難しい表現使いたがりがち

「よくそんな表現を知っていたね。」というのは褒め言葉では無い。


例えば時代遅れで通用しない表現を難語辞典的な本から引っ張り出して使うくらいなら、日常の生活に対する観察力の限りを尽くして自分なりの新しい表現を使った方が良い。筆者の文才を示すパラメータがあるとしたら、それは語彙によって決まるものでは無い。如何に読者の想像力の世界にアクセスして、想像を超える読書体験をさせられるかどうかに掛かっている。


もちろん読者のレベルを推し量るには、どれだけ難しい言葉や慣用表現を知っているかという指標が役に立つ。けれども、優れた読者が優れた筆者になれるとは限らないことは想像に難くないだろう。むしろ難しい言葉や表現にめっぽう強くなった人間の語感は一般人のものとはかけ離れていて、広く読んでもらうことには向いていない。


簡易で読みやすい表現・文体で書かれているのに、読み応えがある。一筋縄では行かない。そんな小説が私は好きだし、サリンジャーなんかまさにそんな感じ。読んでみると良いよ。「登場人物がどんな人々で、どんな行動をして、何を考えているのか。」それらは簡単に、実に簡単に読み取れるのだけれど、例えばエレベーターで一緒になった見ず知らずの貴婦人に「あなた僕の足を見ていますね。」と追及したり、エロイーズがラモーナの眼鏡を握って「コネチカットのひょこひょこおじさん」と言ったり、窓の外の老人らの群れを見て「彼等はエスキモーとの戦争に行くんだぜ」と言ったり。訳が分からない。なんでそんなこと言うの?みたいな、なんでそんなことしてるの?がいっぱい。私が読みたいのはそういう謎を潜ませて、しかししっかりと答えを与えてくれている作品なんです。難しい言葉を多用しているだけの、文才というものを勘違いしている奴らの文章に読む価値は無いとすら思っている。


実際に私は川端康成の「雪国」に対して、Athhissya自作の小説「高松宮記念」の中で、『助詞の使い方が所々粗く、ごってごての正二十面体みたいな美しさをフェティシズム溢れる描写によって徹底的に出力しただけの、清らかで奥ゆかしい官能小説に過ぎず、未だ酸化しきってないとはいえ、100年くらい前に封を開けてしまった使い捨てカイロのようだ。』なんて批判しています。本気です。

(https://kakuyomu.jp/works/16818093074612084117/episodes/16818093075801374418 )


もう、ひたすらに綺麗なだけの文章って時代遅れなんですよ。難しい言葉でごってごてに小説を書いたところで、単なる文章が下手めなだけの作品しか生まれません。

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