意味を込めろ。ただひたすらに意味を込めろ。

なんでその文体なの?なんでそんな世界観なの?なんでそんなキャラクターなの?なんでそんな展開なの?なんでそういう結末にしたいの?結局何が書きたいの?どうしてそれが書きたいの?


文学なんて、意味を込めれば込めるだけ勝ちだと思うんですよね。あらゆるテクニックを意識的に用いて、全て読み取るには筆者本人であるか、100年かけて繰り返し読んできたエキスパートくらいの能力がなければ不可能であるくらいの小説でいいと思う。だって読者に全部読み取ってもらいたいだなんて土台無理な話だから。


カクヨムってさ、時間のありそうな富裕層とか、読み応えある文学が好きな物好き知識人をそこまで想定に考えてない人が多いと思うのよ。だって僕がそうじゃないもん。いや、読み応えある小説は好きなんだけど、しっかりと読み込んでやる時間がない。それは君たちだって同じでしょ。


筆者が時間をかけて書いた文章は、筆者の執筆期間より長い時間をかけて分析されてしかるべき。だとして、君たちは1週間かけて私が書いた小説を何度も読み返す胆力や時間の余裕があるとは思えない。


それに君たちの読解力にだって個人差がある。ネット小説なんてアクセスするだけなら誰にでもできるから尚更だ。どんなレベルの読解力を有している人でも楽しめる多段階的な小説を描きたいと思ったらば、とにかく意味を込めろ。


筆を取った理由から、描きたいテーマやメッセージ、誰に向けて、どうしてそれを筆者自身が文章にしなければならなかったのか。そこまで時間を割いて深く読み込んでやる小説を、書かなくてはいけないとは言わない。世の中では読み応えのない面白いだけの小説も売れている。


読者側が必死で筆者の頭の中を覗き込もうとあれこれ創作風景を考察するのに、[単にテキトーに書いた作品でーす]って言われたら悲しいじゃないですか。せっかくその人の作品のために自分の貴重な時間を割いているというのに、徒労に終わっちゃうってことじゃないですか。


読書をするということは、筆者の理論や世界観に沿って文章の理解を試みる行為である。つまり「自分なりの読み」というのは筆者の意図から逸れた解釈を招くことがある。だから我々は文学作品を精読する際に、自我を捨てていく意識を必要とするのだ。


私が私の自我を捨てて、あなたの自我へなりきるだけの価値があなたの自我にはありますか?という、人格否定の域に入る批評を私はしているわけです。それで怒らせてしまった人もいますし、今も「こんな小説程度、私ならぱぱっと書けちゃうな」と思いながら小説執筆をしているところはあります。

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