葉を拾う

仁矢田美弥

葉を拾う

 真っ赤な葉がはらりと行く手に舞い降りた。一瞬視界を横切った色にはっと胸を衝かれて、かがんでそれを拾い上げた。虫食いもない、つややかな葉である。

「落としもの?」

 背中に声がした。ああ、ついてきていたんだな。私は振り返りもせず答えた。

「そうさ、ずっと昔の私の落としものが、今見つかったんだよ」

 低く笑うような声がした。私は背中の気配に問いかけた。

「いつから、私のあとを追っていたんだい」

「おじさん、気がつかないんだもの」

 背中の声はおかしそうにまた笑う。

「ひどいな、おじさんなんて歳じゃないよ、あ、いや君からしたらもう十分におじさんか」

「私は歳をとらないから、おじさんがうらやましいよ」

「そうかもしれない」

 私はそっと振り返った。女の子は消えていた。本当にこの子は気まぐれで、ときどき思い出したように私のあとをつけているのだ。

 拾った赤い葉をカバンの中の文庫本に挟んだ。こうしておくと、赤い色素はそのままにきれいな押し葉になる。また彼女にあったら、見せてやろう。

 彼女は幼稚園のとき、私の目の前で車にはねられて亡くなった。その瞬間に、私と彼女の目は確かに合った。そのためか体をなくしてしまった今も、彼女の心が私に会いに来る。二十年以上経った今でも。


 仕事を終えてマンションに帰り、カバンの中から例の文庫本を取り出し本棚に置いた。しばらくそのままにしておけば、押し葉ができる。紙に貼りつけて、しおりにしようと思う。

 私が小学二年生のころだった。学校帰りに川沿いの道を歩いていたら、たくさんの赤い葉が風にあおられ一斉に舞いあがった。私はその中からいちばんきれいなものを探して拾い上げ、手にもって帰った。

 帰宅すると、母がベッドから身を起こした。

「帰ったの、隆二」

「うん、ただいま」

 母の顔色は、いつもよりほのかに赤みがさして具合がよさそうに見えた。私はランドセルを背負ったまま母のもとに行った。

「あら、もう紅葉の季節なのね」

 私の手にしていたきれいな葉を見ると、母は静かに微笑み、私の手からそれを受け取った。

「くれるの?」

「うん、お土産だよ」

 私はうれしそうな母の表情に心が弾んだ。


 結局母はその次の年の秋を迎えることはなく、静かにこの世を去った。学校で先生から呼び出しを受けすぐに帰宅したけれど、もう母の息はなかった。お医者さんと看護師さんと、そして父が黙って私を見た。私に何というべきか、考えあぐねているようだった。私はそのとき自分が何を感じていたのか、はっきりとは思い出せない。ただ、その午後の陽の差し込む部屋の少し赤みを帯びた光景が目に浮かぶだけである。


 母をおくるためのもろもろの行事を終えたころ、父は母の持ち物を丁寧にテーブルの上に並べ始めた。私は父の仕事を手伝った。母の持ち物のひとつひとつが父にも私にも特別のものに思えた。父はきれいな箱をいくつか用意していて、そのなかに丁寧に母の物を収めていった。

 本棚に取りかかる。母の蔵書は決して多くはなかったが、大切にしているのがよく分かるものだった。一冊ずつ本を取り出し、ほこりを払いぱらぱらとめくりながら中に何か挟まってはいないか確かめる。

「おや」

 父のつぶやきに目をやると、厚手の本の中からはらりと赤いものが落ちた。

「押し葉だね。きれいな赤い色をしている」

 父がいとおしそうにそれを拾い上げ、大きな掌にのせて私に見せてくれた。私はすぐに分かった。母に贈ったあの葉っぱだ。

「それ、僕もらっていい?」

 父は目を細め、その葉っぱを私に差し出してくれた。

「もちろんだよ。大切にするといい」

 私はそれを小さな額縁に入れて、自分の机の上においた。


 毎日机に向かうとき、ながめる木の葉。

長い長い時間、それは私の心を慰め続けてくれた。


 私が小学四年生のときだった。友だち数人と塾に遅れそうになって、慌てて交差点に差しかかったときだ。タイヤの擦れるものすごい音がして目をやると、ピンクのスモックを着た小さな女の子が、角を曲がってきたトラックの真ん前にいた。その女の子の顔が正面から見えた。何が起きているのか理解していない。でもその目は大きく見開かれていて、その瞬間私と目が合った。

 トラックは女の子を避けきれずにガードレールにめり込むようにして停まり、一瞬止まったように見えた景色は、次の瞬間には人々の駆け寄る影で動き出していた。

「隆二」

 一人の友だちは私にしがみついた。もう一人の友だちはすでに泣き始めていた。私はただそこに立ち尽くして、さっきの女の子の大きな瞳を思い出していた。


 それからまもなくして、父が再婚を決めた。

父は慎重に、とても申し訳なさそうな顔をしながら「新しいお母さんが来てもいいかな」と私に聞いた。そして父に連れられて、深大寺境内に向かう門前のそば屋に行くと、髪が短く、シャツにジーンズ姿のその女の人が身を乗り出してこちらを見、目を輝かせて笑った。私はそのとき「いい人だな」と感じた。そのあとの食事の時間は、久しぶりに楽しいものだった。何よりも、父が私を気遣いながらも照れたような表情を終始見せていたことに安どした。

