第17話 暗闇の聖女と鋼の騎士6
木々の間から徐々に赤く揺らめく光が広がる。
兵士たちがついに二人の周囲を取り囲んだ。
「すみません。追いつかれてしまいました」
普段通りの声で騎士は告げる。
それから彼は優しく聖女の足を地面に下ろし、その手を引いた。
彼女の乱れた髪を整えて、ふらつく体を左腕で支える。
捕縛されて尋問を受けた際にバラバラに切られた髪は、聖女を介抱してくれた女性によって綺麗に整えられている。だがその女性も昨日前に来世へと旅立ってしまった。
生きているのは聖女と騎士だけだ。その二人もこの夜を越えられたら奇跡だろう。最も、奇跡を起こしてくれる神などいないが。
「足元にお気をつけください」
「うん」
ここがいつもと変わらない教会の一室のような会話。
だがそうではないことを二人は十分に分かっている。
湿気を含んだ木々の香り、気温が落ち始めた夜の空気、松明から漂う油の臭いと何十人という兵士の発する熱。
肌にまで突き刺さりそうなほどの視線。
伝わる情報の断片一つ一つがじくじくと肌を焼く。
その時、取り囲む歩兵の輪が一部割れて一頭の馬に乗った男が進み出た。
教会の騎士ーー聖女を守るべき存在の一人。
傷ひとつ、汚れひとつない鎧を着たその男は馬に乗ったまま声を上げる。
「レゾリアディヌス! 魔女を渡せ!」
「不敬な! それでも聖女様を守ると誓った騎士か!」
男の言葉に、騎士は間髪入れずに吠える。
それと同時に聖女を背後に押しやって、鞘から剣を抜いた。
周囲の兵士たちが野犬の群れのように前のめりになって騎士を威嚇する。
「その女は聖女などではない! 魔女でないというのであれば、大人しく裁判を受けろ」
「は! 教会の魔女裁判など、女をいたぶり、なぶり殺すだけの場だ!」
「お前こそ、教会を冒涜するとは! この男は完全に魔女に操られている!」
馬上の男の声に合わせ、兵士たちがそれぞれ武器を持つ手に力を入れた。
パチパチという松明のはぜる音と、馬が落ち着きなく地面を掻く音がやけに大きく響く。
息を吸うのも躊躇われるような緊張感が漂う。
だが、その凍るような空気を壊した者がいた。
「ふふっ」
場にそぐわない軽やかな笑い。
ざわりと揺れる空気。
それまで騎士に向けられていたすべての視線が、その後ろで頼りなげに佇む聖女へと向けられた。
「リーシア様?」
囁くような声で騎士は名を呼ぶ。
前を見つめたまま、左手を後ろに回してそこにいる聖女の体を背中にぴたりと寄り添うように近づけた。
「面白い。私は、聖女で、魔女ってとこ?」
「楽しんでいただけて何より」
「ね、前に出させて」
「それは……」
「いいから」
シアの要望に騎士は一瞬気が進まない様子を見せるが、渋々と聖女をゆっくりと自分の横へと導いた。
顔を、特に目の周りを執拗に切り裂かれた聖女の顔が光に照らされる。
「ひぃっ!」
最前列にいた兵士の口から女のような悲鳴が漏れた。
シアはそちらに顔を向け、ゆっくりと口の端を吊り上げる。
「これがあなたたちが追っていた女の顔よ。見れて良かったわね」
皮肉をふんだんに込めたその言葉に、馬上の男が口を歪めた。
「魔女の言葉に耳を傾けるな! 心を操られるぞ!」
馬首を巡らせて周りを囲む兵士たちに向けて男が怒鳴る。
近くにいたものは慌てて馬から遠ざかり、警戒した体勢をとって騎士と聖女へと憎しみのこもった視線を向けた。
だがそんな彼らを騎士は鼻で笑う。切っ先が降ろされた剣がガリッと地面をひっかいた。
「聖女様の声を聞いたことすら初めてのお前が言うか」
「だから私は正気でいられる。お前のように魔女に狂わないでいられる」
「馬鹿馬鹿しい。私のどこが」
「魔女の周りで姿を消したものがいる。魔女に不相応な部屋や食事、服を与えたのもお前だろう。薄汚い部屋で、教会の与える慈悲に満足していれば良かったものを」
「聖女様を散々利用した教会が聖女様に与えるべきものをいただいただけだ」
「神の意志を愚弄するか!」
額に青筋を浮かべた男が喉を震わせて怒鳴る。
教会への盲目的な信仰。
彼の怒りは正しい。
教会が讃えているその存在が本当に神であるのならば。
「神か。本当にそんな存在だと?」
赤く揺れる光に照らされ、騎士は昏く笑う。
それは何年も前、騎士が青年だった頃に抱いた疑問。
本当に、この世に神がいるのか。
「貴様!」
馬上の男が激昂する一方、兵士たちは驚愕と怯えを含んだ眼差しを騎士に向けた。
日頃から神への信仰を絶対としている者たちにとって、恐れを知らぬ騎士の発言に神罰が今この瞬間にでも降るのではないのかと恐怖に体を震わせる。
だがそんなことは起こらない。
その代わりに聖女が再び口を開いた。
