兄貴の一本
佐藤シンヂ
兄貴の一本
【兄貴の一本】
黒猫を飼い始めた。
「兄貴、ご苦労さんです」
「おう」
正確には黒猫を名乗る男を飼い始めた。
健診帰りの自分を迎えにきた目の前の巨漢が、嘗てそう名乗ったのだ。
黒猫と言われて思い浮かべるのは、黒い毛並みとしなやかな体つき。ピンと長い手足をもち、我が物顔で人様の家の敷地内や倉庫の下、果ては車の中にまで入り込む(そこは黒猫問わず、どの猫もそうなのだが)。
ただ自分の舎弟となったこいつは、そのイメージにはそぐわない。例えるなら熊のような男だ。幅広い体格に立派な二重顎、鋭い目つきは猫と言うよりケダモノ。人間社会ではなく山の中が居場所ではないのか。毛むくじゃらで猛々しい手足を以て木に登ったり、川を登る鮭を獲っているのが似合っている。
だがとうのこいつが握っているのは鮭ではなく、車のハンドルだ。
「健診はどうでした」
「減量しろだと」
ワンボックスを転がしていると言うのに、なかなか運転席が窮屈そうに見える。後部座席から見るこいつの横顔は赤子のような頬肉で埋まっているにも関わらず、鋭い目つきだけが妙に爛々としていた。
なぜこんな男が自分のもとへ来たのか。出会った頃に問うた時、返ってきたのはこんな答えだった。
『助けて頂いた恩を返しに参りました』
なんとも義理堅いものだが、とうの自分には全く覚えがない。今まで何度か頭の中で記憶を掘り返したが、目の前の男と結びつくものはなかった。
自分も中年を過ぎてだんだん物忘れも増してきている。綺麗さっぱり忘れてしまう前に、なんとか思い出せないものか……と窓の外を見る。
その時、脳裏を過ぎるものあった。
「停めろ」
急かし気味に出た言葉に黒猫は忠実に従い、車を停める。自分はすぐさまドアを開け、その場所へ歩を進めた。
そこは古めかしいたばこ屋とビルの間にある、寂れた路地裏だった。
「ここは……」
「……昔、ここで弱ったガキを見つけてな」
ついてきた黒猫に、思い出したばかりの記憶を語り始める。
曇天の下、痩せ気味のガキがここに座り込んでいた。直前までどこぞとやり合っていたようで、どこもかしこもボロボロだった。
ぐしゃぐしゃの黒髪、痣だらけの体、腫れた目に切れた口端。そしてこちらを見上げる目つきの、なんとも可愛げのないこと。
『なんだよ、オッさん』
『随分派手にやられたな』
『関係ねェだろ』
そんなナリで一丁前に睨みつけてくる。一目でそいつを気に入った自分は威嚇する奴に構わず隣に腰を下ろし、胸ポケットから先ほど購入したばかりのものを取り出す。
黄色の背景にインディアンが描かれた箱の中から一本を少し取り出すと、そのガキに向ける。
『………』
ガキは一瞬躊躇ったものの、汚れた指先でそれを引っ張り出した。
『初めてか?火ィ点けながら、強めに吸え。こんな風に』
火を点けて吸い、煙を吐いてみせる。やってみろと使っていた安物ライターを渡したが、今思えばジッポーの方が様になっていただろうか。まあ過ぎたことだからしょうがないが。
慣れない手つきで数回かフリントを削って発火させた後、言われた通り先端に押し当てて吸い込む。点火はできたのだが、喉に一気に煙が迫ったのか勢いよく咳き込んでいた。
苦しむ顔を見てニヤついていると、癪に障ったのか負けじと再度口をつける。
『うめえか』
『大したことねぇ』
『それじゃあまだまだだ』
見栄を張るガキを鼻で笑いつつ曇天を見上げた自分もまた、キザなことを口にした。
『喧嘩に勝っても負けても、こいつがうまく感じるようにならねえと。猫みてぇに威嚇するだけじゃしまらねえよ』
『……うるせぇ』
その悪態を最後に、男二人が無言で煙を吐く時間が、そのまま延々と流れていった。
「車からここが見えるまで忘れてた。あのガキも今頃どうしてるかね」
