全て“がなくなった瞬間だったから。

だって、要らないって、生まれてこなきゃよかったって言われた。

私が宝物だって、そう言ってくれてたのに。

そうじゃなかった。

どんなに我慢しても、どんなに謝っても、なんの意味も無くなったんだ。

もうどうでも良くなった私は、靴も履かないまま、走り続けてたら、気がついたら海に着いていた。


息を切らしてたけど、フラフラした足取りで浜辺を歩いて、気がつけば波打ち際まで来ていて、そのまま海を見ていると勝手に涙が出てきた。

ロボロと出る涙を拭く事もなく、ずっと海を見続けた。

声を出す事もなく、ただ目から雫がこぼれ落ちていく。

そのまま何も考えることなく、足に海水が当たるのをただただ見ていた。

冷たいのかと思っていたけど、思ったよりも温かかった。

ずっと足に当たる海の水を眺めていたら、一つの考えが浮かんでくる。

このまま、海に入ってしまおうか。

そう考えていたら、なんとなく海が私を呼んでいるような感じがした。

なら、このまま入ってしまおう。

そう考えてたら、もうすでに足が海に入っていた。

このまま海で暮らせれば…そうすれば…。


(きっと、幸せになれるんだ。)


そうやって考えてたら、気がついたら深いところまで来ていて、そのままとぷんと、海に沈んでしまっていた。

小さな体は簡単に流されて、もう泳げないところまで来てた。

暫くの間、目をつむっていたけど、ゆっくりと目を開けたら、月の光で照らされた水面が見えて、それがとても綺麗で、目に何かが込み上げてくるのがわかる。

でもその雫は、流れる事なく海に消えていく。

もう、私このままでいいやと思って、目を閉じて沈んでいく体を海に任せていたら、何かが当たるのを感じる。

背中に当たったそれはすごい速さで海面の方に昇っていって、気がつけば水面を超えていた。

苦しくもなんとも感じなくなってたけど、急に空気を吸うと、すごい咳が出て、口から水が出ていっていく。

咳が止まると、私の背中に当たっているのが何なのかを確認しようと、体をゆっくりと持ち上げる。

そのまま下を見たら、そこにいたのは図鑑で見たことのある、クジラではないのかと、私は思った。

クジラは私をもう一度海に沈める事なく、ただ私を乗せて漂っていた。

そのまま、ゆったりとしばらくの時間を過ごしていると、また何かが込み上げてきた。

ゆっくりと頬をつたった時に、あぁ、また涙が出てきたのかと、私は子どもながらに大人びた感じで考えたものだ。

ずっと下を向いたまま涙を拭うことなく、涙を流し続けていると、急にクジラが潮を吹いた。

潮が上から降ってきて、私の体をさらに濡らしていく。

それがとても気持ちよくて。

私は、クジラの体の上に寝転んで、自分の身を預ける。

クジラはそんな私を、受け入れてくれているようだった。

嬉しくて、ずっとそのまま寝転んでいた。

すると、クジラの鳴き声が聞こえてきて、私は不思議と、悲しい気持ちも苦しい気持ちも晴れていくような心地になる。

あまりに綺麗で、こんな幸せになれる声がこの世界にあるんだと、幸せな気持ちがあふれ出す。

そうしていると、どこからか声のようなものが聞こえてきた。

聞いた事もない透き通った綺麗な声が。

クジラと同じような、そんな声。


『―――――――――。』

「え?何?」

『――――――。』

「よく聞こえないよぅ…なんて言ってるの?」

『――――。』

「なん…て…。」

『ゆっくりおやすみ。』


私は聞こえてきた声に反応しようと必死でいたけど、気がつけば寝てしまっていた。

寝てしまっていた私には、最後の声は聞こえなかった。

ずっと聞こえなかったけど、誰かが話し始めているのは、かすかに聞こえた。

けどでも、眠気が勝ってしまって、寝てしまった。

だから、分からなかった。


『まだ、その時ではないか。』

『仕方ないわ。待ちましょう。』

『うむ…、少しずつ準備しているのだしな。』

『えぇ。時はもうそこよ。』

『そうだな。きっとその時はすぐにやってくる。』

『そうよ。その時まで…、愛してるわ。私たちの愛し子。』


そんな会話がされていたと。





 その後、気がつけば砂浜にいて、泣いているお母さんに抱き抱えられていた。

私は呆然としていたままだった。

何も考えないまま話を聞いていたが、よく聞いてみれば、私が癇癪を起こして家を出て行って、お母さんが追いかけると、波止場まで行ってそのまま海に落ちた、という話になってた。

本当の話とは全くかけ離れた話になっていて、なぜか私が周りの大人に怒られていた。

お母さんを心配させるんじゃないとか、海は危ないんだからとか、助けられたから良かったもののとか、言いたい放題。

本当は母親が私を殴って、酷い言葉を吐いたからなのに、どうやったらそんな話になるのか。

近づいたらわかるだろう、母親からお酒の匂いがすることを。

そして、私にたくさんの傷があることを、見たらわかるはずなのに。

でも、そんなことを無視する大人達。

やっぱり、大人なんて信用でいない。

そう私は心に刻んだ。


その次の日から、私はよく海に行くようになった。

初めは泳がずに、ただ海を見つめてるだけだった。

母親の癇癪が起こらない時間に帰って、海に行っていたことがバレないようにしてたけど、いつの間にか、そんな事を考える事もしなくなった。

ずっと海に通い続けていると、なぜだろうか、段々と海が私を呼んでいるような気がしてきた。

最初は、波打ち際に立っているだけ。

それだけだったのが、気がつけば少しづつ深いところまで、海に入っていくようになっていた。

そして、いつしか深いところに入っていた。

こんな深いところで泳いだことがない私は、ただただもがいているだけだった。

でも、ただもがいているだけでしっかりと泳げなかったのが、海の生き物達が手伝ってくれたおかげか、すごく綺麗に泳げるようになっていた。

なんでだろう、こんなに泳げるような感じはしてなかったのに。

今では、滑らかに泳げる。

嬉しくて、しかも、海の中で何時間も泳いでいても、苦しくも何もない。

普通の人ではありえないって、私だってわかってる。

でも、違ってしまっててもいい。

こんなにも気持ちよく泳げるのだから。

そうして泳いでたら、クジラが寄ってきてくれて、私と一緒に泳いでくれる。

その様子を見ていた海の生き物達が、私に近づいていてくれて、一緒に泳いだり、体に寄り添ったりしてくれるようになった。

だんだん海に馴染んでいけているようで、私は嬉しくて仕方なかった。

そして気がつけば、私の癒しの場所は、居るべき場所は、海の中になった。

少しずつ、海に居る時間が長くなっていく。

それは、年々長くなっていくとともに、私が母に怒られる時間も長くなっていった。

そうなるってことくらい、私はわかっていた。

でも止める事なんて、出来なかったのだ。

だって、どんな人でも息抜きの時間って必要。

それが私にとっては、海なだけ。

怒られようが、殴られようが、何か囁かれようが、私は止めることはしない。

例え、何をされたとしても。


 そうして、幼少期のことを考えていると、気がつけば学校の終わるチャイムが鳴っていた。

その瞬間にパチンと泡が弾けたように、覚えていなかった事を何もかもを思い出した。

なぜ自分が海を大好きになったのか、いつ海を泳げるようになったのかを。

わかった時に、私の中が喜びでいっぱいになった。

いつもだったら、前の席のうるさい子が、話しかけて邪魔してくるけど、それが今日もなかった。

不思議だったけど、私にとっては嬉しいことだったからなんでもいいこと。

だって、どうでもいい話を聞いて、海に行く時間を取られなくて済んだから。

急いで鞄に教科書を詰め込んで、教室から走って出ていく。


(早く、早く海に!)


海に行こうと思う気持ちが先走る。

すぐに靴を取り替えて、人にぶつかる勢いで、学校から出ていく。

そうして、海岸沿いを走っていって、海に行ける階段を見つけると、転けるかもしれないほどの速さで降りていって、海岸にたどり着いた。

やっと海に来れた。

その嬉しさで、早く海に入ろうとする。

いつも、制服のまま入ると、お母さんにバレて、暴力がいつもに増して酷くなるから、バレないように、制服を脱いで入るようにしている。

そうして、いつものように入ろうと急いで制服を脱いで、下着のまま海にむかおうとすると、気分を害してくる声が聞こえてきた。


「おい!澄洋!いい格好してんじゃねぇか!」


聞いただけで、耳が腐りそうな声。

しかも、ニヤニヤと厭らしい目で私を見てくる。

汚らしい、気持ち悪い、楽しかった気持ちが台無しになった。

無視して海に入ろうとすると、取り巻きの名前も覚えていない奴に腕を掴まれる。

その瞬間、そこからまた学校で感じた、体が汚れていく様な気持ちになる。

掴まれたところを、振り払おうとしたのに、2人がかりで掴まれているからか、相手の方が力が強くて振り払えない。

苛立ちと不快感がすごい勢いで、湧いてくる。


「離してよ!」

「お前ら、よくやった!おい、澄洋、エロい格好してんじゃねぇか。さっきテメェのせいでセンコーに怒られた、俺のためだろ?」

「そうだよな!晋ちゃんのた・め・だよなぁ?」

「ギャハハ、違いねぇ!」


嫌な笑みを浮かべて、大庭がこっちを見てくる。

気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。

掴まれたところから、自分の体が汚されていくようで、どうしようもなく頭が痛くなってくる。

もう見つめてくる目も、言葉も、掴んできている手も、何もかもが気持ち悪い。

吐き気がする。

そう思った瞬間、大きな声を出してた。


「気持ち悪いんだよ!私に触るな!見るな!調子に乗ってんじゃねえよ!」

「テメェ!こっちが大人しくしてりゃ、調子に乗りやがって…!」


そう言った瞬間、大庭が私に向かって、拳を振り上げてくる。

またやろうとしてくるのが分かって、今度こそ止める人がいないから、大庭の拳を目を閉じて耐えようとした。

だって、いつも母親に殴られている、こんなことどうって事ない。

それでも殴られると思った瞬間は、どうしても体がこわばる。

少しの間、目を閉じていると、いつまで立っても殴られて吹っ飛ぶような、あの衝撃が来ない。

なんでだろうと思っていると、取り巻きが大声を声を上げた。


「晋くん!ヤベェよ!早く逃げよう!」

「そうしようぜ!こいつなんて、置いてけばいい!」

「あ、あぁ!逃げるぞ!」


そんな声が聞こえるとともに、私から手を離して、砂浜を走っていく音が聞こえていた。

一体何が起こったんだろうと目を開けると、何故か私の周りが暗くなっている。

なんでだろう、雨が降るなんて言っていたかな?と思っていたけど、後ろを振り向くと、そこに大波が迫っていた。


(あぁ、迎えに来てくれたんだ。)


