その時電車も追い抜いて
石田くん
その時電車も追い抜いて
お気に入りの曲だったのに、電車がイヤホンを貫通するほどのものすごい音を鳴らしてホームに入ってくるので一番のサビの入りを聴けなかった。
確かに聞こえたのはまず私の小さなため息、その後に車掌による乗車を急かす音。
だが、お気に入りの曲の二番の始めの、それまたお気に入りのベースフレーズは聴き逃さず、私は電車に乗った。
私はこの春から高三、受験生になった(もう受験勉強はとっくに始めているけど)。
今日は新学期初日。学校は私の家の最寄駅から電車で一本。通勤時間帯は急行が出ているので、十五分ほどで着く。中高一貫校なので、この電車通学はもう六年目になる。
朝の急行は当然ものすごく混んでいる。電車の上半分を切り取ったら、人がいっぱい詰まっていて、高級カニカマの繊維の様に見えるだろう。
今私は、ドア際の席にくたびれた様子で座るサラリーマンの前の吊り革をつかむまた別のサラリーマンの背に押し付けられるようにしながら電車に揺られている。
学校の女子の中では少し高いぐらいの背をしている私も、通勤電車の中では平均的な身長である様に見える。壁の様な周囲の人間たちの中でなんとかスマートフォンを握り、音楽を止めて単語帳アプリを開いた。自分で単語を登録して、それがクイズになって出てくるタイプ。間違えた単語の復習にはうってつけだ。クイズになって出てきた単語を頭の中で反芻する。
abstain 「棄権する」
commence 「始まる、始める、開始する」
probe 「探る、調べる、調査、探査」...
完璧だ。
昨晩覚えた単語の復習を終え、次はリスニングに移る。
「 At first it seemed like a joke. A ship was blocking the Suez Canal? How could that even happen? ...」
昨日の夜に一度解いた問題の音声とはいえ、わりかしはっきり聞き取れたし、大分意味をとれた。小休憩、と思い、ミュージックアプリからまた例のお気に入りの曲を再生し、スマホを持った右手を胸に当て、一息ついた。
その時ふと、左前にいるサラリーマンがその上でせわしなく左手の親指を動かす、スマホの画面が見えた。
「先日の契約の件、申し訳ございせんでした。
私の計画性と確認不足が招いた結果だ自覚しています。
今後の...」
大変だな、と思った。別にそれ以外は何も思わなかった。
そのまま少し目を閉じて俯いていると、急に心臓の動きが強く、大きくなった。だから当然熱くもなった。火を噴いたのかと思った。今も流れているお気に入りの曲のバスドラムを思い出した。私の心臓はまずそれと共鳴し、そしてすぐにそれを追い抜くほどの大きさになった。そのおかげで、私の体にはエネルギーが満ち溢れ、生気か弾け出さんとするのを感じるほどだった。
体中の血管の圧力が強くなったので、俯いていた首が勝手に前を、そして少し上を向いた。その瞬間、右斜め前のドアの上にある液晶パネルが、この電車の今後の行き先となる駅を順に並べて表示しているのが見えた。
私の家の最寄り駅は先ほど通り過ぎたので、液晶の一番左端に色が薄く表示され、その右に電車の現在地をしめす矢印状のマークがある。次はよく知らない駅。その次もよく知らない駅。そして学校の最寄。次はよく知らない駅。その次から各停になって、そこからは、そこからも、ずっと知らない駅。終点、なんか聞いたことあるけど、知らない駅。
そんな風に液晶を眺めていると、いつしか心臓の動きも落ち着いてきた。電車が停まって、液晶にはでかでかと停車駅の名前が表示された。そしてその上に、終点の駅の名前。その瞬間、私は思い出した。終点の駅名を聞いたことがある理由を。その駅はきっと海のすぐ側なのだ。この前食卓で見たテレビで、その駅と全く同じ名前の土地の特集を組んでいた。海沿いの町。転入者が増えつつある、今注目の町。その町にある駅に違いない。
その結論が出た瞬間、私は思い立った。終点まで行こう。海まで行こう。行ったことないけど。だから行こう。学校の最寄のずっと先まで、景色でも見ながら。
電車が動き出した。落ち着いていた心臓は、また激しく動き始めた。拍動はすぐに先程の強さに戻って、そしてついにもっと強くなった。どんどん強くなる。その内私は、この電車は自分の心臓が動かしているんじゃないかと思い始めた。パンタグラフから電流を流して動いているんではない。私の心臓がエネルギーを押し出して、それで動いているのだと。実際、そう勘違いしてもおかしくないほど、私の心臓は強く動いていた。これほど大きな鉄の塊に見合うような音が、鳴っているのだ。電車が走る音が、心臓の音と同化し始めた。
ガタンゴトン、ドクン、ドクン、ガタンゴトン、ドクン、ガタン、ドクン、ゴトン、ガドタクンドゴクトン...ドクン、ドクン、ドクン
今にも大口を開けて豪快に笑い出しそうなほど、エネルギーが溢れている。この電車は私の心臓が動かしているのだし。少なくともこの空間の支配者は私だろう。と思った。次の停車駅のアナウンスが入って、やがて電車が速度を落とし始めた。私は終始余裕の表情だ。ただ気持ちよく、エネルギーの溢れる心地を味わいながら、終点まで行けばいいのだ。と思っていた。
学校の最寄り、いつもなら降りる駅、の一個前の駅に電車が停まった。私は何の気なしに、変わらず溢れる生命力のまま、周りを見ていた。サラリーマンがまずどばどばと流れ出していく。まずダムが決壊したような感じでドア際から放出され、続けて波のように。見慣れた光景、感じ慣れた雰囲気。
その流出も終盤の頃、先程メールを打っていたサラリーマンが、降りるのを忘れていたのか、急にはっとしてから「すみません、降ります、」と言って空いているドアの方へ向かった。そのサラリーマンからは遠い方のドアが開いていたので、出ていくのに少し手間取った。そんなことをしている内に、次は流入が始まった。先程出ていったサラリーマン達の穴を埋めるように、これもまた波のように入ってくる。まだ降車し切っていない例のサラリーマンは、流れに逆らうことになった。肩がバンバンぶつかっている。龍の逆鱗の様にも見えた。なんとかして、彼は降車した。ドアが閉まった。
電車が動き出した。どんどん加速する。その間、ある違和感が産まれた。ものすごく大きな。私の心臓と、電車の走る音はどうしても先程の様には同期しなかったのだ。そしてついに、電車は一定の速度になった。最高速になったということだ。その速度に到達するまでにも、ついに心臓と電車の音は揃わなかった。というよりむしろ、どんどんと二つの音の間隔があいていっているようにも思えた。そして最高速になったときにはとうとう、電車の音は、聞こえないほど心臓の音から離れて遠くに行ってしまったような気がした。そして私は、それと同時に成長していたものすごい孤独感に襲われた。満員電車の中に一人の様な気がした。気付くと、心臓の音はずいぶん小さくなっていた。そしてついに、それは聞こえなくなった。
次の駅を知らせるアナウンスが入った。学校の最寄だった。私は、自分がさっきあれほど情熱的であったこともすっかり忘れて、まるでそちらの方が狂気であったかのようにすました顔で、人々の波に溺れて電車を降りた。
六度目の春が来た。
その時電車も追い抜いて 石田くん @Tou_Ishida
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