とりあえず猫である

葱と落花生

1  とりあえず猫である

 とりあえず猫である。

 産れてこのかたずっと、これからもきっと猫である。

 子猫に分類されていた頃の名は、有った様な無い様な。 

 野良と呼ばれていたが、そのうちニョラになり遂にはボケだカスだと可哀想な扱いであった。


 恐らくここら辺りで生まれたであろう根拠となる記憶は、酷く寒い夜にギャーピー泣いていたが、そこに親猫はいなかったという悲惨なものだ。

 吾輩はこの夜、始めてオヤジという人種を見た。

 だいぶ後になって知った事だが、オヤジの中でもメタボという一番性質の悪い品種であった。

 我々を捕獲してはグリゞして悪臭を移す癖をもっている。

 膝の上でちらっとヤツの腹を見たのが、いわゆるメタボオヤジという族の見始めで、妙にだぶついた贅肉が今でも目に焼き付いて残っている。

 第一、装飾すべき毛が中途半端にボウボウとしていて、プクッと膨らんだ腹は見るに堪えない姿。

 しかし、あの時までは特別恐ろしい奴とは思っていなかった。


 メタボオヤジの膝の上で暫らくは良い心持に座っていたが、いきなり毛布に包まれ懐の中に抱え込まれた。

 オヤジが体型に憚る尋常ならぬ速力でダッシュすると、心音がバクゞと五月蠅く、ブルンゞと贅肉が揺れる。

 オヤジが動くのか自分だけが動くのか、平衡機能の発達した吾輩が不覚にも眼を回した。

 ムカゝと乗り物酔いになり、バキグシャッと音がしたら、むち打ち症になったか首が回らない。

 それまでは記憶しているが、其の後数秒間の記憶がいくら思い出そうとしても出て来ない。

 MTBIの可能性大である。


 ふと気付くとオヤジがふけた。

 はてさて、何時もと様子が違う。

 一緒にいた兄弟は一匹カラスに連れ去られ、あとの一匹は行方不明である。

 遭難でもしたか。

 そして吾輩だけが残った。

 肝心の母親が育児放棄して家出した上に、今までの所とは違って無駄に明るいから危機感が一杯。 


 ノタノタ這い出ると全身打撲。

 吾輩は懐の毛布から、急に笹薮へと遺棄されたのである。 ふっざけんなよ! 動物愛護団体に訴えてやるぞ。


 やっとの思いでササヤブから抜け出すと、ちょいと行けばの所に小川がある。

 さてどうしたものか、川の畔で途方に暮れた。


 しばらく泣いていたら誰かが拾ってくれるかと考え、ギエービエーと試みにやってみるとカラスが寄って来た。

 危うく命を落とすところであった。

 慣れない事はするものでない。


 そのうち川面にプカプカと、行方不明だった兄弟が流れて行き日が暮れかかる。

 腹が非常に減って来たが、カニバリズムはいかん。

 泣きたくても頭上ではカラスが旋回し、今はもう涙も出てこない。

 仕方がないと土手に捨てられた買い物袋をあさってみたが、カラスが食い散らかした後であった。


 どうにかして人の居る所までと川沿いを歩き始めた。 

 なんともはや苦しくて息があがってしまう。

 そこを堪えゝ這って行くと、微かに人の臭いを捕まえられた。

 ここへ入れば生き延びられると思い、ブロック塀の穴から新築六LDK成金趣味溢れる邸内に潜り込んだ。

 邸へは忍び込んだものの、これから先どうしたものか妙案が浮かばん。

 思いあぐねいているうちに暗くなる。雨が降って来るから寒さは一段と増し、ひもじさは一刻の猶予もない。

 飢え死にほど惨めな物はない。

 ともあれかくもあれ、もっと明かりを命の糧を。

 食い物欲しさにチーンと鐘の音のする方へと歩いて行く。

 香しく白い箱から暖かな食品が出て来るのは、青い猫型ロボットに会って以来の光景である。

