第16話 暗闇の聖女と鋼の騎士5
地鳴りを響かせ、一頭の馬が陽の沈み始めた街道を疾走する。
不規則な音を奏でる金属と、笛のように引き延ばされた荒い馬の呼吸。
騎士は腕の中で声を一つも上げないシアの体を強く抱きかかえ、じくじくと痛む背中の傷を無視して正面を睨む。
行く当てなどない。
この国の中、どこへ行っても敵だらけだ。
教会が伸ばした肥え太った手は町や村の隅々にまで届いている。さらに言えば、都市よりも因習の強い田舎のほうが危険だ。
誰もが疑心暗鬼になり、自分が犠牲になる前にと昨日まで笑いあっていた友人を指さして「魔女だ!」と叫ぶ。
その兆候が見え始めてすぐ、騎士は教会から聖女を連れ出そうとした。
彼が教会の内部に忍び込ませた者たちを動かし、審問会の目を欺くために慎重に行動していたはずだった。
だが、たった一人の強欲な修道士のせいで計画は崩れた。
外に向けられていた目が、内に向いた。
中に魔女が入り込んでいるという告発。
その矛先は真っ先に十数年という長い間教会に”居座り続ける”聖女リーシアに向いた。
教会がシアを縛り続け、閉じ込め、利用してきたというのに!
ギリっと奥歯が不快な音を立てる。
その時、街道の先に不規則に明かりが灯った。騎士は目を細めてその瞬きを追う。
二度、三度と繰り返される信号を読み、騎士は馬首の向きを変えた。
「やぁ!」
街道を逸れ、森の中を進む。
しばらくして木々の間に隠れるように身を潜める数人の影を見つけた。速度を落とし、まず馬の上から聖女を彼らに預ける。
ぼろきれを纏い、長かった髪をばらばらに切られ、全身傷ついたシアを丁寧に介抱する彼らを見て騎士も馬から降りてその場に崩れるように腰を落とした。
手渡された水袋から苦みの強い酒をあおり、騎士は息を吐く。その彼に報告が入った。
「侍女が死にました」
数年前、騎士が聖女付きの侍女として送り込んだ女だ。聖女が魔女として拘束された時に侍女もまた、同時に投獄されたという。
「死ぬ前に、彼女が状況を知らせてくれました」
その報告に騎士は重く頷く。騎士ですら、この突然の事態に後れを取ってしまった。
彼らがここにいるのは侍女の連絡を受けたからだと納得する。
「傷の手当てを」
「必要ない」
全身鎧を着る暇はなかったが、常日頃から中に鎖帷子を着こんでいる。
背中の痛みは強いが、骨に異常は無いだろう。
「教会の発表は?」
「数日以内に聖女を火刑に処すと。追っ手はすぐに出されるでしょう」
「だろうな。だが今日明日には無理なはずだ」
騎士が聖女を救出に来ることを教会だって予想していた。
だが騎士だって何も考えずに魔女の奪還を決行したわけではない。
「何をなさったので?」
「馬と兵士に腹下しを。騎士のほうはそのままだが、多少は時間を稼げる」
騎士の下で働く者たちが減れば、騎士の動きは遅くなる。
使える馬も少なければ、大量の追っ手をかけることもできない。
油断はできないが、絶望的な状況から少しは脱出できる。
「――聖女様?」
聖女の介抱をしていた者が彼女に呼びかける声がする。
騎士は慌てて立ち上がり、彼女のそばに膝をついた。
「リーシア様、リーシア様! 聞こえますか?」
慌てた声で彼女の名を呼ぶ。
それに反応して、聖女は”悪魔に捧げた証拠”とされ、古傷がえぐられた顔を酷く顰めた。
騎士はかすかに震える唇に耳を寄せ、彼女の声に耳を澄ませる。そしてきゅっと唇を引き結んだ。
「……すみません。声を落とします」
突然ささやくような声で謝った騎士に、周囲の者たちは肩を震わせる。
どうやら聖女は騎士を叱るだけの元気はあるらしい。
「聖女様、お水をどうぞ」
そばにいた女性が聖女に声をかけてその口元に水袋を寄せる。
ゆっくりと喉が動く様子に、騎士は安堵の息を吐く。
だが気は抜けない。生々しい傷が走る顔や、折れ曲がった脚、そして焼かれた肌は今も聖女の命をじりじりと削っている。
「リーシア様、ここからまた移動します。お辛いとは思いますがご辛抱ください」
シアは濡れた口元を拭われながら、顔を騎士のほうへと向ける。
