第7話 夜を繋ぐ文明の利器

 六月の土曜日の正午。土曜日だというのに午前中は仕事だった春喜の父親が帰宅した。春喜が自分の部屋から出て父親がいる玄関に向かうと、父親と母親が小さく、白く、綺麗な封筒のようなものを見ていた。春喜に気がつくと、父親は少し焦ったようにそれを鞄にしまう。


「おかえり、父さん。それ、何?」


「ただいま。これは、春喜は見なくていいやつだよ」


「ふーん」


 父親が何か特別なものを持って帰ってきたときの行動は二種類。イベントのチラシとか職場でもらったお菓子とかの場合は春喜と母親と一緒に見てあれこれ語り合う。


クレジットカードや電気料金の請求書などの場合は春喜には関係ないと言って母親と二人で見る。今回は後者のようだが、請求書の類にしては上等な紙質で上品でありながらきらびやかな封筒のように春喜には見えた。



 その日の夜、春喜は自分のスマートフォンを使って東京の母親の実家に住む姉の栞に電話をかけることにした。


 スマホを持っていることを同級生に知られると羨ましがられるが、インストールできるアプリやアクセスできるサイト、連絡先を交換できる相手まで親の管理下にあることを伝えると可哀そうなものを見るような目で見られる。


 春喜は調べ物に関しては紙の辞書を見る方が好きだし、勉強については父親に聞いた方が速いし分かりやすい、ゲームはゲーム機を買ってもらえている、動画を見るより本や図鑑を読むほうが好き、瑛太はスマホを持っていないし、咲奈とは電話より直接話した方が早い。そんな理由から春喜のスマホは専ら姉の栞との連絡用のツールと化していた。


 栞の勉強中は電話が繋がらないので、ちょうど夕飯を食べ終えた十九時半頃を見計らってかけるとどうやら食後にアイスを食べているようで、声と同時にかすかに氷を咀嚼する音が聞こえる。


「もしもし。どうしたの? 電話なんて珍しい」


「ちょっと相談したいことがあって」


「相談? もっと珍しいね。何?」


「姉ちゃんは中学受験したいって父さんたちに言うとき、どうやって言ったのかなって思って」


 電話口の向こうから聞こえていた咀嚼音が消えた。


「……あんたも受験したいの?」


「うん。それならそろそろ対策を始めた方がいいかなって思ったから」


「どうして?」


「どうしてって……駄目かな?」


 春喜は正直なところ決定的な理由は持っていなかった。栞に憧れて、それなりに勉強が得意だから、それくらいしかない。


「お父さんたちには話したの?」


「いや、これから。姉ちゃんの言い方を参考にしようと思って」


 電話口の向こうで栞は大きくため息をつく。その後に春喜が聞いたのは怒りと呆れを含んだ声だった。


「理由も言えないくらい本気じゃないならやめた方がいい。そんなんじゃお父さんもお母さんも反対する。あんたじゃ絶対無理」


 理由が言えないというのは図星だった。本気のつもりだったが本気でないと思われるのも理解できてしまう。両親に反対されるのも納得だ。


 だが、学校では周りよりも少し大人で、頭が良くて気遣いができる春喜も栞の前では永遠に弟であり、ついムキになって反論してしまう。


「なんだよ! 姉ちゃんは自分は受験させてもらえたからってずるいぞ!」


 反論になっているかも怪しい反論に対し、栞は冷静に言い返す。


「私は本気で医者になりたい。でもうちの家計的に私立の医学部は厳しい。地元の進学校よりも東京の中高一貫の学校の方が国立の医学部の合格可能性が高いから、地元の公立校より中高の学費は高くなるけど大学が私立になるよりはましで、将来必ず返すからって言って、それ相応の勉強の成果も見せて、説得したの。どうしても医者になりたいなら地元の進学校で地元の県立医大の地域枠を目指してもいいんじゃないかって言われたけど、それは私のやりたいことと違かったから」


「え、えっと……」


 自分の知らない単語を並べられて困惑する春喜に、栞は追い打ちをかけるように続ける。


「私が医者になりたいって思ったのは小学二年生の頃。中学受験すると決めたのは三年生の頃。その頃には今言ったことと同じことをお父さんたちに言えた。知識も学力も今のあんたよりあった。それくらい本気なの。だから受験を許してもらえたんだ。どう? これでもずるいって思う?」


「うっ」


 他より少し頭が良いだけの春喜にこれ以上反論する材料も気力もない。意気消沈していると優しい姉の声がした。


「私の真似なんかしなくていいから、あんたは自分のやりたいことを見つけなさい。あ、でも大学に行きたいなら公立にしないと駄目。家のローンもあってお金大変だから。そのためには高校はなるべく進学校に行くこと。いいね?」


「う、うん」


「じゃあ私そろそろ勉強するから、またね」


「あ、待って。最後に一つ聞かせて。そもそも姉ちゃんは何で医者になりたいって思ったの?」


 春喜は電話口で感じていた栞の鼓動や動き、息づかいがほんの一瞬だが止まったように感じた。例えば騒がしい教室からふと音が消えるような、しーんという効果音が聞こえそうなほど音のない瞬間。そんな感覚を味わった。