 今考えると、その時すでに家宅侵入罪であった。


 ここで吾輩は、メタボオヤジ以外の人間を再び見るべき機会に遭遇した。

 第一に会ったのが【おっさん】である。

 これは前のメタボオヤジより遙かに凶悪な奴で、吾輩を見るや否やサンダル履きの足で表へ蹴り出した。

 いやはやこれはバイオレンスだと思ったから、暫くは外からこやつの様子を窺っていた。


 しかし、飢えと寒さは頂点に達しどうにも我慢ならん。 

 再びおっさんの隙を見てキッチンへ這い登った。

 すると間もなく、またもやリングサイドに蹴り出される。

 蹴り出されては立ち上り立ち上っては蹴り出され、さながらハングリーなボクサーの如く、同じ事を繰り返したのを記憶している。


 開け広げの戸を閉めれば簡単にけりがつくのを、本心は一緒に遊びたかったのか。

 ジタバタ攻防戦を展開していると、この家の女主人がうるささから訝しげに「あんたうっさいんだよ!」と言い乍ら出て来た。

 おっさんはこの家の下男でもあるのか。吾輩をぶら下げ主人の方に向き「野良がしつこいんだよ」と言う。


 頭の上に小さな丸太ん棒を括りつけた女主人は、吾輩の幼く清らかで愛くるしき顔をしばらく眺めていたが、やがて「キャッ! 可愛い。飼ってあげるねー」と言いつつも、その場に放り投げて奥へ入ってしまった。

 無責任な女である。

 後から知ったが、下男の名を亭主と言う。

 かくして吾輩は、この家の永住権を得たのである。



 引籠りなのか照れ屋なのか、主人は滅多に外出しない。

 かあちゃんと呼ばれている。

 終日テレビという箱の絵を眺め殆ど動かない。

 家での仕事が無い時は食っているか寝ているかで、いびきの音が近所にダダ漏れである。

 おまけに、昼寝をしながら食いかけている饅頭の上によだれをたらす。

 吾輩は食う前にたらすが、人間は食ってからたらす。 


 残念な事はまだある。

 食欲旺盛なくせに食い物を残す。

 大飯を食った後にはダイエット飲料を飲み、その後に茶菓子をひろげる。

 無駄あがきもここまでくると匠の域である。

 二三個食っては眠くなるからグテッとして、だらしなくよだれを菓子の上へ垂らす。

 これが主人の日々繰り返す日課となっている。


 この家へ住み込んだ当時、主人以外の者には甚だ不人望で、雑種というだけでこうも待遇が違うのかと嘆いたものだ。

 いかに珍重されなかったかは、名前らしい名前をつけてもらえなかったのでも分る。

 それでも猫と生まれたからには仕方がないから、出来得る限り主人に媚びうる事を生業と励んだ。

 朝、主人がテレビを見る時は必ず彼女の膝の上に乗る。 

 昼寝をする時は背中でグーパーをする。


 この家で一番辛いのは、ここの小供が吾輩を寝床へ引き摺り込んで一緒に寝ようとする事である。

 小供は五つと三つで、夜になると二段の床に入って寝る。 この二人を人間界ではジャリ餓鬼と呼んでいる。

 悪魔に成る前の鬼の一種である。


 吾輩はいつでも、二段の途中にぶら下げられた頭陀袋に押し込まれる。

 どうにかこうにか抜け出すのだが、運悪くジャリ餓鬼の一人が眼を覚ますと大変な事になる。

 小さい方が殊更性悪で、猫が逃げた猫が逃げたと言って夜中でも何でも大きな声で捜索願を出す。

 すると下男の亭主は必ず眼をさまし、次の部屋から飛び出してくる。

 現にせんだってなどは、トラばさみに挟まれひどく痛い思いをした。

 夜の家はブービートラップだらけである。 

 吾輩はこんな危険極まる一家と同居して痛い目を見れば見る程ほど、早く人間になりたい其れが叶わぬならば、せめてあと少しだけ猫可愛がりしてくれる家の子になりたいと願うようになった。