漠然と、私はそう思った。

そのまま腕を広げて目を閉じて、波を受け入れて、そのまま波にのまれていく。

すごい勢いで波に飲み込まれていくけど、それを受け入れる。

本来なら、苦しいんだろうけど、やっぱり私は全く苦しくなかった。

暫く流されていたら、クジラの体が私を受け止めてくれた。

やっとクジラに会えたことがすごく嬉しくて、その大きな体に抱きつく。

迎えにきてくれてありがとう、その気持ちを込めて、体に擦り寄って、顔を擦り付ける。

そうしたら、クジラも私に体を擦りよせてくれた。

暫く抱きついていると、そのクジラの鳴き声が聞こえてきて、幸せな気持ちになる。

クジラの声に合わせて、側にいるクジラよりも小さいクジラが私に寄ってくる。

その小さなクジラも可愛くて、そっと頭を撫でる。

すると、その小さなクジラも嬉しそうに声を出す。

私は、その可愛らしい声に、楽しくなってしまう。

すると、下から抱きついているクジラよりも、もっと大きいクジラが2頭やってくる。

私の周りいたクジラ達は、そのクジラ達がいた途端に、私に体を擦り寄せてからスッと奥へと去って行った。

それを見守っていると、大きな2頭のクジラ達が私に顔を寄せてくる。

他のクジラ達よりもしっかりと顔を寄せてくるものだから、私はくすぐったくて笑ってしまった。

そんな2頭のクジラの頭を、そっと撫でる。

すると2頭分のクジラの美しい声が、私の耳を潤していく。

私が楽しくクジラと戯れていると、急に2人分の声が聞こえてくる。


『よかった。助けられて。』

『本当ね、よかったわ。』


急に聞こえてきた優しい声に、私は驚いて思わず口を開ける。

すごい勢いで、ガボぉと口から吐いた事のない程の空気が出ていった。

苦しくは無かったが。

そんな事よりも、すごくはっきりと聞こえてくる声に、何か装置があるのかなと思って、周りを見渡してみたが、どこにも見当たらない。

なんで、海の中で声が聞こえてくるんだろう。

疑問が頭をしめていると、また優しい声が聞こえてきた。


『おや?もしや、私たちの声が聞こえているのかな?』

『本当?そうだと嬉しいわ!』

(えっと…確かに聞こえているけど…。)


どこからかはさっぱりではあるが。

どうして周りに人がいないのに、声が聞こえているのだろう。

それよりも、なんでこんなにはっきりと聞こえてくるのか。

海の中では、人間は喋れないはず。

それに、私の周りには、2頭のクジラしかいない。

なのになんで、こんなにも透き通った声が、聞こえてくるのか。

私がそうやって悩んでいると、その考えを読んだような声が聞こえてくる。


『ふふふ、びくりさせてしまったようだな。でも、聞こえているようだ、よかった。』

(どうして、そんなにはっきりと声が聞こえるんだろう。)

『私達の声が聞こえるのが、不思議かな?』

(あの…、喋ってないのに、どうして考えている事がわかるの?)

『もう、あなた、ちゃんと言わないと分からないでしょ?びっくりさせちゃったわね。あのね、実は私たちは、あなたの頭に直接語りかけているのよ?』


そう言われて、驚きを隠せず、口を開けたままになる。

そんなことを言われても私には、さっぱりよく分からない。


(何が起こってるの?頭に直接?どういうこと?)


何が起こったか、頭に直接とはどういう事なのか、さっぱり分からない。

そんな私の考えすら読んでいたらしい。


『分からないことだらけだろうが、これは真実なのだよ。』

『あなたは覚えてないかしら?1度、私達はあなたに話しかけているのよ?』

『よく思い出してごらん?きっと君なら覚えているはずだ。』

『貴女がとても、小さい頃の話よ。』


小さい頃の話など、覚えているのだろうか。

でも、2人にそう言われて、よく考えてみた。


(小さい頃の話なんて、思い出せるかな。)


どうにかして思い出そうとして、腕を組んで、必死に思い出そうとする。

そんな私の様子を見ていた2人は、顔を見合わせて、楽しそうにしている。

必死に考えていたら、学校で思い出していた幼少期の記憶が、波のように流れてくる。

そうだ、クジラの背中に乗っていたら、どこからか声が聞こえてきた。

でも、私には何を言っているか聞こえなかった。

だから、私の気のせいだと思っていた。

もしかして、そのことを言っているのなら…。


(あの、小さい時に溺れた時に話しかけてくれた声…?)

『覚えてくれていたのね!そう、そうよ!嬉しいわ!』

『あぁ、とても嬉しいね。』

(でもあの時は、どうしても聞こえなかったのに、なんで今は聞こえるの?)

『それはね、君はまだ海に馴染んでいなかったからだよ。』

『そうなの、だから私達の言葉は聞こえなかったの。』

(馴染めてなかった…そうなんだね。…ってことは…今は私、海に馴染めてるの?)

『そうなんだよ、君はもう海に馴染んでいる。』

『もう貴女は…。』

『こら、それはまだだよ。』

『あ、そうね…。』


少し寂しそうにしている声に、ちょっとだけ気になってしまう。

貴女は、って、私は一体なんなんだろうか。

途中まで言われてしまうと、すごく気になってしまうのに、そんな中途半端な感じで言われると気になってしまうに決まっている。

海に馴染んでいると言うところも気になる。

気になることが多すぎるけど、とりあえず、1番気になっている事。

その事を聞くのを我慢していたが、どうしても我慢できなくて、2人に向かって尋ねる。


(あなた達は、誰なの?私は何かになれたの?)

『それは…、すまない。まだ話せないんだよ。』

『私から言ったのに、ごめんなさい…。言えないの。』

(そんな、気になるところまで言ったのに…。)

『まだなんだ。あぁ、もうそろそろ刻限だ。』

『あら…、残念だわ…。そうね、もう貴女は帰らなきゃいけないわ。』

(待って!まだ話が…!)

『大丈夫。また話すことができるからね。』

『そうよ、もう貴女は私達と話すことができる。』

『そうだよ。だから、またここにおいで。』

(ここにって事は、海にくれば、またあなた達と話すことができるの?)

『えぇ、もちろんよ!』

(…わかった。また海に来るから!)

『あぁ、待ってるとも。』

『さぁ、帰りなさい。私たちはいつでも、ここで待ってるわ。』

(わかった!またね!)

『またね!』

『また会おう。』


そうして、私は海岸へ向かって泳いで行った。

海の子達に見送られながら。


私には聞こえなかった。


2人が話してる声が。













『…そろそろよね?』




『あぁ、そろそろだよ。』




『あぁ…!待ち遠しいわ!』




『そうだね、私もだよ。だからこそ、焦ってはいけないよ?』




『ごめんなさい…。』




『構わないさ。もうすぐだしね。』




『えぇ、そうよね!』




『早くおいで、私たちの愛し子。』





















『海の生み出した、我らの愛し子。』








 海から急いで上がって、鞄からタオルを取り出して、すぐに体を拭く。

早くしなければ、母親の癇癪が酷くなる。

お酒を呑んで寝てくれてたら、それが1番いいんだけど。

体を拭き終わって、すぐに制服を着る。

タオルを適当に鞄に突っ込むと、小走りで海から家に向かって、走り出す。

階段を登っていると、そこに女の人がいることが分かる。

誰かを待っているのだろうか。

でも、私には関係ない。

その人を無視して、家に帰ろうとすると、突然腕を掴まれる。

急がなければならないのに、急に止められて転けそうになる。

なんで掴まれたのか分からず、後ろから掴んできた人物を見る。

そうしたら、階段の上に立っていた女の人だった。

なんで掴まれたのか、そう考えて、思わず棘のある声で話してしまう。


「…なんですか。なんか用ですか?私、急いでるんですけど」


ハッとする。

こんな言い方するつもりじゃなかったのに。

少しバツの悪い気持ちになる。

でも、急に掴んで来る人が悪い、と向こうへと責任転換する。

暫くそうしていると、女の人が手を掴んでしまっている事に気がついたのか、慌てて私の手を離す。


「あ、ごめんなさい。急に腕を掴んでしまって。」


申し訳なさそうに言ってくる。

私は、そんな様子の女の人に、ちょっと気まずい気持ちになる。

でも、しょうがない。

私は今、早く帰らないといけないのは本当だし、急がないとめんどくさいことになる。

とりあえずなんの用か聞いて、早く帰ろう。


「貴女、誰ですか?それと、本当に何の用ですか?急がないといけないんですけど。」

「そ、そうよね。あの、私は加藤 紗希の母の加藤、加代です。」

「加藤さんの…。」


知ってる人の知り合い、というか、学校の関係者の家族だと判ると少し安心する。

でも、なぜそんな人が私に話しかけて来るのだろう…?