「ぼくは、あの人、お母さんと呼んでもいいよ」

 その夜、私は父に告げた。でも一つだけ疑問が残った。


「父さんのところには、母さんは現れないのかな。君みたいに」

 そのころには、あのスモックの女の子は、ときどき私のところを訪れるようになっていたのだ。

「父さんは、ぼくと違って母さんの死ぬときに一緒にいたんだよ。だったら、母さんが父さんのところに来てもおかしくないよね」

 女の子は困った顔をする。

「どうなんだろ。私だって、何でここに来るのか分からないし」

「え、自分でも分からないの」

「うーん、でも、りゅうじくんが私を呼んでいるような気がして」

「ぼくは呼んでないよ」

 そういうと、女の子は少しすねる。

「でも、りゅうじくんがいやなら私だって来ないよ」

「そうか」

 複雑な気持ちだった。父は、母がくることをもう望んでいないのだろうか。

「でも新しいお母さん、いい人でよかったね」

「うん」

 私は言って、それから机の上の葉っぱの額を手にとり、そっと引き出しの中にしまった。


 だんだん大人になると、女の子が私のところにくる回数も減っていった。私も自分の生活や将来のことに気がいくようになっていた。年齢がどんどん離れて、以前のように親しくは感じられなくなったのかもしれない。でも、ときどき忘れたころに彼女は現れた。


 新しい母は、申し分のない人だった。さっぱりとして、やさしい。父は幸せそうだった。そうするうちに私の疑問も解けていった。きっと母さんは、父さんがこうなってくれるようにわざと父さんの前には現れなかったんじゃないか、と。そうすると自分でも納得がいって、最後のわだかまりもなくなったのだった。

「大人になったね」

 いつまでも幼稚園児姿のままなのに、女の子は生意気なことをいう。

「ふん」

 私はそっぽを向いた。


 私は大学生になり、恋をしたり、別れたり、就活に苦労してやっと社会人になり、仕事に打ち込む日々が続いていた。

 でも、心のどこかに空隙があった。それは不断に私を苦しめるような性質のものではなく、要するにずっと忘れていた。

 三十代を迎えた今、それなりに充実した日々を送っていた。父と母は少し老いたが、仲睦まじい夫婦だ。

 

 そんなとき、ふっと視界を横切った赤い葉に、ずっと心の奥底に秘めていた気持ちがよみがえったのだった。あの、母に贈りのちに自分のものとなった押し葉は、今はもうどこにあるのか分からない。意識的に私は忘れようとしていたのかもしれない。

「おじさん、子供のころを思い出したんだね」

 いつのまにか、また彼女が傍らにいた。

「そうだね」

「あのね、やましいことじゃないんだよ。その葉っぱ、大事にしなよ」

「そうするよ。今度は押し葉でしおりをつくるつもりなんだ。できたら、見せてあげるよ」

「私はいいから、もっと大事な人に見せなよ」

 私が背後を見ると、また彼女は消えていた。

 そして、もう二度と現れなかった。


 京王線調布駅からバスにゆられて十五分ほど。

 私は加奈子とともに終点で降りた。穏やかな秋の陽が差す日だった。

「小学校? もしかして、隆二さんもここに通っていたの?」

「ああ、そうだよ」

 少し面はゆい思いをしながら私は答えた。

「もう少しで着くから」

「うん」

 私は彼女の手からバッグを離すと、自分の左肩に抱え、右手で彼女の手をとった。

 途中に小さな川がある。川沿いには、紅葉しかけの木々の姿があった。

 

  加奈子とは職場で知り合った。私の三つ後輩である。直接に仕事を教えることが多く、話をしているうちに、私は彼女の人柄に惹かれていった。やがてプライベートでも会うようになり、今は私の恋人だ。

 私はわざとゆっくりと歩いた。やがて、左手に門前の店が建ちならぶ景色が見えてくる。

「このあたり?」

 加奈子は少し緊張をはらんだ声音で聞く。

「いや」

 私は答え、そのまま先に進む。

 やがて右手に深大寺の入り口となる山門が見えてきた。

「ここを入ると境内なんだ。最初に、お詣りをしてからにしよう」

 私は加奈子をうながして中に入り、常香楼の横を通ってまっすぐ本堂に向かった。そこで、加奈子と二人、手を合わせる。

 それから再び引き返し、山門をくぐってあのそば屋を探した。

 それはすぐに見つかった。あの、私が今の母と始めて会った店。そこを指定したのは私だ。


 今日は、両親がそこで待っている。

 私が結婚を望む相手に会ってもらうために。

 私が店の扉を開けると、「いらっしゃいませ」の声。

 店内を見渡すと、母が立ち上がって手を振ってくれた。まるで始めて会ったあの日のように。傍らには父がいる。

 私は加奈子を連れて、そちらに歩いていった。


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