 人はわがままである。

 ことに時々添い寝するジャリ餓鬼のごときに至っては言語同断。

 時には吾輩に人のような服を着せたり、首に輪をかけ紐で引き回したり檻の中に押し込んだり、土鍋に入れて煮ようとしたりする。

 しかも、少しでも手出しをしようものなら家内総がかりで追い廻して体罰の嵐ときた、実にデンジャラスな一家である。


 この間も、亭主が唯一くつろげる檜風呂の縁でちょっと爪を磨いだら、非常に怒ってそれから容易に風呂場に入れてくれない。

 小便をするだけの場所だったので特に拘りがあるでもないから、その後からは家庭菜園の小松菜に放り掛けてやっている。


 人間が猫を蔑ろにするのは当然であるかの如き振る舞いを見るにつけ、吾輩は常々この世の仕組みに憤慨している。

 最近では、猫の所有権というものを理解していないのに呆れかえったばかりである。

 元来、我々同族間ではタコの足でもサンマの尻尾や頭でも、一番先に見付けた者がこれを食う権利があるとしている。

 もし守らなければ、つつがなくボコッていいくらいだ。 

 しかるに、彼等にはこの観念がないと見えて、我等が見付けた御馳走は必ず略奪する。

 奪ってはゴミ収集車なる悪食の大口にそっくり食わせ澄ましている。


 家の裏に十坪ばかりの家庭菜園がある。

 都会なら家が一件建つが、ここは田舎であるから家庭菜園としてはそれほど広くない。

 主人が無造作に放り投げた農具を、下男が綺麗に整頓している。

 朝夕しか日の当らない所だ。

 畑ならばもっと日当たりの良い南側に造るものを、思慮の無さはこの家の家風である。

 ジャリ餓鬼があまりに騒いで、楽々昼寝の出来ない時はここに来る。

 腹加減のよくない折などは、いつでもここへ出て野菜達に肥料を与え滋養するのが例である。


 ある小春日和の午後、昼飯を済ませ快よく爆睡してから、運動かたがた菜園へと歩を運ばした。

 ほったらかしで育ったウドの根元を嗅ぎながら、西側のブロック塀までくる。と、枯菊を押し倒したその上に、警戒心無く大猫が寝ている。

 おい、誰の縄張りだと思ってんだよ。

 彼は吾輩が近づくも気付いていないのか、シカトしたままでいるのか微動だにしない。

 庭内に忍び入りたる者に、かくも平気にられると面目丸潰れである。


 彼は白足の黒猫である。

 悪魔の化身じゃ。吾輩はヘタレにも、その風体に恐れおののき一瞬ひるんだ。

 猫界の関取とも言うべき程の膨大なる体脂肪を有している。

 野性味あふれる見掛けからして、メタボオヤジの霜降りとは異なるバラ肉質であるのは確かである。

 ぜってえ勝てねえよの念と好奇心に恐怖を忘れ彼を眺めていると、うすらこっ寒い風が楓の葉をチラホラ二三枚枯菊の茂みに落とす。

 大王はたるんだ瞼を重そうに開いた。

 今でも記憶している。その眼はまさに腐ったサンマの目。

 彼はビクともしない。

 死にそうなのかよ。


 黒猫は奥底から救いを求めるがごとく、光を失った心眼をこの家の畑の如き吾輩の額に集め「あんた誰」と言った。

 大王にしては少々御下品な奴と思ったが、何しろその声の底にゾンビをもしぐ魔が籠っているので少なからず恐れを抱いた。

 先に御前が名乗れよ。それが礼儀ってもんだろ。

 しかし、会話をしないと呪われると思ったから「誰と言われて名乗る程の名は無い、とりあえず猫である」と、なるべくビビッているのを気取られぬようゆっくりと答えた。

「何、猫だ? 何処が猫なんだよテメエ。やさ何処だよ」

 予測はしていたが、随分と乱暴である。

「わっ、吾輩はこの家にいるのだ……のだ」

「どうせそんな事だろうと思ったぜ。ろくなもん食ってねえだろう」

 言葉付から察すると、どうあっても上品な猫とは思われない。

