タレントのIKKOは全くの他人と入れ替わっている

タレントのIKKOは全くの他人と入れ替わっている

 私の家の前に屋台が並んでいた。今日から街の縁日が始まったらしい。私はこの街に越してきたのは四ヶ月前だから、どういった祭りなのかは詳しくは知らない。私は前の街での役割を終えて、この街に彼とやってきた。二階建ての一軒家に引っ越してきたのは春先だった。彼は日中は仕事に出ている。何の仕事をしているのかは詳しくは知らないが、とにかく朝に家を出て、夜になると帰ってくるし、お金も少なからず持っているので仕事をしているのだろう。

 昨日の夜、彼とこんな話をした。

「“タレントのIKKOは全くの他人と入れ替わっている”って張り紙知ってる?」

「なにそれ」

「ネットで見たんだけど」

「知らないな」

 私はそんな張り紙、見たことがない。

「なんかおかしい人が、IKKOさんが入れ替わってると信じていて、それを啓蒙するために張り紙を東京中に貼ってるらしい」

「なんだそれ、いかれてるな」

 私たちはこんな話をして笑っていた。

 家を出て、少しだけ縁日の様子を伺うことにした。ドアの鍵は閉めずに鋪道まで出た。これが失敗だった。

 私の家の前に「馬越家 控え家」と書いてある張り紙が貼ってあった。首を傾げる。馬越とは私のことだが、この“控え家”とはなんだろうか。聞いていないし、聞いたこともない単語だった。

