灰狼のナザン -Accursed Travelers-
朽尾明核
Chapter.01 『石造りの町、山の神』
ACT.01/獣の呪い
それにわたしは、そもそもがひとっ
とどまっていられる人間ではなかった。
だから旅を続けた。それ故にこそいろんな経験を重ねた。
旅の目的はなんであってもよかったのかもしれない。
たとえ死であってもだ。人生と同じようにね。
(筒井康隆/「旅のラゴス」)
†
乾いていた。
見渡す限り、一面に転がる石と岩。植物の類は見当たらない。
傾斜が急な山道。
道とは名ばかりの悪路であった。辛うじて人が通った形跡こそあるものの、大小様々な石が無秩序に転がっているため、少しでも気を抜けば足を怪我してしまうだろう。
そんな山道を、ひとりの青年が歩いていた。
年のころは、二十歳ぐらいだろうか。荷物を載せた馬を一頭連れている。片手には杖を突き、紺色の
無造作に伸ばされた灰色の髪。鋭い眼光。目の下の隈が濃い。一目でそうとわかるほど、疲れ切った表情をしている。
腰に下げた一振りの
青年の名は、ナザンと言った。
ナザンが湖の畔の小さな村を出立してから、一週間が経過していた。
ここに来るまでの道中で一度だけ小雨が服を濡らしたが、もう五日も雨が降っていない。途中で寄った水場も、運悪く枯れてしまっていた。喉の渇きが限界に近づいてきている。
ナザンの口の中から、かろかろと音がする。彼は、木の実の種を口の中で転がしていた。唾液を分泌させることで、喉の渇きを潤そうとしているのだ。
途中で一度、
這々の体で棘鷲から逃げ切り、この山を登り始めたのが昨日の昼頃であった。
喉の渇きと、疲労が、限界に達そうとしていた。
石に躓き、体勢を崩す。杖を持っていたおかげで、転ばずにはすんだ。ぼんやりと集中力を欠いたまま歩くには、この山道は厳しい。
周囲を見渡す。木々がなく、一面に広がるのは岩や石ばかりだ。道の状態も悪い。故に、馬から下りて手綱を引きながら歩いていたのであるが――。
〈おい、ナザン。大丈夫か?〉
彼の耳に、鈴を鳴らすような、少女の声が聞こえた。
「ああ」ナザンは答える。
〈いや、大丈夫ではなかろう〉少女の声は否定する。〈先程から何度も話しかけたのじゃが……、お主、完全に無視をしていたぞ。歩きながら寝ていたのではないか?〉
奇妙な光景であった。
周囲に、ナザンの他に人の姿は見えない。
で、あるにも関わらず、どこからか声が聞こえてくるのだ。
まだあどけない少女のような声だが、言葉遣いは随分と古風だった。
「喉が渇いた」ナザンは、口の中の種を吐き出した。もはや唾液も出ない。「それで、気を失ってたんだろ」
〈切羽詰まっているのう……〉
植物が生えていれば齧り付いて水分を補給できるが、周囲一帯岩と石しかない岩石地帯だ。空気も酷く乾燥していた。喉の奥の奥まで、砂漠のように乾いているのを実感できる。
口腔に舌が張り付き、滑舌も怪しい。喋るのが億劫になる。それを察したのか、少女の声もそれ以降はだんまりで大人しかった。
黙々と歩き続けたナザンが、山の中腹にある石造りの町に着いたのは、夕方になってからだった。
まるで町自体がひとつの巨大な岩のように見えた。四方を、城壁で囲んでいるのである。聞いた話では、もともとは百禍戦乱期に要塞拠点として利用されていたらしい。
町の警備は厳重だった。
大きなだんびらを佩いた番兵が、ふたりで町へ続く門を守っている。
ナザンにとって予想外だったのは、町へ入ることができないということだった。
「誰であろうと、いま町へ入ること
大柄な番兵が、有無を言わせぬ口調で告げてくる。
「なぜだ」
ナザンは言った。兎に角一刻も早く喉を潤し、身体を休めたかった。
「〈山の神〉がいらっしゃる日だからだ」
「……山の神?」
「そうだ」番兵は頷く。「五年に一度、山の神が町へといらっしゃる。その間――三日間ほどだが――町の住人たちは家に篭もり、一歩も外に出ない。そういう風習があるのだ。禁騒日とも呼ばれている。大きな声で騒いだり、酒を飲んだりも許されない。そして、何者も町へ入れてはならないのだ」
ナザンは押し黙った。旅をしていれば、こういった独自の風習を持つ村や町に訪れることは珍しくない。経験上、この手の慣習を無視して住民たちと軋轢を生むことは、プラスにならないことが多かった。
「町へ入れないことはわかった」ナザンは頷く。「だが……、どうか、水を一杯貰えないだろうか」
「壁の外――あちらに井戸がある」番兵が指し示す。「夜の山道は危険だ。城壁の前で野営をするといい。ろくなもてなしができず、すまないが」
兎に角喉が渇いていたので、ナザンは城門から離れると、いの一番に井戸へ向かった。
据え付けられていたのは、釣瓶井戸であった。
縄の付いた木桶を井戸に落としてから引き上げる。
三日ぶりの水だ。木桶いっぱいの水を、勢いよく飲み干す。地下水を汲み上げているのか、とても冷えている。ほとんど息継ぎもせず、喉に水を流し込んだ。
――冷たい。美味い。生き返る心地だ。
ふう、と息を吐き出す。涙が出るほど美味かった。比喩ではない。実際に、自分が涙ぐんでいるのを感じる。
町の近くには泉があった。ナザンはそのあたりで野営をしようと思ったが、先客がいた。
