第9話 自分だけの特別な関係性

 体育館に集まったのは担任に桜を入れてちょうど十五人。五人ずつ三チームに分かれて二チームずつ試合をすることになった。春喜は龍と同じチームになり、その圧倒的な実力のおかげで大差での勝利を収め、今はコートの外、体育館の壁にもたれて座り休憩をしている。


 視線の先にはクラスメイトに交じって楽しそうに走り回る桜の姿がある。


 桜と同じチームになれなかったのは残念だが落ち着いて見ることができるのでこれはこれで良かったと思う春喜の隣に、水道に水を飲みに行っていた龍が腰を下ろした。


「春喜も結構上手いな。本格的にバスケやればいいのに。うちのチームならすぐにスタメンになれるぞ」


「そう? 龍に言われると嬉しいけど、そこまでの自信はないよ」


「いやいや、まじで、お前ならいけるって。俺が保証する」


「う、うん。考えておくよ」


 桜に誘われてからの龍は機嫌が良いようで、気さくに春喜に声をかけてきた。昨年までの龍のようだと安心しつつも春喜はやはり疑念を持たざるをえない。


「あのさ、龍。聞きたいことがあるんだけど」


「ん? 何?」


 春喜が龍の方に向き直り口を開こうとした瞬間、視界の端で綺麗な放物線を描いたボールがネットを揺らした。シュートを放ったと思われる桜がチームメイトの女子たちとハイタッチをする姿を数秒見つめたあとに再び龍の方を見る。


「最近ずっと元気がないみたいだけど、でも、さっき桜先生に声をかけられてからは元気になって、その、どうしてかなって……ごめん、答えにくかったら別にいい」


「桜先生には感謝してるからな。桜先生に期待されたらできるだけこたえたい」


「感謝?」


 龍はコート内を動き回る桜を目で追いかけながらとても穏やかな表情をしている。まるで龍が自分と同じ感情を抱いているようだ、と春喜は感じた。


 一生懸命に動き回り、声を出し、おぼつかない手つきながらもほんの一瞬だけ上級者のような動きをする桜の姿を春喜も見つめる。


「さっき坪倉とか寺田と苗字の話してただろ?」


「うん。それが何か関係あるの?」


「直接は関係ないけどさ……俺の苗字、本当はもう金城じゃないんだ」


 通常、苗字が変わる機会は本人か親の結婚か離婚。それ以外で変わるのはかなりのレアケース。それくらいのことは春喜でも知っている。


「それって、龍の親が……」


「四月になった頃から父ちゃんと母ちゃん、ずっと喧嘩ばっかりしててさ。家の中ではいつも母ちゃんのキンキンした声が聞こえて、父ちゃんは静かに話してるんだけど、たまに爆発して怒鳴り声を上げたり、それで母ちゃんが泣いて家を出て行ったりして、俺もなんか嫌な気持ちになって態度悪かったと思う。悪かったな」


「いや、そんな、そういうことならしょうがないよ」


 春喜は自分の両親がそんな状態になったことを想像し、胸が締め付けられ吐き気を催す。口の中に逆流してきた酸っぱい汁を飲み込むと、龍の境遇がほんの少しだけ理解できたような気がして言葉を失った。


「連休明けくらいから離婚の話が進んで、俺は母ちゃんと、兄貴は父ちゃんと暮らすことになったんだ」


「龍のお兄さんって、確か俺の父さんの学校に通ってる……」


「いや、もう卒業して今は大学生。バスケ部でさ、すげー上手くてカッコ良くて、兄貴に憧れてバスケを始めたんだ。だから兄貴と離れ離れになったのが一番嫌だった」


「だから最近元気なかったのか……」


「いや、違うんだ。それはもういいんだ」


「え? 違うの?」


「ああ。寝てたりぼーっとしてたりするのは疲れてるから。俺、連休明けて少ししたくらいから兄貴がいた桜高校のバスケ部を見学したり、そこのコーチにテクニックとか自主トレの方法とか教えてもらったりしてるんだ。もとのクラブの練習に加えてそのトレーニングもしてるから疲れちまって」


 わざとらしく本当に疲れたような声色を出す龍。その表情はにこやかで楽しそうに見えた。


 春喜の父親が勤める桜高校は様々な部活動が盛んな高校であり、特に男子バスケットボール部は全国大会に十年以上連続で出場している県下随一の強豪。そんなバスケ部のコーチの指導や自主トレーニングのメニューをこなせば小学生の龍には相当堪えるだろう。


「そうだったんだ……あれ? でもそれと桜先生は何が関係あるんだ?」


「俺に桜高校のバスケ部を見学してみないかって紹介してくれたのが桜先生なんだ。俺はやっぱりバスケが一番好きだから、それで嫌なこと忘れられたし兄貴がいたチームだって思ったらすげー嬉しかった。皆でかくて上手いのに何て言うのかな、ふ、ふん、ふい、ふいんき?」


