握力と知らない森

—―――――目を覚ますと、そこは森の中だった。


ぬぅん、ここはどこだ?


森の中、傾斜を感じるに山の中なのは間違いない。それはいい。先程までも裏山に居たのだから。

だが、我輩は先程切り立った崖から落ちたはずだ。開発が進んだ切り立った崖の下は、森などではなく固められた大地だったはず。決してここまで右も左も生い茂った木々に囲まれた場所ではなかったはずだ。


「……分からん。しかし、帰らねば母さんが心配する」


我輩は立ち上がり、周りを確認する。

……まるで現在地が分からない。これは遭難しているということだな。


まさか自宅の裏山で遭難することになるとは思っていなかったので、キャンプ道具を何も持って来ていない。暗くなる前に山を降りるか、急いで寝床を確保しなくてはならない。

本来であれば山の中で遭難した場合、闇雲に移動するべきでは無い。だが仕方ない。おそらく救助は来ないからだ。


なぜなら、我輩は今までにも修行のために一、二週間は平気で裏山に篭もることがあったのだ。母さんも何日か顔を見せないだけで捜索願を出したりはしないだろう。


「川……は、滑落した場所が正しければこっちのはずだが」


手慰みにその辺に落ちていた黒い石をいくつか拾い、それぞれの手の平の中で擦り合わせながら歩く。例え遭難しようと握力を鍛えるのを止めてはならない。


ゴリゴリ…ゴリゴリ…ゴリゴリ…


がさがさと木々や茂みを掻き分けて進むが、全く見知った景色に出会わない。まるで、何度も駆け回った裏山じゃないみたいだ。


ゴリゴリ…ゴリゴリ…ゴリゴリ…


いや、実際違う山なのかもしれない。見た覚えのない木、数時間は歩いたが一向に人里に降りられない巨大さ。


ゴリゴリ…ゴリゴリ…ゴリゴリラ…


それに、この石もそうだ。地面の感触があまりにも硬いため、落ち葉をちょっと掘ってみたところ、この真っ黒な石がびっしりと地面を埋め尽くしていた。

足裏の感触的に歩いてきた道のりすべてなのだろう。


ゴリラゴリラゴリラ…ゴリラゴリラゴリラ…


変わるけれど変わらぬ森の景色に、ニシローランドゴリラの学名すら幻聴がしてきたところで、絹を裂くような悲鳴が遠くから聞こえた。


「うほっ!?」


野生に還り始めていた脳が一気に目覚める。今のは女性の声か?

もしかしたら人里が近いのかもしれない。それに、この山は少ないけど熊や猪も出るはずだ、それかもしれない!

四足歩行をやめて、悲鳴の方に駆け出す。野生動物に無手で自ら近づくなど愚の骨頂だろうが、それは我輩には当てはまらない。

この山に出るくらいの熊や猪ならば我輩の握力で勝てる。というか勝ったことがある。—―――――この山が知っている山であれば、だが。

だがしかし、何よりも人命がかかっている。ここで聞こえなかったフリをするようでは、世界一の握力という誇りプライドはただの張りぼてになってしまう。


今行く、間に合ってくれ。





—―――――我輩がそこに着いた時見た光景は、ある意味で想像通り、いや、想像以上だった。

確かにそこには道があったし、野生動物に襲われている人がいた。今にも食いつかんと思う獣の食欲すら感じられた。咄嗟にその獣と尻もちをついている人の間に身体を入れる。


「大丈夫であるか!助けに来—――なんだ、こいつは」


それは確かに熊さんであったが、我輩の知る熊とは明らかに様相が違っていた。

我輩が撃退したことがあるのは我輩より小さい、1.7メートルくらいの熊だった。確か、日本で過去最悪の被害を出したヒグマは2.7mほどだったはずだ。だが、目の前にいる獣は……5mを超えている。2mの我輩が自身の3倍近いと感じているのだから多分間違いないだろう。

