傘泥棒

@me262

第1話

 傘を盗まれた。コンビニの出入口の脇にある傘立ての前で、私は茫然とした。

 休日の午後、ネット通販で注文した本を受け取りに来た私は雲行きが怪しいので念のために傘を持参したのだが、品物を受け取り、しばらく店内をぶらついた後でいざ帰ろうとしたところ、傘立てに入れておいた自分の傘がないのだ。

 傘のない他の客の仕業だ。

 外は急速に暗くなり、既に大粒の雨が降り始め、遠雷まで聞こえる。今、傘を持たずに出ていったら、買ったばかりの本が台無しになってしまう。家族には見せられない、大人向けのとても高価な写真集だ。

 自宅の近くで購入すれば、ご近所の目に触れて、いずれ家族の耳に入るかもしれない。だからわざわざ遠くの店を受け取り場所に指定した。誰にも気付かれずに家を出るために、車を使わずに徒歩を選んだ。どれだけ注意して玄関のドアを開け閉めしたか。ここまで考えて行動していたことが、全部裏目に出てしまった。

 コンビニなのだから傘は売っているはず、そう思い傘売り場を覗いてみたが、既に売り切れていた。店員に尋ねても在庫はないという。私は己の不運を嘆いた。

 雨は激しくなる一方で止む気配はない。雷の落ちる音がかなり近くに聞こえてきた。おそらく今日一杯は降り続けるだろう。一体どうすればいい……。

 悩んだ末に私は他の客の傘を失敬することにした。

 しかし、傘泥棒など初めてのことなので緊張する。周りに気付かれずに傘を手にするタイミングが見いだせない。そもそも私のような者が傘泥棒などやってしまって良いのか?

 コンビニの出入口近くで店内と傘立ての両方をちらちら見ながら迷っている間に、傘立ての中身はどんどん減っていき、気が付けば残りの傘は一本になってしまった。

 どこにでも売っている安っぽいビニール傘、持ち主は誰だ?

 店内を見渡すと、一番奥のレジ近くで背の高い若い男が弁当売場を眺めている。他に客はいない。

 彼のものか。この傘がなくなったら困るだろうな。申し訳ないという思いが沸き上がってくる。しかし、こちらに背を向けている今ならば、絶好のチャンスだ。

 許してくれ。私だって被害者なんだ。

 自分にそう言い聞かせて傘に手を伸ばした。心臓が早鐘を打つ。黒いプラスチック製の柄に震える指先が触れた瞬間。私は襟首を掴まれて後ろに引き倒された。

 コンクリートの床に尻餅をついた私を、先程の若い男が血走った目で睨んでいた。その片手にはナイフが握られている。

 見られていた!しかもナイフだと!

 私の全身は硬直し、頭の中に後悔と疑念が渦巻く。傘一本で、どうして……。

 二人の間を雷鳴が通り抜けていった。

 だが、男は私に構わずに空いた手で傘立てから傘を乱暴に引き抜くと、駆け足で店を出ていった。私が呆気に取られていると、店員が奥から青い顔で近付いてきた。血が流れている左腕を押さえて呻くように言う。

「強盗だ……」

 私は店の外に目を向けた。男の姿は豪雨でできたカーテンの中に消えかかっていた。

 その時、凄まじい閃光と轟音が天から落ちてきて、私の視力と聴力を奪った。それらが去り、目と耳が正常に戻った後には、雷に打たれた男が黒焦げになって転がっていた。

 その後、私は警察の事情聴取を受け、夜まで帰れなかった。当然自宅に連絡が行き、私が外出したことも、その目的も家族にばれてしまった。唯一の救いはパトカーで家まで送ってもらったので、雨に濡れずに済んだことだ。

 同情と軽蔑が入り交じった微妙な雰囲気で家族に迎えられた私はすっかり疲れきってしまい、写真集を開く気力もなくベッドに潜り込んだ。

 もしもあの時、傘を盗んでいたら、雷に打たれていたのは私だったかもしれない……。その考えが頭にこびりついてなかなか眠れなかった。


 翌日、寝不足のために痛む頭を抱えて出勤した。仕事部屋に入ろうとすると、昨夜私を送ってくれた警官が挨拶してきた。

「おはようございます、署長。昨日は非番だったのに災難でしたね。しかしあの時、傘をお持ちになってませんでしたが、どうしたんですか?」

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