かなり急いでいるというのに、なぜ今話しかけてくるのかと、苛々してくる。


「それで、何の用なんですか?もう帰らないといけないのに、こんなことで時間を取られたくないんです。用事はなんですか?早く話してください。」

「あ、ごめんなさい、急いでいるのに…。あの…あなたは、うちの子の後ろの席の島崎 澄洋さん…よね?」


その言葉にゾッとする。

なんで、会ったこともないのに、私が彼女の後ろの席の子だということがわかるのだろう。

私は、怖くなって手を掴まれながらも、体を後ろに下げる。


「なんで私のことを知ってるんですか…。」

「そんなに怖がらないで!その、ごめんなさい。紗希から、ずっとあなたの事を聞いていてたし、それに入御参観で見たから知ってたの。」

「加藤さんから…?って、あぁ、授業参観で。」

「そうなの、よく聞いているうちに名前も覚えてね。」

「そう、なんですね…。」

「あの、それでね…?急で申し訳ないんだけど…。」

「なんですか…?」

「あ、あのね…その…。」

「早くしてください。」

「そ、そうよね。ごめんなさい。」


謝ってばっかりで、すごく腹が立つ。

まるで私の昔を見てるようで、かなり苛々するのが分かる。

しかも、早くしないといけないのに、まごまごしていて、時間が取られる。

それがすごく腹が立って、急かす様な言葉が出てきちゃう。


「もう、いい加減にしてください。早く話してくださいませんか?」

「ご、ごめんなさいね。私、あなたに言いたいことがあって。」

「なんですか?早くしてください。話してくれないなら、帰ります。」

「あ、あのね…、う、うちの子にもう、近づかないでほしいの!」

「はぁ?」


突然にそう言われて、私はなにを言っているのかと苛々する。

私が近づいてるわけじゃない、向こうが勝手に近づいてきてるだけだ。

向こうから絡んできてるだけなのに、なんで私から絡んでいるかのように言われて、そんなことを言われないといけないのか。

苛立ちが増していく。


「最近ね、あの子、落ち込んでるし、それに…それにね…、あなたに近づくのは、あの子には悪影響だと思うの。だって、あなたは…ね?ほら、よくないでしょ?」

「…そういうこと、ね。」


私の家庭環境の事とか、学校での事を言ってるわけか。

しかも、私を値踏みするような、嫌な目を向けてきているときた。

それだけで何が言いたいのかすぐにわかる。

腹立たしい。

私をどんどん嫌な気持ちにさせる。

そんな事で私が加藤さんに、何かするわけないのに。

むしろ加藤さんが、私に何かしてきてるのに。

なんで、こんなことを私が言われないといけないのか。


腹が立ってくる。


「…なんで。」

「え?」

「なんであなたにこんなこと、言われないといけないんですか?」

「そ、それは…。」

「私は、何かしてるわけじゃない。勝手に、あなたの娘さんが私に何かしてきてるだけ。なのに、なんで私がこんな事言われないといけないんですか?」

「だって…悪影響に…。」

「悪影響ってなんですか?私、彼女に何かしろと言ったり、叩いたりしましたか?」

「それは、されてないみたいだし、知らないけれど…、でも…。」

「知らないし、されてないのだったら、私にそんなこと言ってこないでください。むしろ、自分の娘さんに言ったらどうなんですか?私に近づかないようにって。」

「言ったわ!でも聞いてくれなくて…。」

「なら、私にはどうしようもないじゃないですか。私は、近づかないように言ってます。なのに近づいてくるのは、あなたの娘さんなんです。私に言う前に、あなたの娘さんを説得したらいいじゃないですか。」

「…。」

「もういいですか。私、急いでるんで。」

「あ、ちょっと…!」


一々、めんどくさいことを聞いてる時間なんてない。

しかも、私のせいじゃない事について。

すごく腹が立つ。

なんでこんな事を、私が言われないといけないのか。

さっさと家に帰ってしながら、帰る道へ向かっていく。

足早に家に向かってく。

いつもの面倒くさい家までの道のりが、今日は面倒くさいよりも、とにかく家に帰りたい。

まぁ、細かく言うのなら、私の部屋に帰りたい。

それで温かいお風呂に入って、布団の中に潜ってしまいたい。

布団の中が、1番、海の中に近いから。

お風呂よりも近いって不思議な感じだけどね。

少し笑いながら、家に向かって歩いていく。




そう考えていると、家に帰り着く。

やっと家に着いたと、少し息を吐いて扉を開けようとすると、怒鳴り声が聞こえてきた。

なんで私が居ないのに、こんな声が聞こえてくるのだろうか。

確か今日は、児童相談所に人が来る日でもない。


(嫌な予感がする…。)


そう思って、家に入るのを躊躇ったけど、入らなければ入らないで、嫌な事が起きるんだからと考えて、仕方なしに玄関の扉を開ける。

リビングから、大きな声が聞こえてくる。

母親の声と、誰だか分からない男の人の声。


「ただいま…。」


少し小さい声でそう言って、足早に部屋に向かおうとしたけど、どうやって怒鳴り声を上げてたのに聞こえたのが、リビングからすごい勢いで出てきて、私の方に向かってくる母親。

すごい形相をしたお母さんが、私に向かってくる。


「澄洋!どこに行っていたの!早く帰ってきなさいよ!」

「ご、ごめん…。何があった…。」

「澄洋!久しぶりだな。」

「え…。」


久しぶりって…、一体誰なのか、私にはさっぱり分からない。

初めて見る人だ。

凛々しい眉毛をしているが、目が少し垂れていて、青い半袖シャツに白いスラックスを履いている男の人。

こんな顔の人、見た事なんて1度もないはずだ。

そう考えていると、リビングから出てきた男の人と共に、女の人も出てくる。

優しい顔つきの、すらっとした体つきの白に花柄のワンピースを着た綺麗な人だ。

鬼の形相のお母さんとは大違いで、困ったような顔をしてこちらを見ている。


「本当に、何しにきたのよ!養育費も払わず、その女と一緒にここから逃げた癖に!」


養育…費…?

それってもしかして、夫婦が別れた時に、子どもが離婚した時にどちらかに引き取られた時に支払うっていう風にどこかで聞いたことがある。

と言うことは…、この男の人が…私の…。


「お、お父…さん…?」


そう私が言うと、とても嬉しそうに笑う男の…いや、お父さん。

それに呆然とする。

今頃になって、なんでお父さんがここに?

それよりもなんで女の人と一緒に?

もしかして、この人がお父さんと一緒に出て行った女の人?

どんどん溢れ出る疑問に、考えが纏まらない。

どうしたらいいんだろう。

そう考えてえいる間に、お父さんと思われる人を押し除けて、母親が私の方にやってきて、なぜか抱きしめてくる。

その様子に、お父さんらしき人が、ちょっと怒った顔をする。

お父さんが強い目線でこちらをみるめてる中、母親は私とを強く抱きしめている状態でいる。

私は混乱状態から、抜け出せないままだ。

そんなの私の隣で、母親は金切り声をあげる。


「この、裏切り者!私達を残して出ていった癖に!今更何よ!」

「裏切り者って…そんな言い方ないだろう。あの時はもう耐えられなかったんだ。」


私の分からない話が繰り広げられている。

一体なんの話なのか。

分からないまま、ひっそりと口から、2人に向かって声が出ていく。


「ねぇ…一体なんの話なの?どういうこと…?」

「最低ね!私の気持ちなんて無視して!」

「最低はどっちだ!あの時、君はヒステリックで、人の話なんて聞かなかったじゃないか!?」

「ねぇ…話を聞いて…。」

「うるさいわね!あなたが悪いのよ!全て!」

「僕だけが悪いわけじゃない!島の人もおかしかったし、澄洋も僕達に似てなかった。君が浮気をしたんじゃないのか!?」

「なんですって!?良くもそんなことを…!」

「聞いてってば…。」

「2人とも、落ち着いて…。」

「あんたは邪魔すんじゃないわよ!」

「やめろ!そんな言い方をするな!」


2人とも、ずっと怒鳴り合いをしたまま、私の話を聞いてくれない。

声が小さいのかと思って、少し声を大きめにして何度聞いても、私なんて居ないかのように、話が進まない。

近くにいた女の人も、オロオロとした様子で、どうしたら良いのか分からないままでいるようだった。

でも時折、2人を、止めるように声をかけていたが、お母さんがその人を怒鳴って、話せないようにしていたら、お父さんがそれに対して怒っていた。

私の言葉は、聞かないくせに。

私は、2人の怒鳴り合う声に、頭が痛くなってきて、目を瞑って頭を抑える。

あまりにうるさい声に、きっとこの声は近所にも届いてしまっているだろうなと、関係ない事を考えてしまうほど、私はずっと訳のわからない状態のまま、この空間で、放置され続けていた。

でも、声の五月蠅さに我慢ができなくなってきて、頭の中で処理も追いつかない状態なせいで余計に苛立ってきた。


(もううるさい、うるさいうるさい!)


金切り声も、怒鳴り声も聞くのが嫌になって、耳を塞ぐ。

どんだけ力を入れて耳を塞いでも、どうしても聞こえてくる声。

どれほど大きい声を出しているのかが、そこから分かってくる。

もうどうしても我慢できなくて、聞いていられなくなって、そこにいる全員に向かって大きな声を出す。


「私の話も聞かないで…、もううるさい…うるさいうるさい!私の話をきかないなら、もういい!部屋に行く!」

「待ってくれ!澄洋…、話を…。」

「どうでもいい!聞きたくない!着いてこないで!」


肩に手を置いて、話そうとしてきた父親を振り払って、自分の部屋に走っていく。

部屋に入った瞬間、心臓の音が聞こえてくる。

下からは、父親と母親が争っている声がまだ聞こえてくる。

どうにか聞こえないように、耳を両手で塞ぐ。

何が起こってるか、全く分からなくて、私は一体どうしたらいいのかが、さっぱり分からない。

もう何も考えたくなくて、急いで布団の中に潜って、何も考えないようにする。

それでも頭の中で、色んなことを考えてしまう。


どうして今頃、お父さんが来たの?


母親が裏切ったってどういうこと?


お父さんは、浮気して出て行ったんじゃないの?


お母さんが言っていた事は、嘘だったの?


ヒステリックってなに?


喧嘩してた事なんて、あったのだろうか?


私が2人に似てないから、浮気したって何?


私は、誰の子どもなの?