「あんたは知らなくていい」


 怒りや呆れではない、低く重たい声が春喜の耳に響く。


 初めて聞く姉の声に春喜が呆然としている間に栞は通話を切ってしまった。



 ちょうどそのとき母親が春喜を呼ぶ声が聞こえた。風呂に入れという声だ。


 何が姉の地雷に触れたのか分からないまま春喜は湯船につかり、自分は何をしたいのか考える。栞に少し言われたくらいで中学受験のことなどどうでも良くなってしまって、気になりだしたのは自分や友人たちの進路のことだった。


 咲奈や瑛太とは中学までは同じとしても、その先はどうするつもりなのか。周りより少しだけ大人な春喜は少しだけ未来を想像する。


 少しでも桜に近づける進路は何か。そんなことを考えたら胸がチクリと痛んだ。来年はクラス替えがないからおそらく桜は担任を継続となる。今はまだ六月。小学校を卒業し桜と会えなくなるまで一年と十ヶ月もあるのに、今から別れがつらいと感じている。


 まだまだ小学生の春喜にはどうすればいいのか、何をすればいいのか、分からない。可能性が限りなくゼロに近いことは理解していても、春風に舞い散る桜の花びらから目当ての一枚を掴むように、わずかな希望を探してしまう。


 分からなくて、探して、分からなくて、そのループを何回も繰り返した。


 風呂から上がり火照った体を覚まそうと自室の窓を開ける。咲奈の家は春喜の部屋の窓のちょうど正面に見える位置にあり、咲奈の部屋にも電気がついていることが分かる。


 咲奈の部屋の窓を開けてこちらを見ればお互いの存在を認識することはできるのだが、会話をするとなると近所迷惑になるくらいの声量が必要で、小学二年生の頃にやって怒られて以来やったことはない。


 春喜は有名なメッセージアプリすらインストールされていない自分のスマートフォンを使って咲奈にメールを出した。


【咲奈は将来何になりたいとか、何をやりたいとかある?】


 自身の悩みを率直に乗せたそのメールにはものの数十秒で返信がきた。


【およめさん】


 たった五文字のそれは咲奈が幼稚園の年少の頃から言っていた将来の夢だった。なんだかんだ言っても咲奈は昔から変わらないということを感じて、春喜はスマホの画面を見ながら微笑む。


 開けた窓から咲奈の家の方を改めて見てみると咲奈の部屋の窓が開いていて、そこから春喜の部屋の方を見ている咲奈を見つけた。目が合った、と春喜が思った瞬間咲奈は窓を勢い良く閉めてしまった。仕方なく春喜も窓を閉めてベッドに腰かけるとすぐにスマホが震える。


【バカ】


 たった二文字が送られてきた。


【なんで?】


 春喜がそう返すとすぐに返信がくる。


【分からないからバカなの】


【ごめん】


 とりあえず謝ってみても咲奈からの返信はない。


 いつもならこのまま謝り続ければそのうち機嫌を直してくれるはずだが、最近、女心と秋の空という言葉を知った春喜はアプローチを変えてみることにする。


【明日、瑛太たちと午前中に遊ぶ約束してるんだけど咲奈も来る? 九時に瑛太の家】


【日曜の午前中はピアノのレッスンってずっと前から言ってなかった? 忘れたの?】


 怒りが前面に押し出された文面にしまった、と春喜は頭を抱える。最近の咲奈は何故だか急に機嫌が悪くなるときがあり、大抵は理由が分からないため気にしていないのだが、今回に関しては春喜がすべて悪い。女子の扱いって難しい、と思いながら、奇をてらったことはしない方がいいと自省する。


 春喜がどうしたものかと頭を悩ませていると咲奈からメールが届く。


【午後は予定ないから、春喜がうちに来たら? お母さんがフィナンシェ焼くって言ってたから。私も手伝うし。春喜の家におすそ分け持って行くけど、出来立てを食べた方が美味しいよ】


 突然優しくなる咲奈に、春喜はやっぱり女子って難しい、と思う。


【フィナンシェって何?】というメールは消去して【分かった。楽しみにしてる】というシンプルな言葉を返す。


【窓】


 咲奈からの返信はその一文字。窓を開けろという意味なのかと思った春喜が窓を開けて咲奈の家の方を見ると、案の定咲奈の部屋の窓も開いていて咲奈がこちらを見ているのも分かった。


 春喜のスマホが震える。今度はメールではなく電話だ。相手はもちろん咲奈。


「どうしたの?」


「私そろそろ寝るから」


「うん。俺も寝るかな」


「おやすみ」


「おやすみ……それだけのために電話してきたの?」


「悪い?」


「いや、昔みたいにそこから叫んだらいいのにって思ってさ」


「……バカ。もうそんな子供じゃないよ」


 遠くで小さく手を振る咲奈に春喜も手を振り返すと、今度はゆっくりと丁寧に窓が閉まった。


「おやすみ、春喜」


「おやすみ」


 咲奈の部屋の電気が消えるのを確認し、春喜も部屋の電気を消してベッドに横になる。



 ふと考えた。咲奈は自分のことをどう思っているのだろうか。一ヶ月ほど前に教室で加奈や唯たちとやり取りをしてから頭の片隅に持っていた疑問が急に大きくなって春喜の脳内を埋め尽くす。


 先ほどのようなやり取りを咲奈は他の男子とするのだろうか。


 春喜自身は桜とならしてみたいと思うものの、それを除けば咲奈以外としたいとは思わない。


 春喜にとっての咲奈は咲奈という特別なカテゴリにある存在。どうしてそういう風に考えているのかはまだ分からない。


 そんなことを考えているうちに春喜は眠りに落ちていった。

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