 しかし、メタボオヤジ程ではないにしろ筋肉を薄っすら皮下脂身がコーティングしているところを見ると、普段から御馳走をたらふく食っている。

 銭だけは持っている主人と豊かに暮しているようだ。

「そう言う君は何者だい」と聞いてやる。

「俺あ車屋の黒よ。ブラックと呼んでくんな」嫌だ、これから御前をクロと呼ぶ。


 クロは威張ってはいるが知性と品格が完全に欠落しているのは明らかである。そこで、彼がどれほどのお馬鹿か試してみようと問答をして見た。

「車屋と女主人とはどっちが偉いだろう」

「職業で人の上下きめてんじゃねえよ。福沢諭吉知らねえのかよ」

「君も車屋の猫だけに大分強そうだ。車屋にいると御馳走が食えると見えるね」

「何、俺なんざどこへ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。おめえ、ベジタリアンじゃねえんだから、畑ばかり廻っていねえでチットばかり俺の後へくっ付いて来て見な。一月で見違えるようにデブれるぜ」

「追ってそう願う事にしよう。しかし車屋に下男は居ないだろう」

「べら棒め、下男食ったらぶちのめされちまうだろ。第一あんなガリガリ君食ったって腹の足しになるもんか。下男て言うがな、あいつはこの家の外に出りゃ長のつくお偉いさんだぜ」

 彼は大にブチ切れた様子で、でかい尻をブンブン振りながら立ち去った。

 吾輩とクロとの腐れ縁の始まりである。


 その後は度々クロと与太話をする。話す毎に彼は車屋相当のジョークを吐く。

 或る日、クロは寝転び新たに仕入れたジョークをし「笑えるべ」と言った後に質問をしてきた。

「御めえは今までに鼠を獲った事があるか」

 事実は事実として返答しなければならん。偽ると後から詐欺罪で訴えられる。

「まだ獲った事がない」と答えた。

 するとクロは腹を抱え四足を小刻みに震わせ容赦なく笑った。見方を変えれば今直ぐくたばりそうな痙攣に見えなくも無い。

 知識はこんな馬鹿猫よりも余程発達しているつもりだが、腕力と勇気と気力と体力と財力と決断力と瞬発力と迫力と眼力と説得力と健康に至っては到底クロの比較にはならないと覚悟していたが、デリカシーの欠片も無い奴には少しムッとした。 

 しかし、感情に任せて争っても勝ち目は無い。


 元来、クロは自慢をするだけにどこか足りない所があって、見えゝのおだてにも頗る弱い。

 たまに頭の中に虫が湧いているか、脳みそが二次発酵しているのではと考案する時もある。

 つまらん話しでも感心したように咽喉をゴロゴロ鳴らし聴いていれば、甚だ乗せ易い猫である。おだてれば水にでも潜る。

 この場合は彼に自分の手柄話をしゃべらして御茶を濁すべきである。

「君などは化け猫になってもいいほどの爺だから、随分と獲ったろう」とそそのかして見た。

 彼は待ってましたとばかりにこの問いに食いついて来た。思った以上に単純な奴である。

「まあまあそこそこだいたいおおよそ三四十は獲った」得意気なる答で、彼はなお続けて「鼠ならいつでも引き受けるがイタチってえ奴あ、性悪でどうしようもねえ」

「へーなるほど」と相槌を打つ。

「へーじゃねえよ、その屁でやっつけられちまったんだよ」クロは腐れかけの眼をバチバチして言う。目ヤニとれよ。

「去年の警察の手入れが有った時だ。主人はよ、足洗って堅気の車屋になっちゃいるが、今でもヤクザ根性が抜けねえでよ、故買屋の真似事してるんだ。盗品の袋を縁の下へ隠そうと這いずって行ったら、大きなイタチの野郎が飛び出したと思いねえ」

「ふん」

「糞じゃねえ、屁だっつってんだろ。トウヘンボク。物はこの騒ぎで隠しきれたがな、イタチ畜生が家中走り回るから大捕り物よ。俺がすっ飛んで行って土蔵の隅に追い込んだとおもいねえ」