そんな考えがずっと過っていく。

もう考えたくなくて、目をギュッと閉じて寝ようとする。

寝れないとわかっていても、どうにかして考えられないようにする。

そうしていたら、なぜか、クジラの声が聞こえてきたような気がする。

気のせいだと思って、体を丸めてめてると、さっきよりもはっきりと声が聞こえてきた。

クジラが慰めようとしてくれてる。

そう感じたら、不思議と考えていたことが消えていった。

これなら寝れる。

下で大きな声がしているけど、私にはもう、クジラの声しか聞こえない。

ずっとその声を聞いているうちに、いつの間にか、すっかり眠ってしまっていた。


そんな私の頭を優しく撫でる手があった事を、私は知らなかったけど、幸せな夢を見れたことは確かだった。




『辛かったわね、私たちの愛し子。もうすぐよ。それまで待っててね。今は幸せな夢が見れますように。』







 いつの間に寝ていたのか、そう考えながら、布団の中からのっそりと起き上がる。

泣いてしまっていたのだろうか、目が腫れているような気がする。

もしかしたら寝過ぎたのかもしれない。

そう思って、時計を見てみる。

時間は、6時を過ぎたところだった。

いつもはこんな時間に起きたりしない。

目覚ましが、2回目になるくらいに目が覚める。

つまり、遅刻ギリギリなくらいに目覚めて、学校にゆっくりと向かうというのがセオリーだった。

でもこんなに早く目が覚めると、何をしていいのか分からない。

ボケーっとしていて、時計をもう一度よく見てみると、そこに出ていた日付は、土曜日と書かれていた。

つまり、学校は休みということだ。

それが分かっただけで、元気が出る。

しかし、昨日のことが頭をよぎり、出ていた元気もなくなっていく。

一体、昨日に起こったことは、なんだったのか。

今まで母親は、私にお父さんが私達を裏切って出ていった、と、そう私に教えてきた。

確かに、私も知らない女の人と出ていく姿を見たのを覚えている。

なのに、先に裏切ったのは母親と、父親は言っていた。

その言葉を思い出して、頭を抱える。

母がヒステリックなのは、私にはよくわかるけど、それと女の人と一緒に出て行ったことが、一体どう関係してくるのかもよく分からない。

もう一体、何が真実なのか、私には分からない。

もう分からなくて、私は頭が痛くなる。

だけど、昨日、覚えていることがある。

とても、いい夢を見たことだ。

幸せな夢だった。

クジラの優しい声につられて寝た後に、温かい手が私の頭を撫でて、優しい声をかけてくれたこと。

なんて話しかけてくれたのか、覚えてな良いことが残念でならない。


「せめてなんて言ってたかを覚えてたらなぁ…。それで今日も頑張れるんだけど。」


そうやって、呟きながら、枕に向かって顔を落とす。

枕に顔を落とした瞬間に、昨日の記憶が一気に蘇ってきて、モヤモヤした気持ちが、波の如く押し寄せてくる。

さっきまで考えてきた、幸せな気持ちが台無しになる程、吐き気がしてくる。

なんで、今頃になって態々、私達のところに来たのか。

どんなに考えたって、答えが出てこない。

とりあえず、今のモヤモヤした気持ちを吐き出したくて、枕に顔を埋めながら声を出す。


「あーーーーーーーーー!」


周りにも、下にいるであろう母親にも、聞こえていないはず。

そう思って、思いっきり大きな声を枕に向かって叫ぶ。

いろんな思いを込めて。


そうして、しばらく枕に顔を埋めていると、お腹が鳴る音が聞こえる。

聞こえた瞬間に、バッと顔を上げる。

さて、とりあえず、ご飯を食べよう。

でも、母親が下にいるしなぁ、と考えると気が滅入る。

昨日から何も食べてないせいで、とてもお腹がすいていた。

仕方なく布団の中から出て、ベットから降りる。

部屋を出てリビングに向かっていって、部屋の中を覗くとリビングにいるはずの母親が、そこにはいなかった。

おかしいと思いながらも、私は静かに朝ごはんを食べられる事が嬉しくて、楽しく料理をすることにした。

まずは冷蔵庫から、ソーセージと卵を取り出す。

棚から、フライパンを取り出して、少し温める。

そこで、温まる前に、冷凍していたご飯を電子レンジで温めておく。

その後にフライパンに手にかざして、少し温もりを感じたら、油を少しだけ垂らす。

ジューッと音がしたら、まずはソーセージを炒める。

少しソーセージをそのままにしておいて、卵をボールの上に2個出して、カシャカシャと縦に切るように混ぜてると、ソーセージがいい感じにそってきて、焦げ目もついてくる。

それを見て、卵をそこに入れる。

左手で丸く円を書くように卵を入れながら、右手で菜箸を持って、解す様に一緒に円を書くように混ぜる。

そうしたら、卵がほろほろとほぐれてきて、スクランブルと言われるような感じになってくる。

卵がしっかりと固まる前に、半熟あたりで火を止めて、少しだけソーセージと絡めさせる。

そうしていると、電子レンジがチンッと音を止まる。

卵とソーセージをそのままにしておいて、電子レンジからご飯を取り出す。

熱々のご飯をお椀に移して、お皿には、絡めたソーセージと卵をお皿に移して、朝ごはんが完成する。

今日は、久しぶりのしっかりとした熱々のご飯を食べられる。

いつもは、渡されていたお金で買っていた、安い惣菜ばかりだったから。

温かいご飯が嬉しくて仕方ない。

お椀とお皿をリビングの机に移して、食べようと思うと、ハッとひとつ足りないのを思い出す。

温かいご飯を食べたいから、急いで冷蔵庫に向かう。

冷蔵庫の扉を開けて、牛乳パックを取り出す。

それをマグカップに入れて、リビングの机に持っていく。

よし!と力を入れて、椅子に座って机に向かい、パンっと手を叩いて、誰もいないので大きい声を出す。


「いただきます!」


その後、ご飯とおかずをを勢いよく食べる。

熱々の少し半熟になっている卵と綺麗に少しだけ焦げ目がついているパリパリとしたソーセージを、熱々にまで温めたご飯と一緒に口の中にかき込んでいく。

それを口の中で、合わせて食べた瞬間に、幸せ物質が溢れ出ていくのが、私には感じられた。


「あーーーーー幸せーーーーーー。」


久しぶりの、熱々の美味しいご飯に、幸せがすごく溢れ出す。

もうこんなに美味しいご飯を食べれた、それだけでこんなにも嬉しくなる。

いつもは、ほとんど1日ご飯を食べれないことが多い。

学校に行っていれば、渡されているお金で、1個2個はパンを食べれる。

でも、学校がなければ、休みはご飯を食べることがほぼできない。

母親が機嫌が良くない限り、1階に行くことができない。

機嫌が悪いと、下に行くだけで殴られる、暴言を吐かれる、蹴られる等、色々起こるから、私は母親が機嫌が良くて、話しかけてくるまでは、ずっと部屋に篭りっぱなしになる。

そうしたら、休みの時なんて2日間は絶食になることが多い。

辛いなぁって最初は思ってた。

でも、今ではもうどうでも良くなった。

それが当たり前だと思ってたから。

本当はそうじゃないんだと、幼いときに知って愕然としたけど。

まさか人と違う環境にいたなんて、思っても見なかった。

だって、全部そんな家庭なんだと、信じていたから。

考えれば考えるほど、暗い気持ちになってくる。

暗くなった思考を掻き消すように、頭を振る。


「ダメダメ!せっかくの幸せな時間!暗いこと考えるのやめよ!」


そうやって自分を鼓舞しながら、ご飯を楽しく食べる。

後少しで食べ終わるという時に、玄関の扉が開く音がする。

その瞬間に、この幸せな時間が終わるのを感じた。

でも、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。

あ、もう幸せな時間が終わったと思う。

母親がリビングに入ってきた時に、幸せが終わったと思っていたら、とても機嫌が良さそうに入ってきて、なんだか気が抜けた感じがした。


「あらぁ、おはよう!ご飯作っちゃったの?美味しいご飯作ってあげようと思ったのに。」


こんな言葉、本当に機嫌がいい時しか聞けない。

今日が機嫌がいい日でよかったと、心の中でホッとする。

母親が、そのまま私のところまで来て、なぜかそっと抱きしめてくる。

その行為に驚いて、思わず押しのけてしまった。


「あ、そ、ご、ごめんなさい…!」


慌てて、目を瞑って謝る。

機嫌が悪くなったらどうしようと、そのことで頭がいっぱいになっていると、母親は何事もなかったかのように話し始める。


「なんで謝るの?びっくりしただけでしょう?私は気にしてないわ。大丈夫よ!」


そう言われて、すごく安心する。

いつもだったら、機嫌が良くてもこんな事をしたら、すぐに機嫌が悪くなるのがいつものことだった。

でも今日は、そうじゃない。

なんで、そうじゃないんだろうか。

そう考えていると、またお母さんが抱きしめてきてくれる。

久しぶりの温もりに、何かが込み上げてくる。

なんだろうか、この感覚は。

変な気分になっていると、お母さんが私の頭を撫でてくれた。

こんな事、いつからされてないんだろうか。

嬉しくて、泣きそうな気持ちになる。


「澄洋。本当に大好きよ。ずっと一緒にいましょうね。」


こう言われた瞬間、海の中でしか出てこなかった涙が、急に溢れ始める。

こんなこと、小さい頃からしか言われたことがなかった。

それを、また言ってもらえた。

普通の家族なら、当然のように言ってもらえたりするのかもしれない。

でも私は、言ってもらえたのは本当に幼い頃だけ。

しかも、本来なら覚えてないであろうくらい小さい頃に。

それを、やっと言ってもらえた。

望んでいた言葉を、私が言ってもらいたかった言葉を、やっと、やっと言ってもらえたんだ。


「お母さん、私も大好きだよ…。」


言葉にはなってなかったかもしれない。

でも、この言葉を言いたかった。

やっと言えたんだ。

なんて幸せなんだろう。。

明日には、もう、こんな感じのお母さんはいなくなってるかもしれない。

でも今は、この状況を、堪能しよう。

私は、今、とても幸せだから。






















『駄目だ。』



『本当よ。これじゃ駄目。』



『我らの子が、海を忘れてしまう。』



『迎えに行かないと。急がないと。』



『もちろんだとも。そろそろだね。』




『準備しなくては。』










 そこから暫くの間、とても幸せな日々が続いた。

毎日、朝ごはんと夜ご飯も作ってくれる。

それだけではない。

何と、お昼用にお弁当まで作ってくれるようになったのだ。

これほど嬉しい事はなかった。

今までのことを、忘れてしまうほど、私は幸せな気持ちでいた。

あんなに酷い事はきっと、夢だったに違いない。

私はそう思うことにして、楽しい気持ちで学校に行っている。