十人ほどの集団だ。馬と馬車、荷車もいくつかある。どうやら、キャラバンのようだった。
「災難だったな、兄さん」
キャラバンのうちの一人が、話しかけてきた。三十歳ぐらいの男だ。髭を伸ばし、肌は健康的に日に焼けている。男は、コパンと名乗った。
「何か入り用なものはないかい?」
コパンが質問をしてくる。
「旅人相手に商売か」ナザンは言った。
「そうなんだ。正直、まさか町へ入れないとは思って無くてな。どうしたもんかと。予定も大きく狂っちまって、隊長たちもいろいろと話し合っているよ」
コパンたちのキャラバンも、ナザンと同じように閉め出されてしまったらしい。町には今日の昼頃到着したそうだ。酒や食料、雑貨などの日用品を捌き、代わりに鉱石や金属加工品を仕入れる予定らしかった。コパンが言うには、この町は、金細工でも有名とのことだ。
「けどまあ、こうなっちまったら何もできねえしな……商品を遊ばせとくのも癪だし、少しでも売っておきたいのよ」コパンは頭を掻いた。「そんなわけだから、便利なもんは一通り揃ってるぜ」
コパンの提案は、ナザンにとっても渡りに船であった。本来ならば、町でいろいろと旅の補給をするつもりだったからだ。
「そうか……」ナザンは少し考える。「なら、食料がいくつか欲しい。干し肉やナッツ類、
「おうよ」
「それから――革の水袋はあるか? ひとつ破れてしまって、新しいものを買いたい」
「お安いご用だ」
「あとは……鞄かな」
「鞄、か――」コパンが口をへの字に曲げる。「日常生活で使う物ならいくつかあるが、旅人の使用に耐える頑丈なものってなると難しいかな……。壊れちまったのかい?」
「ああ」ナザンは、地面に置かれた鞄に視線を向ける。「来る途中、棘鷲に襲われてな。穴が空いてしまった」
「そりゃあ災難だったな。よく生きていたもんだ」
コパンが屈み、穴の空いた鞄を矯めつ眇めつ眺めている。応急処置として紐で縛ってはいるが、長く耐えられるものではない。
「これぐらいだったら、直せるかもな」コパンが言った。
「そうなのか?」
「ウチの隊商に、カカトラという、繕い物が得意な娘がいる。彼女に頼めば、直してくれるだろう」
「それは助かる。お願いできるか?」
コパンに提示された金額も良心的だったため、一も二もなく鞄の修理を依頼した。
彼と別れたナザンは、野営の準備をすることにした。日没が近い。キャラバンから薪を買い、焚き火に取り掛かる。
火打ち石を擦る。乾いた音が響いた。擦過時に生じる火花を火口に着火させる。そうしてできた火種に、ゆっくりと息を吹き込み、少しずつ火を大きくしていく。ある程度の大きさになったら薪をくべる。最初は、細い枝を。それから、順番にくべる薪を大きくしていく。
やがて、火は十分な大きさになる。橙色の光が、揺らめきながら周囲を照らす。
火起こしがここまで早くなったのも旅に出てからだ。旅に出る前は、あまり火を付ける作業が得意ではなかった。必要は技術を伸ばす、ということだろう。
火を見ると、こころが落ち着く。理由はわからない。魔物や獣は火を恐れるという話がある。その説が正しければ、人間だけが、火を見ることで安心を得ることができる。それはなぜか。
ナザンはしばらくの間、地面に座り、ぼんやりと火を眺めていた。
そうしているうちに、日は完全に落ちてしまった。標高が高く、空気が澄んでいるからか、星がよく見えた。
目の前に広がる泉に、星々の光が反射し、まるで夜空がそのまま大地に存在しているかのようだった。
「ナザンさん」若い女の声が、ナザンの名前を呼んだ。「カカトラです。頼まれていた鞄の修理が、終わりましたよ」
背後を振り返る。ナザンが背にしている大きめの岩の陰から、若い女――カカトラだろう――が、ひょっこりと顔を覗かせた。
目が合った。カカトラの瞳が、大きく見開かれた。彼女は、小さく息を呑んだ。
しまった――。
ナザンの全身に、緊張が走る。
うっかりしていた。
後悔。
慌てて外套を被ろうとするが、時既に遅し。言葉を失ったカカトラの背後から、コパンも姿を現した。
「なっ――」
コパンの反応は早かった。彼は、呆然としているカカトラをかばうようにして後ろへ下げると、反対の方の手で素早く剣を抜いた。
刃の切っ先が、ナザンへ向けられる。
「
ナザンは、敵意がないことを示すため、両手を――手のひらを上に向けて地面に付けた。
「
「なっ――」
コパンが言葉を失う。ナザンは、彼を刺激しないように、ことさら丁寧に話を続ける。
「本当だ。着ている服に、覚えがあるだろう?」
コパンの視線が、ナザンの身体へ走る。
濃紺の
「信じられないなら、俺が今日キャラバンから買った物を、
「まさか、そんな――」コパンは、しばらく迷う様子を見せていたが、結局は、剣を降ろした。「……本当に、ナザンなのか?」
「ああ」
「だが、その姿は、まるで――」
「
コパンの言葉を先取りして言ってやる。
ナザンの科白に、コパンとカカトラはお互いに顔を見合わせ――、そして、ふたり揃ってナザンの方に向き直ると、こくりと頷いた。
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