「雰囲気?」


「そうそれ。雰囲気が良いって言うか、とにかくすごいんだよあのチーム。練習は厳しそうなのに楽しそうで、俺、絶対高校は桜高校に行く。ま、そんな感じだから桜先生には感謝してるんだ。疲れてるけど今がすげー楽しいから」


 龍の小学生らしい純粋な瞳に春喜は龍のバスケへの情熱を感じ取る。姉の栞とは種類が違う本気さが見えた。


 今になって思えば、栞はどこかひっ迫したように、絶望から這い上がるためかのように勉強をしていて、今の龍から感じる楽しさや希望はなかった。


 そして同時に桜への思いの強さも感じ取ることができて、やはり自分と同じ気持ちではないのかと春喜は不安を抱く。恐る恐る尋ねた。


「龍、あのさ……龍は桜先生のこと、好き?」


 二人の間だけ時間が止まったかのように、龍は体の動きも顔の動きも、呼吸すら止めて固まった。


 しばらくして「あー! また先生ボール蹴った!」「ごめーん!」という大きな声と笑い声が体育館に響き渡ると同時にまん丸くなった目や固まった表情が動き出し、訝し気に春喜を見つめながら龍は答えた。


 春喜は真剣そのものの表情でまっすぐに龍を見つめる。


「まあ、今まで関わった先生の中では好きな方かな……何でそんなにマジな顔してるんだよ」


「……あくまで先生として?」


「……お前、どうしたんだ?」


「どうなんだ?」


「……先生として、だけど」


「なら、いいんだ……」


 春喜は龍に嫉妬していた。


 同性である女子たちが自分よりも桜と仲良くしているのは構わない。だが、男子の中では自分が一番でありたかった。父親の教え子であるという特別な関係性、学級委員長という最も信頼されているであろう立場、おまけに学力も優秀。男子の中では自分が一番だと思っていた。


 だが、バスケットボールという春喜にはない要素で、龍は特別な繋がりを持っている。桜が何らかの伝手を使って自分の母校のバスケ部と龍を繋げたという事実に、春喜は嫉妬したのだ。


「そんな怖い顔すんなよ。ていうか春喜、お前まさか桜先生のこと、好きなのか? 先生としてじゃなくて……」


「そう、だよ」


 あまりに真剣な春喜の表情や声色に、龍は言葉を失う。


 真面目で優秀な委員長が、十歳以上も年齢の離れた担任の先生に恋をしているという事実を茶化す気にはなれなかった。


「そう、か。てっきりお前は星野と……いや、何でもない。まあ確かに桜先生綺麗だもんな。分からなくはない……」


「綺麗なのは事実だけど、それだけじゃないよ。例えばいつも優しくて……」


「あ、ああ。分かった分かった。お前の気持ちはその顔だけで充分分かったよ。でもな、春喜。これはまだ確かかは分からないんだけど、桜高校のコ――」


 龍が言いかけたそのとき、誰かがパスを取り損ねたボールが春喜に向かって勢い良く飛んできた。ぶつかる! と春喜が思った瞬間、隣から手が伸びてくる。


「おっと」


 反応の遅れた春喜に代わり座ったままの体勢で片手でボールを抑えた龍は出しかけていた春喜の両手の上に優しく置いた。


「大丈夫か?」


「う、うん。助かった。ありがとう」


「大丈夫? 春喜君、龍君」


 桜が心配そうに駆け寄ってくる。


 あんな話をしたあとで春喜は桜の顔をまともに見ることができずに「大丈夫です」と蚊の鳴くような声で言いながら差し出したボールで顔を隠す。


「良かった。ボール、ありがとね」


 そう言って桜がボールを受け取ると試合終了のブザーが鳴った。桜のチームのクラスメイトが喜んでいるところを見るとどちらのチームが勝ったかは容易に分かる。


「あと二試合くらいは時間あるかな。ほら、次は春喜君たちのチームの番だよ。行こっ」


 ボールを右手で小脇に抱えた桜が春喜に左手を差し出した。飾り気のない白くて細くて綺麗な指に春喜も自分の左手を伸ばす。


「先生、二試合連続なんて大丈夫? 息上がってない? もう俺らの二倍以上の歳なんだから無理しないでくださいよ」


「もう、失礼しちゃう。若いからまだまだ大丈夫」


 隣で立ち上がりながら軽口をたたく龍の言う通り、桜は息を荒くしていた。


 強がりながらも隠せていない大きな呼吸、赤く火照った頬、汗で濡れている髪、そんな桜を見ているだけで何故か恥ずかしくなってしまった春喜は桜の手を掴まずに勢い良く自力で立ち上がった。


「春喜君も元気いっぱいだね。負けないよ」


 桜はボールを抱えながらこぶしを握って強気な笑顔を春喜に向ける。


 春喜にとって桜は大人であり、担任の先生。大人の余裕と優しさを持っている桜のことが好きだ。だが、時折こうやって見せる無邪気で少女のような笑顔や仕草にもときめいている。


 こんな女の子が同級生だったら、そう思わずにはいられない。

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