学校では、あの子も話しかけてこなくなって、しかも嫌なやつもあの海での一件から、怖くなったのか話しかけてこなくなった。

幸福でいっぱいになる。

屋上でお母さんが作ってくれた、温かいお弁当を食べながら、大好きな海を眺める。

幸せな気持ちで、大好きなものを眺める事が出来るなんて、どれほど望んでいた事だっただろうか。

そう思いながら、ご飯を食べ進める。

そうしていると、なぜか急にどこからか、声が聞こえてきた気がした。


『澄洋…。』


私の名前が呼ばれている気がする。

聞いたことがあるような感覚があるが、この屋上には見渡す限り、誰もいない。

きっと幻聴だろうなと思った。

だって、誰もいないのにどうやって、声が聞こえて来るんだろうか。

そんなファンタジーみたいなこと、起こるはずもない。

でも、ふと頭をよぎることがある、

それは、海の中では、溺れることなく泳ぎ続けられる事。

海にいる動物たちも、私を襲ってくる事はない。

クラゲの毒があると思われる触手に触れても、私は何ともなかった。

一つ一つを考えていくうちに、私はゾッとした感覚に陥った。

私は、今まで普通に思っていたことが、実は普通じゃなかったこと。

これは、本当はとてもおかしいのではないのか。

そう考えていると、そっと声が聞こえてくる。


『澄洋。』


今度ははっきりと聞こえた。

この声は、幻聴なんかじゃない。

現実のもので、今も聞こえてくる声だ。

思わず立ち上がって、辺りを見渡す。

立ち上がった瞬間に、お弁当が膝から落ちて、散らばっていくのがわかったが、それがそうでもよくなるほど、聞こえてきた声が怖かった。

しかも、見渡しても何処にも誰かがいる様子はなかった。

まさか、私にしか聞こえていない声なのではないだろうか。

そんなはずはない、そう思っても、現実に起こっていることだ。

混乱している中、また声が聞こえてくる。


『澄洋。もう海には来ないのか。』

「海…?」


海にとは、どう言う事だろうか。

確かに今は、お母さんが私を見てくれてるから、あんまり海に行かなくなってた。

でも、行かなくなったわけじゃない。

時々、海に行っては入る事はないけど、海を眺めている。

なのに、どうしてこの声の人は、そんなことを言うのだろうか。

それよりも、この声の主は、一体誰なんだろうか。

そう考えているよりも先に、声が口から出てしまっていた。


「あ、あなた誰!?何処から聞こえてくるの!?」

『忘れてしまったのかい?我らは覚えているとも。』

『そうよ。私たちは、あなたと話したことを、しっかりと覚えているわ。』

「また別の声が…!」


まるで頭の中に響き渡るような声に、恐怖心が湧いてくる。

私の心の中に入り込んでいく様な、そんな声が心に響き渡ってきてしまう。

こんなファンタジーみたいなことが、起こり得るわけない。

私は、おかしくなってしまったのかもしれない。

お母さんに会えば、私は元の私に戻れるはず。

そう思って、この声から逃げるように、必死に声を出す。


『澄洋、我々は、君と共にいたいのだ。』

『そう、それだけなの。』

『それに君は、私達の事を知っているはずだ。』

『そうよ。貴女は私達のこと…。』

「私は!あなた達なんて知らない!話しかけてこないで!」


そう吐き捨てて、私はお弁当を片付ける事なく、布に包んで扉に向かって走って、屋上から出ていく。

階段を必死に降りていって、何階か降りた後に、私は荒れていた息を、ゆっくりと整える。

一体何が起きたのか、私にはさっぱり分からない。

でもきっと、白昼夢でも見たんだろうと思うことにした。

そうでもないと、この状況を証明できないから。

頭を振って、さっきの出来事は忘れることにした。

そのまま、チャイムが鳴らないうちに、教室に帰ることにしてお弁当を綺麗に戻して、教室に戻ることにする。

あの二人のことなど忘れるように、早歩きで歩く。







『どうしましょう…。あの子が私たちの事を忘れてしまったわ。』



『きっと、あの人間のせいだね。』



『そうね。折角準備がと遠いそうになっていたのに、“思い出して“しまったせいだわ。』



『私たちのために生まれてれてきた、大切な愛し子なのに…。』



『返してもらわないと。あの子は私たちのものだ。』



『そうよね。返してもらわないと。』



『待ていてくれ。我らの子。』



『私たちが、必ず迎えに行くわ。』






『『私たちが愛している我が子よ。』』








 結局、今日一日、あの声が忘れられることがなかった。

しかも、何故か思い出すと、懐かしい気持ちになる。

それが、どうしてか分からなくて、心に雑音が流れていく感覚がする。

この感覚を振り切るように、最後のホームルームのチャイムが鳴る音を聞いた瞬間に、帰る準備を急いでする。

早く、お母さんに会いたい。

そうすれば、この感覚なんてなくなるはず。

準備し終わって、慌てて家に帰ろうとして、机から顔をあげると、そこには加藤さんが立っていた。

なんだか、そわそわしたような様子で。

私は、その姿に煩わしい気持ちになる。

早く帰って、お母さんの顔を見たいのに。

嫌な顔を隠す事なく、彼女に向かって、言葉を発する。


「…何?」

「あ、あのね。この前、お母さんが澄洋ちゃんに会いに行ったって聞いたの。」

「…あぁ、確かに来たわね。でも、どうでもいいわ。」

「でも、母さん酷い事を言ったって聞いて…。」

「あぁ、あなたに会うなって事ね。」

「そう、その事なんだけど…。」

「丁度いいわ。」

「え…?」

「私は、貴女をめんどくさいと思ってたの。だから、よかったわ。煩わされずに済むもの。」

「そんな…、私は…、仲良くしたいのに…。」


そんな彼女の言葉にカッとする。

私の事を無視して、話を進めようとする。

そんな人ばかりで、辟易する。

どうして、私の話を聞かないのだろうか。

苛立ちを加藤さんに向かって、ぶつけてしまう。


「あのね、私は貴女の自分勝手な行動に苛々してるの。あなたの母親にも、あなた自身にも。私がいつ、仲良くしてって頼んだの?頼んでないのに、勝手なことしないで。」

「っご、ごめんなさい…。」

「もう行くわ。嫌な気分になったから。さようなら。」


そう言って、私は鞄を持って、席から立ち上がる。

加藤さんが、啜り泣く声が聞こえてきても、無視して、教室を出る。

扉の外に立っていると、中から声が聞こえてくる。


「何あの態度。本当に最低ね。」

「せっかく加藤さんが、話しかけてくれてるのに。」

「それは私が悪いから…。」

「悪くないよ!あの子が嫌な子なだけだよ。」

「そうそう、今度から無視したらいいよ。」


そんな話を聞き終わった後に、私は静かにため息を吐いて、家へと足を向ける。

家に帰れば、笑顔のお母さんが待っているはず。

そう思うと、さっきの気分の悪さも軽くなった。

きっと、温かいご飯を作って待っていてくれている。

そこからは、足取りが軽くなる。

でも、彼女はそれでも、澄洋を擁護し続けた。


「そんなこと言わないで!澄洋ちゃんは本当に素敵な子なんだから!ちゃんと見てないのにひどいこと言うのやめてよ!」

「な、なによ、私たちはあんたのことを心配して…。」

「大きなお世話だよ!私もう帰るから!さよなら!」

「な、なにあれ。せっかく心配してあげたのに…。」


そんな話がされているのも知らないまま。


そして、昼間にあったことなど忘れたまま。


彼女は、家路にと急いで行った。






 心躍りながら、家に向かって足取り軽く、歩いて行く。

海岸沿いを、波の音を聞きながら幸せな気持ちでいると、前の方に男の人が立っているのがわかった。

誰だろうと思いながらも、きっとこの近所の人だろうと思って、通り過ぎようとしたら、見たことある人だった。

その人は、私の父親だと言っていた人だった。

今は何でか、どうしても会いたくなくて、顔を下に向けて鞄を前に持ってきて、ぎゅっと握り込んで、通り過ぎようとしたら、腕を掴まれてしまった。

驚いて、顔を上げてしまう。

すると、やっぱりの私の父親だと言っていた人だった。

何だか怖くなって、必死に腕を振り払おうとして、逃げようとした。


「手を離してください!」

「待ってくれ!澄洋!俺の話を聞いてくれないか?」

「私は話すことなんてありません!」

「澄洋!」

「私たちを置いて出て行った人と、話すことなんてありません!」

「それは違うんだ!」

「何が違うと言うんですか!」

「本当は、追い出されたんだ!」

「え…?」


何を言ったのか、分からなかった。

追い出されたと、今言ったのだろうか。

お母さんは、女の人と一緒に出て行ったって、浮気したって、そう言ってたのに。

いや、違うはずがない。

私にお母さんが嘘つくはずがない。

そんなはずないんだ。

どうして、そんな嘘を私に言うのだろうか。

もしかして私を、惑わそうとしているのではないだろうか。

そうなら、お母さんと私を馬鹿にしているとしか思えない。

そう考えると、怒りが湧いてきて、怒鳴ってしまっていた。


「お母さんと私を置いていった癖に!そんな嘘つかないで!」

「嘘じゃないんだ!急に態度が変化したんだ。俺が浮気してるとか、俺が君に何かしたんだとか、何かにつけて、文句を言うようになってきた。それが嫌になってしまったんだ。」

「嘘だ!お母さんは…お母さんは…!」

「本当なんだ、澄洋。あまりに責められて、俺は君を連れて出て行こうとした。でも、近所に聞こえるように私達を虐待していると言われて、近所の人達に出ていくようにさせられて、それで君を彼女に渡すしかなかったんだ。」

「そんな…そんなこと…。」

「本当なんだよ。俺は君を引き取りたかったんだ。」


お母さんが私を騙していた。

そんなはずない。

でも、そう思えば思うほど、今までの出来事が頭を過ぎる。

ずっと、殴られ続けてきた。

ずっと…、心を傷つけられてきた。

ヒステリックは当たり前。

機嫌がいい時と、悪い時の差は激しかった。

考えれば考えるほど、父親の言っている事が、正しく思えてくる。

そう考えるが、頭を振って考えを吹き飛ばす。

今は違う。

お母さんは変わったのだ。

だから、この人が言っていることが間違いなんだ。


「そんなはずないんだ…。嘘つかないでよ。そうやって、取り込もうとしてるんでしょ?信じられない。最低ね。お母さんは、そんな人じゃないんだから。」

「…最近急に、優しくならなかったかい?」

「え?確かに今、お母さん、すっごく優しいけど…。」

「やっぱり…。それには、理由があるんだよ。」

「は?理由?何言ってるのよ。そんなこと言っても…。」

「俺が養育費を、払うようになったからなんだ。」

「え…。」


(養育費?)