よく見れば、そもそも熊としてもおかしい。我輩の知る熊さんは、頭に三本の角なんて生えていないし、胸に光り輝く宝石も無い。


「あ、え、何?……だれ?」


背中に透き通った声が投げかけられる。森から飛び出す時に一べつしたが、襲われていたのは、翡翠色の髪と空いているか分からないような糸目が印象的な女性だった。

近くには弓だったと思われる折れた武器が落ちているし、女性は血塗れであった。どうやら間一髪だったらしい。


「こんばんはお嬢さん、良い月夜である!」


「え?え?お昼……え、いや、駄目よ!こいつはこの辺りのヌシよ!私は大丈夫だから逃げなさい!」


「ご心配なく!我輩は握力で世界を救う男、鬼切ニギル!貴女のハートとこいつのハート心臓、両方掴んで見せますので任せるのである!」


きらり、と輝く歯を見せて笑う。まあ、顔を向けているのは正面にいるのは熊さんなんだが。


「グルル……」


熊さんは突然の乱入者に身を硬直させていたが、今はじりじりと睨み合っていた。

だが、ふいに警戒の色が落ち、ゆっくりと二足歩行で近寄って来た。


「グルルルル……グァフグァフ……ムフー」


どうやら品定めをされていたらしい。涎を垂らし、ニチャア、と音が聞こえるほど口角をあげて喜んでいる。

……随分と人間臭い表情をする。つまり、こいつは我輩を『格下』と思ったのだ。餌が一匹勝手に増えたと。貴様は脅威に値しないと。

確かにこの熊さんから見れば、吾輩が2m近い長身だとしても大人と子供ほどの体格さがある。おまけに、配信用の全身タイツに無手。なるほど、これは弱いと思われても仕方がない。


「わけが無い。我輩が侮られるのはいい。だが、吾輩の握力が弱いと思われることが


バキンッ!


握ったままだった黒い石を握り潰す。



瞬間、我輩の身体は光に包まれた。



今まで感じたことの無い力が漲る。腕橈骨筋・回外筋・浅指屈筋などの握力を構成する前腕筋群がかつてないほどの万能感に包まれる。

掌が輝き、火が吹くかと思うほどの熱を発する。


「うおおおおお!!俺の、この手が、光って唸る!」


躊躇うことなく熊さんと四手に組み合う。

目の前の餌の突然の輝きに戸惑いつつも、熊さんは胸の宝玉を煌めかせて唸り声を上げる。


「グルルァ!」


気に入らないのだろう、餌が抵抗することが。

信じているのだろう、容易く屈服させられると。


体高が倍あるのだ、組みあった熊さんが一気に押し潰そうとしてくる。

背中がミシミシと音を立てる。一瞬で汗が滝のように吹き出し、肉体が危険信号を放つ。


なのに何故だろう、微塵も負ける気がしない。


「地獄でも」


右手からバキリと爪が割れる音がする。


「天国でもぉ!」


左手からブチブチと筋肉が引き裂かれる音がする。


「好きな方に送ってやるよ!」


「グルルァ!?」


熊さんの両手が砕ける音とともに、熊さんが身を捩って仰け反る。その隙を逃さず、無防備になった胸の宝玉を両手で掴む。

我輩の両手の輝きは両腕、胴と伝い、今や全身を包んでいた。軋んでいた身体は力が漲り熊さんを持ち上げる。


「グルァ!?」


自身より小さき者に持ち上げられた熊さんは焦り、足掻きとして無防備な我輩の頭に噛み付こうとしてくるが、もう遅い。


「光にぃ……なれぇーーー!!」


バキンッ!と手の中で宝玉の砕ける音がする、その瞬間。


「グオォォォォオオーー!!!」


それは正に断末魔の叫びであった。熊さんは我輩の頭から血反吐を滝のように吐き出し、緊張していた身体が急に弛緩してもたれかかってくる。反射的に押し返そうとしたが、真上からの5m超の巨体をそう押し返せるわけもなく。


「あ゛……重……」


先ほどまでは微塵も感じなかった重力と重量が我輩の背骨を圧迫する。気付けば身体を覆っていた光も消えてなくなっており、いつもより力が入らない。ボキボキと全身から嫌な音がすると共に、耐えきれなかった我輩の身体がぐしゃりと崩れ落ちる。


痛いと感じるよりも先に、潰されたことによる圧迫感で肺の空気がすべて吐き出してしまった。息が、詰まる。新しい酸素を、……意識が…遠のく……



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