「神がいるのならば、最初から神に心酔している人に力を与えれば良かったのに。その判断もできない存在が神なわけがない」
自分に力が与えられたことを何度憎んだか。
神が本当に人のことを思って聖女に力を与えたのであれば、教会の考えにどっぷり浸かった者を選べば良かったのだ。
だがシアはそうではない。
「お前の力は神からのものではない!」
「それを判断するのは人間の都合。天候も病も死も、人はそこに自分勝手に善悪をつけて神の存在を押し付ける。“力“の源ではあっても、神であるとは限らないじゃない」
「お前、何を……」
シアの物言いに男が困惑の表情を浮かべる。
だがシアはずっと考え続けていた。
騎士が神という存在などいないと言い切ったあの日から。
確かにシアには力がある。
それは紛れもない事実。
それを神からの力だと何も考えずに受け入れていた。
だが、あの日、疑問が生まれた。
シアの力は本当に“神“が与えたものなのか。
「力のある存在であることと、神であることは違うんじゃないかしら」
シアに力を与えた存在が神ではなかったら。
ただ悪戯に人の運命を操る存在だったら。
そこに善悪の概念もない、ただただ人間を乗せた運命と転生の輪をぐるぐると回し続ける存在であるならば。
「お前たちは……お前たちは! 何を!」
怒りに目を血走らせ、男が馬の腹を蹴った。
騎士は聖女を自分の後ろへと押しやり、向かいくる馬の前に立ちはだかる。
「うおおおお!」
「はああっ!」
上から叩きつけられる剣。
馬の勢いも乗ったその剣が、騎士の体を弾き飛ばす。
だが騎士も一方的にやられはしない。倒れる前に馬の体に剣を突き、男を馬上から叩き落とした。
「ぐあ!」
「くっ」
苦痛の声が両者の口から漏れた。
騎士は矢を受けた左足を庇いつつ、背中の痛みに耐えながら起き上がった。
対する男も剣を支えに立ち上がり、騎士を睨みつける。
「お前たちを生かしてはおけない。騎士としての権利でお前たちを即刻死刑に処す。大人しく神の裁きを受けろ!」
「は! 馬鹿馬鹿しい!」
二人の男が剣を手に睨み合う。
兵士たちが息をつめてその様子を見守る中、シアは一人、離れてしまった騎士の体温を探す。
見えないシアには騎士が今どのような状況にあるのか知ることができない。
ただ相手の男を倒したとしても、兵士に囲まれているこの状況は変わらない。
だから必死に出口を探す。
土がえぐられる匂い、剣が重なる音、二人の荒々しい息遣いを聞きながら。
「見えなくても分かる」
シアは呟く。
視力がなくとも浮かぶ光景がある。
何年も、常に騎士の姿を追っていた。重い鎧の奏でる軽やかな音と、金属の奥から香る匂いと息づかい。見る代わりに全身で騎士の存在を探していた。
本人には気づかれないように、ただそっと彼の音に耳を傾けていた。
だからシアは傷ついた顔をあげ、彼を追う。
騎士が土を踏み締め、重なり落ちた葉を抉りながら前に踏み出す。
息を吸い、そして吐くと同時に剣が疾る。
シアは彼の全てを見えない視界の中で鮮やかに感じ取っていた。
騎士が聖女の前で剣を振るったことは一度もない。ただ時々金属の香りとは違う匂いを纏っていた。シアは何も聞かなかったし、騎士も何も言わなかった。
きっとこれが最後だ。
シアが騎士を見つめることができるのは。
見えないからこそ分かる。
二人の男の戦いの結末が。
泣き叫ぶような真似はしない。潰れた目からは溢れ出るものは何もない。
それでも一つ願うのはーー彼が息を止める時に、自分の呼吸も止まれば良い。
「くっ! があっ!」
苦しむ声の後、どしゃりと地面に転がる音がする。
シアはピクリと体を震わせ、そちらに顔を向けた。
騎士の口から絶え間なく漏れる乱れた呼吸音。
踏み荒らされて濃くなった大地の香りに混ざる血の匂いと、時折風に乗って流れる松明の熱。
横たわる騎士を見下ろし、男は騎士の右肩に自分の剣を突き立てた。
「無様だな」
「ぐっ! ふ!」
剣が深く肉を抉る。
騎士の体中が痛みで痙攣し、投げ出された足が土を削った。
それでも大きな叫びを上げないのは、シアを不安にさせないためなのだろう。
どこまでも奇妙な優しさを持った男だ。
シアの口元に笑みが浮かぶ。
「お前は終わりだ。お前も、魔女も」
勝利を確信した声が聞こえる。
聖女を守る騎士でありながら、一度も聖女の元に来たことなどなく、声を聞いたこともない。
そんな男の愉悦に満ちた宣言に、シアは顔を歪ませる。
一つでもいい。何か、その男を抉る傷をつけたいという衝動が湧き上がる。
剣を振る力はなくても、シアにだけある力で。
憎み続け、避け続け、偽り続けたその力。
今こそ、その力の全てをーー解放させる時だ。
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