それは、この人とお母さんが言い合っていた時に、聞いた言葉。

でも、お母さんは、それを言ってなかった。

お金を使っている様子もなかったし、お酒も飲まなくなっていた。

だから、そんな物、受け取ってないはず。

もし、受け取ったんだとしたら、使っている様子があるはずだから。

この人は嘘をついているんだ。

私を惑わして、お母さんから離そうとしている、そんな悪い人に違いない。

そう思って、私は騙されないと、手を強く握って言い返す。


「お母さん、養育費、貰っている感じしなかった。使ってる感じもしなかったもん。私に嘘吐こうとしてる。そうやって、騙そうとしてるんだ。私は、騙されないから!」

「嘘じゃない!」


大きな声に、体がびくつく。

強い力のこもった真剣な声に、たじろいでしまう。

もしかしたら、本当のことかもしれない。

そう思えてしまうほどの声色だった。

驚いた顔をしているであろう私に向かって、少し申し訳なさそうな声で、声をかけてくる。


「大きな声を出してすまない。」

「い、いいけど…。」

「俺の言葉を信じられないのなら、お母さんに聞いてみたらいい。」

「…聞いたところで、お母さんは、きっと私が考えてくれる事を言ってくれる。」

「そう思うなら、それでいい。そうなってくれているのなら、俺は身を引くから。考えてみてほしい。」


そう言われて、私はそこから後ずさるように下がっていって、そのまま後ろを向いて家に向かって走っていく。

考えがまとまることがない。

お母さんが、私を騙していたはずはない。

変わっただけだ。

今までのことを、反省して元のお母さんに戻っただけだったんだ。

必死で考えていると、1つの考えが過ぎる。


(あれ…?私、お母さんに…謝ってもらったことあったっけ…?)


その考えに至った瞬間、吐き気がしてきた。

目の前も、景色が揺らいで、息が荒くなる。

そうだった。

私は、お母さんが優しくなってからお母さんに、今までのことを謝ってもらった事は、一度もない。

そう気がついた瞬間、口を押さえてその場でよろめく。

吐き気が止まらなくなってくる。

どんどん、思考が不安な方向へ向かっていく。

恐怖心がとても芽生えてくる。

聞くことが怖くなってきていた。

そんな事は、ないはずなんだ。


お母さんは、私を受け入れてくれたんだ。


お母さんは、私を幸せにしてくれるんだ。


お母さんは、私と一緒にいてくれるんだ。


お母さんは



私を



愛してくれているんだ。









澄洋が走っていく最中、父親はふと、目を覚ましたような感覚に襲われていた。


「…ん?あれ?俺はなんでここに…。もうここにくる事はないと思っていたんだが…。なんで来てるのかよくわからないけど、家に帰るか…。」


そう言って、父親は帰って行った。

彼がしたことが、澄洋に大きな出来事をもたらすというのに、そんなことを考えることなく、帰っていく姿を、見る人物がいた。







神とは、古来より残酷だ。



『これで準備は万端ね。』



思い通りにならないのなら



『いや、最後の準備があるよ。』



己がものになるようにしてしまえばいい。



『そうよね。』



そう考えてしまう神もいる。



『そうだよ。これであの子は我々の元に来る。』



人間の意思など関係がないように



『楽しみね。』



自分の思うように行動してしまう神もいる。



『あぁ。早く我々の元に来てくれ。』



それが真実の一つだ。



『我あれのたった一人の愛し子。』



それに、彼女は選ばれてしまった。





ただそれだけの事。




たったそれだけの事が、どれほど大きい事だとしても。









 そこからは、どうやって帰ったか分からない。

いつもと違う道だったかもしれない。

いつもの道を走っていたかもしれない。

でも、それよりも重要なことがあった。

お母さんは、きっと私を愛してくれていると言う事実を、確認すること。

今の私には、それが何よりも最優先だった。

走っていたら、家にたどり着く。

息が切れているけど、そんなことがどうでもよかった。

入る事に、恐怖心が湧いてくる。

でも、確認するには、入るしかない。


「大丈夫…大丈夫…お母さんはそんな人じゃない…。」


小さい声で、自分を鼓舞する。

そして、恐々と扉の取手に手をかけて、ゆっくり開けていく。

カラカラと音がする毎に、手に汗が滲んでいく。

開け切ったところで、ちょっとだけ大きな声で、おかあさんに帰ってきたことを告げる。


「た、ただいま…!」

「あらぁ、お帰りなさい!今日は遅かったわね。もうご飯できてるわよ。早く着替えてらっしゃ…。」

「お母さん!」


思わず、お母さんの言葉を遮ってしまった。

ハッとする。

しまったと考える。

思わず遮ってしまったから、責められるかもしれない。

そこまで考えて、驚いてしまう。

私は、お母さんのことを、まだ疑ってしまっていたんだ。

そう考えると、悲しい気持ちになってくる。

そんな私に、お母さんが声をかけてくる。


「どうしたの、そんな大きな声を出して。何かあった?母さんに話してごらん?」

「お母さん…。」


やっぱり、お母さんは優しいんだ。

あの人が言ったことが嘘だったんだ。

そう思うと、心が安らいだ。

お母さんは、また優しくなってくれたんだ。

でも、心の中には疑問が残ったままだったから、お母さんには聞かなくちゃいけない。

震える体に、どうにか力を入れて、心を奮い立たせて、疑問を口にする。


「あのね、お母さん。」

「どうしたの?ご飯冷めちゃうわよ?」

「聞きたいことがあるの。」

「聞きたいこと?何かしら。」

「あのね…。さっきお父さんと会ったの。そこでね、言われたの。」

「…何言われたの?」


父親に会ったことを言った瞬間に、お母さんの雰囲気が変わったのがわかった。

とても低い声で、下を向いて、私に問いかけてきた。

その声は、今までのお母さんの雰囲気とよく似ている。

ここから先を聞いてもいいのだろうかと、不安が湧いてくる。

でも聞かなくちゃ、私は先に進めない。

分からないままじゃ、きっとこの先、お母さんを疑ったままになってしまう。

意を決して、お母さんに問いかける。


「お母さん。お父さんから養育費、貰ってる…?」

「…。」

「お父さんがね、養育費を渡してるって言ったの。最近から、渡すようになったって。だから、お母さん優しくなったんだって。」

「…それで?」

「そんなことないよね…?お母さんが優しくなったのは、私を愛してくれてるからだよね…?」


私は、必死にお母さんに問いかけた。

きっと愛してくれてるからだ、そう考えて、震える手を握りしめながら。

でも、お母さんは下を向いたまま、顔を上げない。

怖くなってきて、私は必死にお母さんに問いかけ続ける。


「お母さん、そうだよね?私を愛してくれてるから、今までのことを反省して、こんな風に優しくしてくれたんだよね?そうだよね?」

「澄洋ったら、何を言ってるのかしら?」

「私を愛してくれているから、なんだ…、よね…?」

「…ふふ…ふふふ…あははははははは!」


突然、お母さんが大きな声で笑い出す。

お腹を抱えて、ずっと笑っている。

恐怖心と懐疑心が、私の身体中を巡っていく。

まさか、そんな事はない。

きっとお母さんは、父親がそんなことを言っていた事を、笑っているんだ。

そうに違いない。

私は、自分にそう言い聞かせた。

でも、返ってきた言葉は、思ってもいない言葉だった。


「なぁんだ。もうバレちゃったの?」

「え…?」

「養育費もらい始めたのよ。おかげで、あんたがいない間に、楽しめたわぁ。たくさんの男と遊べたしね。」

「お母さん…?」

「養育費を要求するって、最高ね!あんたが居てくれて、本当によかったわ。これからも一緒に居ましょうね?私のか・ね・ず・る・ちゃん?うふふ…あはははは!」

「お母さんは…私を愛してくれてないの…?」

「愛してる?そんなわけないでしょ?あんたなんて邪魔なだけよ。」


その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが切れる音がした。

お母さんに、いや、母親に愛されていなかった。

ずっと、そう思い込んでいただけだった。

私が、そう思いたかっただけ。

でも現実は、そう簡単なものではなかった。

私は、道化そのものだったんだ。

そうして考えると、急激に笑いが出てきた。


「あは…あはははははは!」

「な、何笑ってるのよ、気持ち悪いわね。」


その言葉を聞いた瞬間に、私は母親に飛びかかっていた。

首を掴んで、数回床に叩きつけてしまっていた。

でも、そうしたことに、後悔と罪悪感も湧く事はない。

これは、私の思いそのもの。

そうしていると、母親が私の行動を止めてくる。


「ちょ、ちょっと!何するの!私はあなたの母親よ!?」

「母親なんかじゃない!!」

「ちょっと…。」

「私に、家族なんていた事はない!ずっと、ずっと独りだった!誰にも愛される事なんて、なかった!どこでも、私は!独りだったんだ…。」

「何よ…。養ってあげてたじゃない。何が悪いのよ!」

「愛してくれなかった!あんたが愛してたのは、お金と父親だけ!そこに私はいなかった!私は、ずっと愛されると思っていた、ただの道化!笑えるよね…?愛されてるなんて幻想を抱いていたんだから。滑稽すぎるわ。」

「澄洋…。あんた…。」

「名前呼ばないで!これは、私のもの!海がつけてくれた名前!あんた達がくれた名前じゃない!もう2度と呼ばないで!」


私は、想いの丈を全て母親に向けた。

いや、もはや、母親と呼ぶべきでもない。

この人は、私の親じゃない。

ただの他人だ。

そう思った瞬間に、私の目から、雫がこぼれ出す。

ずっと、私は、この世界で、たった独りだったんだ。

もうずっと、独り。

それに気がつかないまま、幸せという名の演劇を演じていたんだね。

それが今、わかった。

私は、私の目から雫を流したまま、母さんを上から見下ろす。


「私は、ただ愛されたかった。私の世界には、あんたしか居なかったから。いつか愛してくれるって信じて、どんな言葉も暴力にも耐えてきた。優しいお母さんに戻ってくれるって、心のどこかで、信じていたから。」

「あ、え…?」

「でもそれももう、私は信じる事はない。独りなのだから、どうなってもいい。自分が、あんたが死んだって何に思わない。」

「待って…、死ぬなんて、あなた何言って…。」

「私には、もう何もない。信じるものも、何もない。空っぽのもの。なら、消えたって問題ない。そうでしょ?」

「待って!そんなこと…私は、こんなこと言いたいわけじゃなかったのよ…。信じて…!どうしてこんな事を言ってしまったのか、私には分からなくて…。あなたを愛してるのよ!いつも後悔していたの…、どうしていつもこんな事をしてしまうのか、後悔ばかりしていたの。私は、本当はあなたを愛して愛して、やまなかったの。どうか、どうか信じて…!」