 首を傾げたまま家に戻ると、ひとりの小学生くらいの女の子が私の家の冷蔵庫を勝手に漁っていた。ギョッとして反射的に叫んだ。

「何やってる! やめなさい!」

 女の子は笑って、冷蔵庫に入っていた牛乳勝手に飲み始めていた。

 女の子が牛乳パックから直飲みしていた。牛乳パックからを取り上げてテーブルに置く。

「あなた誰なの? お母さんは? どこから入った?」

 女の子がキャハハと笑いながら私の家の寝室の方を指差した。

 女の子をキッチンに置き去りして寝室へ向かうと、私のベッドで見ず知らずのお爺さんが眠っていた。

「ちょっと、どこから入ってきたのよ。お爺さん起きてください、ここあなたの家じゃないんで。早く起きて」

 お爺さんは一向に目を覚ます気配がない。すーすーと規則的な寝息を立てている。

「なんなの、あんたたち」

 お爺さんをバンバン叩いて起こそうとする。すると、ベッドから猫が出てきた。猫は走って部屋の隅に行き、そのまま放尿した。臭い。野良猫の尿の臭いだった。

 後ろで走る音がして、振り返ると先ほどの女の子がリビングを駆け巡っていた。ソファには知らない男二人が座って休憩をしていた。

「なんなの? 屋台の人たちなの? 勝手に休憩所にしないで!」

 私はその場で叫んで男たちを追い出そうとした。男たちはこちらをチラリと見てから、タバコに火をつけた。

「ここは喫煙所じゃないのよ、ねえ、聞いてるの? 出ていってくれる?」

 男たちはガハハと大声で笑って、リビングに置いてあった空箱を灰皿にした。女の子と猫は走り回っている。お爺さんは起きもしない。

 私は急いで玄関まで行き、ドアの鍵を閉めた。家中のありとあらゆる窓を施錠し、これで誰も入ってこられないだろうとひとまず安心した。

 リビングに戻って全員に聞こえるように叫んだ。

「ちょっと! 警察呼ぶからね」

 なおも無視されて、私はスマートフォンを取り出して百十番した。

「事件ですか、事故ですか」

「わかりません、家に知らない人がたくさん入ってきています」

「えーなにそれ、ギャハハ」

「すぐ来てくれますか」

「なんで?」

「なんでって、不法侵入ですよ。早く来てください」

「早くってどれくらいですか? ギャハハ」

「どれくらいも何も知らないよ! とにかく早くできるだけ早く」

「あなたって待ち合わせする時時間決めないんですか? 普通大まかな時間って決めると思うけど、ギャハハ」

「じゃあ今すぐこの電話が終わったら来て」

「ギャハ、今お昼休憩なんですよね、ギャハハ。ドーナツ美味しいねえ」

「他に誰かいないの?」

「いますよ」

「じゃあ変わって、あんたは話にならない」

「おーコワコワ、どこに行けばいいんですか?」

「どこ、住所は南町一丁目3-3です」

「そんな住所は存在しないですねえ、グッ、グッ、グハハ」

 堪えきれないというように警察官が笑う。

「存在しないわけないじゃない! 私四ヶ月前にここに引っ越してきたの! 知ってるでしょ南町」

「聞いたことないですねえ、プッ、グヒヒ」

 可笑しくてたまらないというように笑っている。

 電話の間も猫と女の子が私の周りを走り回って、甲高い声で奇声を発し続けている。

「うるさい! 静かにしろ! 」

 私は家中の人々に叫んだ。

「おい警察早くしろ! 話にならないよ。どうなってるの」

「じゃあとりあえずその南町とやらを探して行ってみますね、ギャハハ。日が暮れる前に着けばいいかな?」

「そんなの遅すぎるでしょ! 今すぐ来なさい!」

 私は一旦電話を切った。するとすぐに父親から電話が来た。

「何? 悪いけど今忙しいの」

「お母さんがあなたの家に今向かってるそうだよ」

「どういうこと?」

「電車で向かっているそうだよ。彼にお土産があるとかで」

 母が住む場所と私が住む場所では車と電車を乗り継いで三時間はかかる。

「今どこまで来てるの?」

「あと一時間ほどで来るんじゃないかな」

「ありがとうお父さん」

 逃げなければ。電話を切ってそう思った。

 母は彼にお土産を渡して、私の周囲の人物に慇懃無礼をはたらいて囲おうとしている。彼に「今日は家に帰ってはいけない」というメッセージを残した。

「あんたたち! 警察呼んだからね!」

 彼らを脅した。捕まえられそうな者から捕まえていこうと思った。まず猫と女の子を捕まえてロープで縛った。女の子の口はガムテープで塞いでしまった。

 これでよし。男たちは尚も喫煙しながらソファでくつろいでいる。お爺さんは寝ている。あとは警察が来るのを待って、母親から逃げる。

 あれ、警察が来るのを待っていたら、母親から逃げられないじゃない。

 母親から逃げたら、警察を待てないじゃない。

 私はその場に立ち尽くした。どうしよう。どうしよう。考えろ。逃げなきゃ。とにかく遠くへ。

 家の玄関にそっと近づく。外では縁日のお囃子が鳴り響いている。お祭り騒ぎだ。ここを開けて外に出るか、家の中にいたほうがいいのか今判断すべきだ。

 その時、ドアノブがガチャガチャと動いた。私は小さく悲鳴をあげた。ドアが叩かれている。来た! 誰が? 警察? 母親?

 私は玄関から動けず、ドアノブがガチャガチャするとのドアが叩かれているのを見て聞いていた。ここで声を発して、母親だったら私が在宅であることがバレてしまうし、警察だったら助けてくれるかもしれない。玄関の向こうにいるのは、天使か悪魔か。

 しばらくそう考えて、私はあるアイディアを思いついた。家の二階から玄関を見たらいいんだ、と。

 私は足音を立てずに階段まで歩いて、ニンジャのように登った。

 二階には彼の部屋があるだけで、普段は立ち入らない。どういう部屋なのかも知らない。二階には一部屋と物置があることを知っている。位置的に彼の部屋から玄関が見えるはずだ。私は彼の部屋のドアを開けた。

 何もなかった。カーテンも、ベッドも、デスクも、パソコンもない。彼と寝る時は別々で、リビングでお休みの挨拶をしたら二階へ上がって行っていたはずだ。好きな配信者の動画の話をよくしていて、二階から配信者の動画を見ていると思われる笑い声も聞こえていたはずだ。なぜ何もないの? ベッドもパソコンも。彼は今どこへ行ってるの? 私は窓に近づいて陽の光を浴びた。眩しい。この眩しさは本当にある眩しさ? 

 窓を開けて玄関をのぞいた。縁日で大騒ぎだ。食べ物の匂い、多分炭火焼きとか何かを焼いた匂い。お囃子と神輿がゾロゾロと連なっている。子供も大人も大はしゃぎ。玄関には母親と警察官三人がいた。警察の一人がふと見上げてこちらに気づいた。

「馬越さーん。南町なんて本当はなかったんですよ、アッハハハハハ」

 警察官の一人が高笑いをしていた。

「ちょっとあんた何やってるの! 窓から離れなさい!」

 母親が叫んだ。

 もう終わりだ。母親から逃げられなかった。警察も役に立たない。この街が存在しないわけないじゃない。この窓から逃げよう。着地に成功して、その足で走って逃げよう。どこへ。どこか遠くへ。彼の元に行こう。彼は今どこにいるんだろう。とにかく探さなきゃ。食べ物の匂い、多分炭火焼きとか何かを焼いた匂い。お囃子と神輿がゾロゾロと連なっている。子供も大人も大はしゃぎ。今日はお祭り騒ぎだ。

 私は窓枠に足を乗せ、そこから飛び降りた。

 家の前の電柱の張り紙がひらりと剥がれ落ちた。“タレントのIKKOは全くの他人と入れ替わっている”と書かれた張り紙が風に乗って飛んでいった。

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