黒猫の気配を背に感じつつ、俺みたいに忘れちまってるかなと自嘲する。
すると、それまで黙って耳を傾けていた黒猫が「いえ」と否定する。
「きっとそいつも、兄貴に頂いた一本の味を思い出していますよ」
当たり前のように言い切る黒猫の方へ振り返る。
相変わらずこちらを睨んでいるように見えたが、ふとその眼差しと記憶の中のガキの目つきが重なる。
「兄貴?」
……都合のいい妄想か、それとも。
こちらを気遣う様子に一瞬考えたものの、
「……そうだな」
ここで口にするのは野暮だとやめておいた。
確証が得られたわけでもなし、まだ忘れているかもしれない記憶を掘り起こしてからにしよう。
(ちゃんと思い出してやるからな)
密かな決意を胸に、思い出の路地裏に背を向ける。ついでに、久々にたばこ屋を覗いてみるか……。
******************
(自分はあの時の一本を忘れちゃいない)
路地裏を後にする大きな背中を追いつつ、心の中でひとりごつ。
兄貴として慕っている彼が、ここへ足を運んだのは心底驚いた。自分にとっても思い出深い場所。全ては兄貴がくれた優しさから始まったのだと、当時の記憶を呼び起こす。
自分は痩せぽっちのガキだった。血で血を洗うような荒んだ日々を送り、自分を囲う地獄こそが世界の全てだと絶望し、いつしかゴミのような場所でゴミのように死んでいくのだと諦めていた。
そんな時に現れたのが兄貴だった。大人に傷つけられ、ここで小さく蹲っていた自分を見つけ、声をかけてくれたのだ。
『にゃんちゃん、ほぉら。おいちいでちゅよ〜』
建物の隙間にいる自分に、赤く細長いものを差し出してくる。その時、兄貴の後ろにいた舎弟が同じものを大量に抱えていたのがちらりと見えた。あれは確か、タマさんだったか。
『兄貴!そんな隙間に入らないですって!ケツ挟まってますよ!』
兄貴は狭い隙間に大きな体を潜り込ませ、奥にいる自分へ懸命に腕を伸ばしていた。だが自分からすれば熊のような巨大生物が目の前に迫ってきているようなもので、当時は恐怖の対象でしかなかった。
空腹と怪我で動けない体を奮い立たせ、近づくなと唸り威嚇したものの、それに構わず兄貴は口元へその一本を届けさせようとする。
暫くそんな攻防戦が続いていたが、先に折れたのは弱っている自分だった。切り口から垂れている旨そうな匂いに、徐々に抗えなくなっていったのだ。
鼻先をつついてくるそれを、おそるおそる一舐め。すると渇いた精神がみるみる潤っていき、抑えていた食欲も爆発する。一転して貪り始めた自分を見て、兄貴は歓喜の声を上げた。
『食べまちたか!んまんまでちゅか!』
『兄貴そこで暴れちゃ……あっまたズボン破れた!』
『ほらほら、まだありまちゅよ!』
『穴広がってますよ!俺もうケツ縫うの嫌ですって!』
こんな自分に情をかけてくれた兄貴。そんな兄貴に自分はこう思ったのだ。『こんな大きな存在になりたい』と。
それからの自分は兄貴を目指し、たくさんの苦労を重ねた。その末にやっと兄貴と並ぶほどの巨体を手に入れたが、未だその背に追いつけていない。
いつかきっと兄貴のような男になる。あの時の誓いを胸に、表へ戻る背中に続いて一歩踏み出した。
(ビリッ)
「あ、」
……未だ慣れない体で、こんなドジも踏んでしまうが。
音に気づいた兄貴が振り返る。
「破けちまったのか」
「すみません」
「後でタマに縫ってもらえ」
兄貴は朗らかに笑顔を浮かべる。ズボンの尻から漏れ出た黒い尻尾がぴんと立つのを感じながら、自分も笑顔のつもりで表情を動かした。
兄貴の一本 佐藤シンヂ @b1akehe11
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