なんで止めようとするのか、私にはよく分からない。

どんな言葉も、私には響く事はなかった。

今までのことが、嘘だったなんて、そんな事はない。

それでなくなる事はない。

こんな言葉で、さっきの言葉がなくなる事なんてない。

今までの残酷な日々が、消える事なんて、あり得る訳ないんだから。

だって、私の事はか金ずるとしか思ってない癖に、止める必要がないはずだ。

すると、私は気がついた


「あぁ…。私が消えたら、お金がもらえなくなるもんね?残念だよね、お金がもらえなるなんて。」

「それはなんでか、口から出ていて…。」

「出てしまった言葉はね、消せないんだよ?」

「っ…!」

「そう思ってたって事でしょ?私なんて、お金でしかない。」

「それはっ…!あんたが、あの男に会ったって言うから、あの男のところに行くと思って!それで…!それに、なんでこんなことを言ってしまったのか、分からないのよ!」

「うるさいなぁ…。」


どんな言葉も、私には言い訳にしか聞こえなかった。

心が、冷え込んでいく。

私は、空っぽの道化。

笑顔も、どうやって出していたのかも分からない。

あぁ…。

私はどうしようもなかったんだ。

もう、私には何もない。

呆然と上を見上げていると、声が聞こえてきた。


『澄洋。私たちのところにおいで。』

『そうよ。私たち海は、貴女を受け入れるわ。だから、いらっしゃい。』


その声に、私は目を見開いた。

学校で聞いた声。

あの時は、思い出せなかった。

でも、そうだ、私はこの声を知っていたんだ。

海で、泳いでる時に、私に話しかけてきてくれた声。

私を包んでくれた、あの声だ。


『海は暖かい所。優しい場所。辛くなったら海に行くといいんだよ。そうすれば、何もかもを包み込んでくれる。1人になる事はない。きっと、私達を迎えにきてくれる。信じてみよう。信じよう。そうしたら、海は必ず、答えてくれるよ。さぁ、海に行こう。温もり溢れるあの場所に。』


この歌は、この唄は、おばあちゃんと一緒に歌った唄。

思い出した。

おばあちゃんが教えてくれて、一緒に歌った曲。

この声の人は、それを知っている。

海に行けば、この人達に会えるのだろうか。

そう思った瞬間には、私の体は勝手に動き出していた。

裸足のまま、外に飛び出した。

そんな私を止める声は、届くことなどなかった。


「待って!待って!行かないで…!澄洋!」


誰の声も聞こえなかった。

私には、さっき聞こえてきた声しか、心の中になかったから。

ふらふらと家を出たら、次の時には走り出していた。

いつもの道。

海へ続く、あの道を。

走っていく姿を見られているとは、思っていなかった。


「澄洋ちゃん…?」





 私は、裸足のまま、必死に走った。

足が痛くても、そんなことなど気にならなかった。

血まみれになった足のまま階段を降りて、砂浜に辿り着く。

そしたら、私は、ここに帰ってきたんだと、そんな気持ちになった。

目から雫を垂らしながら、海を眺めていると、急に目の前が光出した。

暫くは目を開けられなかったが、光が収まってきて、目を少しずつ開けていくと、そこには見たこともない、美しい人が2人、海の上に浮かんでいた。

1人は男の人で、なんだか古代ギリシャの人たちが着ていたような、左肩に服をくくっていて、垂れ下がっている服を腰に紐を巻いて留めていて、服から紐まで全てが海の色をしていた。

髪の毛はハーフカットで金色をしていた。

もう1人の女の人は、肩からうっすらと透けている服が腕を包んでいて、キャミソールのような服を上に纏っていて、寮からには金色のボタンがついていて、そこから少し服をたるませて、茶色の紐で留めていて、下はとても長いマーメードスカートを纏っていた。

その女の人も海の色の服を纏っていた。

この女の人は、スカートよりも長い髪の毛をしてきて、男の人と同じ金色の髪をしていた。

初めて見る人たちなのに、なぜか懐かしい感じがした。

ぼうっと、2人を眺めていると、私に話しかけてきてくれた。


『辛い目にあったな、澄洋。』

「どうして知って…?」

『貴女の事なら、なんでも知ってるわ。』

「なんでも?」

『そう、なんでもだ。』

『でも、貴女が辛い時に助けてあげられなかったわ…。ごめんなさい…。』

「いえ!そ、そんな…。」

『でももう、そんな事はなくなる。』

『そうよ。私達と一緒に海で生きれば、もう辛い事も悲しい事もなくなるわ。』

「辛いこと…。」

『そうだとも。』


一緒に行けば私は、独りじゃなくなるんだろうか…。

この人達がなんで浮いていのか。

なんで私を知っていたのか。

どうして、私に起こったことを知っているのか。

本当は、気にしないといけないんだろうけど、この2人を見ていたら、何も気にしなくて良くなっていた。

そんな事なんて、どうで良かった。

私には、どうしても愛してくれる人が、必要だったから。


(この人達は、私を…愛してくれるだろうか…。)


ふっと、そんな考えが浮かんだ。

それほど、自分が愛に飢えていたなんて、思いもしなかった。

そんなことを考えていると、気がついたことがある。

あんなに苦しかったのに、いつの間にか、痛みや苦しみ、悲しみ、それが消えているのがわかった。

体も、軽くなっているのがわかる。

あんなにも、石のように重かったのに。

それが無くなっている。

この人達と会っただけで、私は、気持ちが楽になったんだ。

こんな風に思ただけで、私はこの人達は信じていい人なのだと、思えていた。

その前に、聞かなくてはならない事があるのに気がついた。


「あなた達は…誰なの…?」

『ん?あぁ、紹介したことがなかったな。』

『私達はね、海の神様なの。海そのものよ。』

「海の、神様…。」

『そして、貴女は私達の愛し子。』

『海が愛した子ども。海に居るべき子。』

「私が、愛し子…?」

『そうだよ、澄洋。』

『だから、私達と一緒に来て欲しいの。』


(私が、海の神様の愛し子…?)


信じれる人だと思っていたが、私が愛し子だと言うことが、どうしても信じられなかった。

私を愛してくれる人なんて、もう誰もいないと思っていたから。

でも、この人達が言う事を聞いていれば、また愛を理解できると、そう思えた。

だって、それならば、私が海の中で息をし続けられる事と海の生き物達が私の側によって来てくれる事。

それが、私が海の愛し子だという事だから、それができていたという事ではないだろうか。

それならば、そうなら、私は、この人達と一緒に行けば、私は愛してもらえると言う事なのだろうか。

そう考えたら、勝手に口から、言葉が出てきてしまった。


「一緒に行ったら…私の事…愛してくれる…?」

『何を言っているんだ、澄洋。』


(やっぱり…私なんて、愛してもらえないんだ…。)


『私達は、とっくに貴方の事を愛しているわ。』

『そうだとも。』

「愛して…くれていた…?」


驚愕した。

いつからこの人達に、愛されていたんだろう。

だって、ちょっとしか会った事なかった。

いや、よく考えると、声しか聞いた事なかったはず。

私の事を、見たこともなかったのに、どうして愛してると言えるのだろうか。

言葉を交わしただけ。

そんな私を愛してくれているなんて、信じてもいいのか、とても悩ましかった。

でも、この人達に私は縋る以外、何も浮かばなかった。

そう思ったら、もう口から声が出てしまっていた。


「お願い…、私を愛して…、助けて…。」

『もちろんだ。私達と、この海に一緒に行こう。』

『苦しみも悲しみも消えて、しかも、私達は貴女を歓迎するわ。』

『そして、私は君を愛するとも。』

「それなら…、私を、連れて行って!」

『もちろんだ。』

『さぁ、行きましょう!』


そう言って、女の人…じゃなくて、女神様が、私に手を差し伸べてくれた。

最初はちょっと怯んだ。

だって、怖かったから。

いくら愛してくれるとはいえ、裏切られる可能性もあったから。

少し躊躇っていると、何かが背中を押した。

なんだろうと、後ろを振り返ってみると、そこにはいるはずもないアシカが、そこにはいた。

私を前に押し出すように、鼻で背中を必死に押していた。

その必死な姿に、私は足を進めてしまって、女神様の手を取っていた。

その手がとても暖かくて、ホッとした。

すると、引っ張られて、そのまま女神様に抱きしめられる。


『あー!やっとあなたを抱きしめられるわ!』

『あぁ、とても幸せだね。』

『私達の愛し子。一生一緒にいましょうね?』

『ずっと愛しし続けよう。約束だ。』

「約束…。」

『そうよ。約束。』

『神の約束は、決して破られる事はない。』

『だから、安心して頂戴?』


神様達の言葉に、本当の涙が目からあふれてきた。

それと同時に、心からの笑顔が浮かび出てきた。

今まで、こんな事、幼少期にしかなかった。

抱きしめてくれる女神様の背中に、私はそっと手を添える。

すると、男神様も私達を、抱きしめてくれた。

昔感じた温かさに、温かくなっていく心を感じて、神様達にすり寄る。

そんな私を、頭を優しく撫でてくれる。

私はその中で、もう何も心配しなくていいんだと、感じられた。

大好き。

海の全てが、大好きだ。

そう思ったら、今まで暮らしていた世界なんて、どうでも良くなっていた。

そんな中、後ろで声が聴こえてきていたが、私には聞こえてこなかった。










「澄洋!お願い!帰ってきて!私は、私は本当は…、貴女を愛していたのよ!でも、どうしても、何もかも嫌になってなってしまってて…貴方に当たってしまっていたの!それが、自分では止められなくて…、苦しかったの、こんなこと言いたくないのにずっと言ってまっていた。ごめんなさい!ごめんなさい…!」

