第8話 プレッツェル&コーヒー

ソフィアに宿の料金を払ってもらったことが、なぜだかずっと心の中で引っかかっていた。何かこう、覚えていない過去の中に、女性に借りを作った結果面倒なことになった経験があるような気がするのだ。その幻聴まで聞こえてくる。


『ジンったら、お金を忘れてくるなんて…これは貸しよ。任務が終わったら、今夜は私の部屋で待ってるわ』


その声の主が誰なのかは分からないが、一つその幻聴から分かったことは自分の名前が『ジン』と『エーデルワイス』の二つから成ることくらいか。


『入っていい?』

「どうぞ」


ソフィアは盆に細く絡み合ったパンを乗せて部屋に入ってきた。


「下でプレッツェルを買ったの。ヒルデムンストの名物だよ」

「頂くよ」


そういえば、一切空腹を感じていなかったが、記憶を失う前に何か食べていたのだろうか。少なくとも半日は前になると思うが…


「ビールも売っていたけれど、私は飲めないし、君も大人には見えないから買わなかったんだ。その代わりにコーヒーをつけてくれたけどね」

『———まだ未成年だろうが』


また幻聴か。食事の時くらいはやめてほしいものだ。


「……ありがとう。美味しいよ」

「これが20トリウスしかしないんだから驚きだよね」

「そんなに安いのか…そうだ、お金のことで思い出したんだけど、紅石龍の毒はどこで手に入れたんだ?」

「ゴッドスパインの向こう側にいた時に、運良く死んだばかりの紅石龍がいたの。私、使になるために修行中だったからそれなりに価値は分かってたけど…500万かぁ…」


少し妙な話だが、もっと気にするべきところがあった。


使?魔術師じゃなくて?そもそも魔法使いと魔術師の違いって…?」

「驚いた…紅石龍は知ってるのに、魔法使いのことは知らないんだね…魔法使いって言うのはね、『神に認められた魔術師』のことなんだ。普通の魔術師とは格が違って、世界には数えられる程しかいない」

「そんな凄いものになろうとしてるのか?」


嘲笑や侮るつもりは一切なく、純粋な尊敬と疑問だった。


「私はなれるって信じてる。ならなくちゃいけないの。世界中じゃ、魔法使いは強大すぎて異端扱いだけど、故郷のリヴィドを守ってきたのは魔法使いだったから。『魔神王』エンバージュ・ドラズィアスターに、『神殺し』のゼロ・スティングレイ、『原初の魔女』フェリシー・ド・アークス…どれもリヴィドでは英雄だよ」


その名前の全てに聞き覚えはなく、幻聴も反応しないようだ。どうやら、盆はリヴィドとは無縁の生活を送っていたらしい。


「君ならなれると思う」

「面と向かってそう言われるとちょっと照れるなぁ…。…あれ?君のその首の…」

「ん?」


ソフィアが僕の首を指差した。自分ではよく見えないので、鏡を見てみる。今初めて自分の容姿を確認したのだが、想像とはかけ離れていた。少女っぽくも見える顔に、黒い髪と海色の瞳。想像よりも整っていた、と言うべきか。目覚めた時は全身に傷を負っていて、さぞ顔も醜いのだろうと思っていた。


…そんなことはどうでもよく、首に金属質の首輪、あるいはチョーカーが着けられていた。


「なんだろう、これ」

「今日売ろうとしたジャンク品と似てる…それ、ケルニオンの発明品じゃ…」

「ケルニオン…?待てよ…ケルニオン、ケルニオン……」

「ゴッドスパインの向こう側にある国だよ。一ヶ月前、空中要塞都市?が撃墜されて壊滅したらしいんだけどね」


そんなに大きな出来事も覚えていないのに、どうして他のことは覚えているのだろう。


「僕はそこから…?」

「可能性としては…十分あると思う」

「……なら君はどうして僕を生かしているんだ?」


一歩、ソフィアから遠ざかった。脳が戦闘状態に切り替わり、彼女の隙を突いて反撃する、という思考がよぎった。


「…確かにケルニオンはリヴィドやヒルデムンスト、レグーナとも敵対してた。…けど君はどう見ても『良い人』でしょ?何か思い出したのか知らないけど、私達が争う理由はないと思うよ。だってケルニオンは滅んだんだから」

「……そうだったのか…ごめん、まだ記憶が曖昧で…自分がケルニオン人なのか確証がないんだ」

「気にしないで。人種なんてどうでもいいでしょ?同じ人間なんだから」

「…そうだね」


何かを思い出しそうな物言いだ。彼女と出会ってからずっとそうだ。忘却と想起の狭間で踊るような、あと少しで思い出せそうなのに、その少しが縮まらない。


「…この首輪が何なのか分かる?」

「うーん、魔動人形が着けてるのは見たことあるけど…何に使うのかはさっぱり…」


情報を得られるのはソフィアだけなので、彼女に分からないならどうしようもない。今は気にするべきではないか…


——残りのプレッツェルを食べ、コーヒーを飲んだ後、ソフィアは自分の部屋に戻っていった。見ず知らずの人間をこんなに手厚く面倒を見てくれるのだ、いつか礼をしなければならない。…だが、いつになるのだろうか?自分のことすら満足に解決できないのに…彼女は僕を『良い人』だと言ったが、本当にそうだろうか?幻聴から得られる過去は、どれも薄暗く、陰鬱なものだ。


———はっきり言おう。今の僕は他の何よりも自分自身を恐れている



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