その仕草に騎士は再度口元に耳を寄せた。それから聞き取った言葉に目を見開く。
「気になさらずとも、大丈夫です。我々はあなたに忠誠を誓い、あなたを守ると決めています」
シアはその言葉に反抗するようにわずかに頭を揺らす。
それを騎士は柔らかな手つきで押しとどめ、そばにいた男から毛布を受け取って聖女を包み、抱え上げる。
数分もしないうちに新しく連れてこられた馬に荷物がくくられ、騎士の出発の準備が整った。
さらに二頭の馬がそれに続く。騎士についてくるのは二人のようだ。
一人は報告をしてきた男、もう一人は先ほど聖女を介抱していた女性。残りはそれぞれ教会の動向を監視し報告するために動くらしい。
騎士が馬上から彼らを見回すと、残る者たちが深く頭を下げる。
「聖女様を、よろしくお願いいたします」
「ああ、お前たちも」
お前たちもーー”死ぬな”などとは口にできない。
この嵐を越えられるかどうか、越えたとして今までのような日常が続けられるかも分からない。
山のようにそびえた教会がこの国に巨大な影を落としている。何もかもが暗く陰鬱で明るい未来などかけらも見えない。
まもなく陽が完全に沈む。
闇が忍び寄る夜がやってくる。
騎士は手綱を握り、歩き出した馬の揺れが聖女を苦しめないように胸元に抱え込んだ。
「リーシア様、行きますよ」
潜めた声で名を呼ぶ。
聖女の反応はない。おそらくまた気を失ったのだろう。
騎士の馬が木々を抜け、わずかな轍が残る小径を走る。
騎士は光を失った聖女を抱え、暗闇の中を駆け続けた。
赤々とした松明が燃える。
不規則な足音が迫る。
時折聞こえる馬のいななきが伝えるのは、この場にそれなりの騎士が来ているということだ。
「先へ!」
潜めた声で告げた男をそこに残し、騎士は聖女を抱えて走り出す。
この先で助かる保証もない。だが最後まであがくしか道はない。
心の中でこの状況を作り出したすべてを呪いながら騎士は走った。
後方で戦闘音が響き、幾ばくもせずに止んだ。
残された時間は少ない。
腕の中でかすかな声がして騎士は視線を下げる。
そこには鎧に顔を押し当てられ、頬をひしゃげさせて不満げに眉を寄せる聖女がいた。
こんな状況なのに、なぜか多幸感が騎士を襲う。
守る相手が無防備に、そのすべてをゆだねて腕の中にいる。
その真実が騎士の感情の何もかもをさらった。
「リーシア様」
騎士の呼びかけに、シアの傷ついた顔がわずかに上向く。
ただそれだけで騎士の胸が熱くなった。
「リーシア様、リーシア様」
何度でも名を呼ぶ。
騎士が名を呼べば、いつも仕方がないという笑みを浮かべて騎士へと顔をむけてくれた。
きっと今も騎士の声を聞いて心の中で同じ表情を浮かべているに違いない。
ああ、幸せだった。
今も、幸せなのだ。
追っ手が二人の命を刈り取ろうと迫っているのに。
教会という檻の中にいた長い日々よりも、たとえ命の終わりが迫ろうとしていても、誰よりも聖女に近い場所にいられることが。
愛おしい。
腕の中の温もりも呼吸も何もかもが。
ああ、だが終わりは近い。
ヒュンヒュンっと後ろから空気を裂く音が響く。
木々の間を縫い、徐々に重くなる足で走り続ける騎士の元にそれは届いた。
「くっ、ふぅ!」
左腿に走った衝撃に騎士はぐらりと体を揺らす。
地面に倒れ込む瞬間、両腕に力を入れて聖女の体をできる限り自分に引き寄せた。
「ぐっ!」
肩がそばにあった木の根にあたり、ゴギッと不快な音を立てた。
数日前に負った背中の傷からも全身を貫くような痛みが走る。
満身創痍だ。
おかしくなるくらいにボロボロで、騎士は荒い息を吐きながら口の端を歪める。
「リ、シア様? すみません、大丈夫ですか?」
掠れた声でシアを呼ぶ。
シアは眉を寄せてはいたがしっかりと頷いた。
それに安堵の息を吐く。
聖女が腕の中にいる限り、騎士は彼女が傷つくことを許せない。
そしてこの腕の中から奪われることも。
最後の一瞬まで、騎士は定められた生に抗うため、傷ついた体を起こして立ち上がった。
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