『黙れ人間。私達の愛し子にしたこと、我々は許しはしない。』

『もう帰りなさい。そして、全てを忘れるのね。』

「忘れるって…、澄洋を忘れてしまうという事…?」

『そうだ。この子はもう、我々のもの。貴様のものではない。』

「そんな…!」

『この子は、産まれし時から私達の愛し子なのだ。』

『そう。そう決まっていたのよ。』

『これは、神が定めし運命なのだ。』

『だから諦めなさい。』

「神が定めただなんて、おかしいわ!あの子は、澄洋は、私が産んだ子!私のお腹から産まれた子!それが神の子だなんて…、信じられるわけが…。」

『それだけだったと言う事だ。』

『そう。貴女愛情はそれだけだったって事でしょう?』

『その通りだ。気がつきもせず、改めもせず、ずっと過ごしてきたのだから、其方の失態なのだ。』

『そうね。貴女の責任なのよ。』

「そんな…!私のせいでは…!」

『んふふ…。』

「なんで笑って。」

『この島での出来事は、全て我らが仕組んだ事なのだ。』

『そんなことに簡単な事に気がつく事なく、日常を看過してきたのだから、諦めるがいいわ。』

「そんな…、そんなことって…。」


澄洋の母親が、絶望をしてた。

これが仕組まれていたことだと気がつくことなく、享受して、自分の娘に甘えていた事実。

このことが全て、神に仕組まれていたことという真実。

その事に、うちしがれる母親。

絶望が押し寄せて呆然としている母親の後ろから、砂地を必死になって走っている音が聞こえてきた。

それは、彼女と学校で共にいた、加藤という子であった。


「澄洋ちゃん!」


女神に抱きしめられている澄洋に向かって、、大きな声を出す。

しかし、澄洋が反応する事はなかった。

そんな様子に愕然とする少女に、男神が声をかける。


『其方は…。確か、澄洋に加藤、そう呼ばれていたな。』

「澄洋ちゃんをどこに連れて行くの!?」

『この子は、我々の居る海へと連れていく。』

「そんな…!もう澄洋ちゃんに会えなくなるって事なの…?」

『そうよ。私達と一緒に、海に行くの。ほら、体が海に適してきているわ。』


女神の言葉に、2人が澄洋を見ると、体が透けてきて、少しずつ変化もしていっていた。

クジラのような姿へと変化していっている。

姿を変えていく澄洋の姿に、2人は驚愕をする。

澄洋の母親が、必死に声を出す。


「やめて!私の子を連れて行かないで!お願い…願いします…!」


必死に訴えながら、彼女は土下座をする。

顔に砂が付くのも関係ないかのように、必死に懇願する。

しかし、その様子を神達は冷めた目で見ていた。

少女も、そんな母親の姿にならって、隣に立ってひざまずいて土下座をする。

口の中に砂が入ろうとも、少女は声を出した。


「お願いします!彼女とは、謝ることも、一緒にもっと話すことも、話すこともできていないんです…!どうか、その時間を私にください…!連れて行ってしまうとしても、話す時間をください!」


泣きながら、顔に砂がつこうとも、口に砂が入ろうとも、彼女は少しでも澄洋と話をする時間を与えてくれるよう、懇願した。

少女の必死の言葉に、女神が男神に耳打ちをする。

すると、男神は少女に向かって、声をかける。


『いいだろう。愛し子と話す時間を与えよう。』


その言葉に、少女は勢いよく顔をあげ、涙を流しながら笑顔になる。

一緒に聞いた母親は、自分も話せると思い、輝いた笑顔を見せて顔をあげるが、神達は残酷な言葉を口にする。


『少女には、話す事を許可しよう。しかし、それ以外の人間は決して話すことを許さない。』

「そんな…!その子は私の子なのですよ!なのになぜ…!」

『そんな事なんて、考えればわかる事でしょう?貴女はどれだけ、この子を傷つけたの?私たちがした事を分からないまま、愛し子に甘えていた。そんな事も忘れたの?その事を私達は許していないわ。』

『そういうことだ。』

「そんな…。」


神は元来、残酷だ。

決して、優しいだけではない。

自分の愛している者にしか、祝福を与えることなどない。

だからこそ、神は時に残酷なのだ。

それを知って、心得ておくべきなのだ。

人間など、神にはちっぽけな生き物なのだから。

そしてそれは、澄洋の母親にも向けられる。

澄洋の母親は、神に認められなかった。

ただそれだけの話なのだ。


『貴様は気が付かなかったのか?なぜ自分がこんなことをしてしまっていたのかを。』

「どういう…え、あ…あ…ま、まさか…!」

『そうだ。我々がそうした。』

「どうしてそんなことを…!」

『澄洋が私のものだからだ。』

「澄洋が、貴方のもの…?」

『間違ってるわ!あなた!私達の!よ!』

『そうだったな。すまなかった。』

「私の…私の子よ!私の体から産まれた子なのに!連れていくんなんて…どうしてこんな…!」

『違う。この子は産まれてきた時から、我々、海のものだ。』

「私の…大事な子なんですよ…!」

『もっと澄洋のことをが大事にしていれば変わっていたかもしれないが、そんな事など、もう些細なことでしかない。』

『そうよ。もう彼女は私達のもの。それが真実よ。』

『それが例え、我らが仕組んだことであったとしても、気が付かぬことが貴様の真理だ。』

「そんな…。」


絶望に浸っている母親を、悲しそうな目で見ていた少女だったが、澄洋と話せることの方が嬉しく、神達に向かって歩き出す。

そこで、思うことがあった。

疑問を神達に告げる。


「あの…。なんで私は、澄洋ちゃんと話せるんですか…?」

『それは、我々の試練に惑わされる事なく、澄洋の事を信じ、愛していたからだ。』

『そうよ。貴女だけは、惑わされることがなかった。』

『其れがこの時間を与えるに値する。』

『そうだ。さぁ、話すといい。』


懇願を込めた目で見ていると、澄洋に女神が声をかけた瞬間、少女に向かって澄洋が目を向けた。

少女は嬉しくなったが、その目は何も見てないような、がらんどうのような、そんな目をしていた。

そんな澄洋の様子に、怯む少女だが、意を決したのか、力を込めた目で澄洋を見つめながら

、前に向かって歩き出す。

そして、澄洋に向かって、大きな声で言葉を投げかけた。


「澄洋ちゃん!ごめんなさい!私、自分のことばっかりだった!」

『…。』

「私は、ずっと澄洋ちゃんと仲良くなりたかったの!それで、悩みを話したり、笑い合ったりしたかった。自分勝手だと、わかってる…。」

『…。』

「でもね!本当に大好きだったの!かっこよかったから!1人でも背筋を伸ばして、座っている澄洋ちゃんに憧れてた。その目の中に、心の一部に入りたかった…。ちょっとでもいい。それで、話しかけてみたの。でもね、澄洋ちゃん、冷たく見えたけど、私の事、そこまで邪険にしなかったの。話をずっと聞いてくれてたし、そばにもいさせてくれた。それが嬉しかった。だから、調子に乗っちゃった!ごめんなさい!でも、もし、海の人になったとしても、私は澄洋ちゃんのこと、大好きだよ!!それだけ、忘れないで欲しいの!」

『…!か…とう…さん…。』


微かにしか聞こえなかったが、確かに少女の名前を読んだのが聞こえてきた。

そのことが嬉しかった少女は、顔がぐちゃぐちゃな状態でも、澄洋に向かって、最高の笑顔を見せた。

その顔を見て、澄洋の目に、光が灯る。

最高の笑顔を見せた少女に向かって、澄洋は微かに笑顔を見せた。


「澄洋ちゃん!海でも、幸せにね!私は、いつでも願ってる!ずっと大好きだよって、思い続ける!覚えておいて欲しいな。それだと嬉しい。」

『覚えておくよ。私の…大切な…友達…。』

「っ…!私も!澄洋ちゃん、大好き!」

『私も、大好き…。』


そう言ったと同時に、澄洋は海の方を向く。

そして、2人の神が澄洋の背を押すと、姿が変わっていき、その体は小さなクジラになって、海に入っていった。

少女は、澄洋に向かって、手を大きく振り続ける。

そして、神は2人に向き直る。

そこで、1人には祝福を、もう1人には残酷な言葉を投げかけた。


『澄洋がここにいたという記憶は、我々が持っていく。』

『それは、母親あっても同じことよ。』

「そ、そんな…!」

『もう謝ったところで、罪は消えはしない。』

『全ての人間から奪っていこうと思ったけど…、少女さん、貴女からは奪わないわ。』

『澄洋が君を愛しているからな。覚えていられるようにしておこう。』

「ありだとうございます!ありがとう…ございます…!」

『うむ。では、我々は、澄洋と共に行こうか。』

『そうね。待っているわ、私達の愛し子が。』

『さらばだ、人間達よ。』


そういうと共に、姿をクジラに変えた神達と澄洋は、海へと帰っていった。

海へ帰ると同時に、街を覆うほどの光を放つ。

少女と母親は、慌てて目を瞑る。

光が収まると、少女と母親は目を開ける。

少女は、澄洋の事を覚えていた。

ふと、澄洋の母親の事を思い出して、そちらを見ると、混乱した様子だった。


「私、なんでここに居るのかしら…?やだ!砂だらけじゃない!なにこれ!やだわ…早く家に帰らなきゃ。あの子が待って…あの子?あの子って誰かしら。やぁね、歳かしら。とりあえず、家に帰りましょ。」


そう言って、家に帰っていく様子を見送る。

本当に、澄洋のことを覚えていないのだと、少女は確信した。

そして、自分が覚えている事が、とても誇らしい気持ちになる。

手を上にあげ、大きく体を伸ばした後に、海に向かって大きな声で叫ぶ。


「澄洋ちゃーーーーん!!大好きだよーーーー!元気でねーーーー!また遊びにくるねー――!!ー」


そう叫び終わって、息を吐くと、遠くの方で小さなクジラが海の中から飛び上がる姿が見える。

そのクジラが、きっと澄洋なのだと、少女は思えた。

少女は、ずっとこれから海に来ようと思う。

そして、澄洋が幸せである事を祈り続けようと、心に決めたのだった。




きっと、いつか、彼女にもう一度会えることを信じて。



叶わない願いだとしても



彼女は願い続ける。



もう一度、一緒に笑い合えるように。



そんな日を夢見ながら…。







これは、とある少女の物語。




海の神に好かれた少女の物語。





この出来事が、果たして彼女にとって幸せだったのか。





それは、誰もわからない。





でもきっと、幸せだったのだと、祈ろう。





それが我々、人間にできる、最初で最後の事なのだから…。

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海生人 名桜リア @meiou_ria

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