「うまくやったね(御前も畜生だろ)」と褒め称えててやる。

 拍手してやりたかったが肉球で音が出ない。

「ところが御めえ、いざってえ段になると奴め硫化水素ガスをこきゃがった。臭えの臭くねえのって臭えんだよこれがまったく、あん畜生」

 クロは今まさに浴びた臭気を払い除けるが如く、前足をバタバタさせて鼻の頭をなで廻わした。

 明らかにPTSDである。いい気味だ畜生。


「残念だったねー、鼠だったら簡単にやっつけられたのに。狩の上手な君が沢山食うものだから、絶滅危惧種に指定されるのももうすぐだってもっぱらの噂だよ」

「何言ってやがる。いくら鼠を獲ったって人間は食わせてもくれなきゃ自分が食うでもねえ。みんな取り上げて収集車とかいう大口に食わせちまう」

 大口がネズミを食っている姿を想像して、吾輩は少々気味が悪くなった。

 クロの子分になって鼠以外の御馳走を猟って歩く気にもなれん。

 女主人の家にいると猫も同じ性質になると見えて、御馳走を食うよりも寝ていた方が気楽でいい。

 用心しないと、今にアホになるかも知れない。



 例のごとく縁側に出て心持善く昼寝をしていたら、主人が台所から出て来て吾輩の後ろで何かしきりにやっている。

 何をしているかと二秒ばかり細眼を開けて見ると、彼女は余念もなくゴキブリをハエたたきで追い回している。

 昼寝前のおやつを取りに行って、憎き古代昆虫を発見したのである。

 すでに十分寝たのにあくびがモワモワこみあげて来る。

 しかし、主人がゴキブリを追っているのを知って知らぬふりは気の毒だと思って、チャイチャイと手を出してやった。

 彼女は今、すぐ横を駆け抜けて玄関辺りで暴れている。

 吾輩は自白する。ゴキブリやネズミといったゲテモノは好まない。


 吾輩は猫として決して上々の出来ではない。

 米産猫のごとく、黒の縞を含めるボッタリした斑入りの体毛を有している。

 低俗な言い方で遺憾ではあるが、言ってしまえばアメショ混じりのキジトラである。

 背といい毛並といい顔の造作といい、あえて他の猫に勝るとは決して思っておらん。

 しかし、いくら食い気が無く不器量でも、主人に追われ絶命しつつある妙な生き物など容易く成敗できる。

 鈍すぎる女だ。


 暫くすると、主人は恐怖と怒りを掻き交ぜたような声をして座敷の中から「このお馬鹿」と怒鳴った。

 罵る時、必ずお馬鹿と言うのが癖である。

 ゴキブリが菓子の上で絶命したようだ。

 何分もしないで、目の前にゴキブリのへばりついた菓子が置かれた。

 だから、ゴキブリ食わねえって言ってんだろ。



 暫く主人一家が遠出をするからと、近所のヤブ医者に預けられる事となった。

 何時も酒とツマミを盗んでいる奴の家だから居辛かったが、他に食の当ても無いから仕方なく居候する事になった。

 この医者、何が性悪かというと使い終わった注射針に羽を付け吹き矢を作り、食い物を盗もうとしている吾輩に向けてその矢を射るのである。

 どの様な感染症がこびり付いているかも知れないのに、恐ろしく痛い針を射るのである。

 こいつには吾輩に対する明確な殺意がある。

 そんな奴と同居するには勇気が要ったが、やっかいになると決まったその夜、えらく機嫌が良かったと見え鴨鍋と酒を馳走してくれた。

 女主人の家では猫まんまばかりの毎日であったから、甘露の極みについ飲み食いが過ぎ、すっかり意識不覚となりヤブ医者の膝で寝入ってしまった。

 この感覚、いつかどこかで同じ目にあった気がしないでもないが、酔った戯れと不覚に寝入って気付いた時には、ビニールハウスの中に置かれたコタツの中であった。


 ヤブ医者の名は【山武】と書いて【やぶ】と読ませるのだから、名字帯刀が許された時よりマ抜けな一族の末裔であるのに違いない。

 御間抜けは親譲りと許すとしても、ビニールの壁である。

 夜は寒いしコタツには電気が通っていない。使えねえ野郎だ。

 あまりにも寒いので、一晩中ヤブ医者の寝所の窓にへばり付いて鳴きわめいてやった。

 いくら寒いと騒いでも、夜中だぞと訴えても家の中には入れてもらえん。鼻から水が垂れるまでに衰弱した。

 居候する診療所なるあばら家は、高等な猫族でさえ立ち入れぬ施設であるらしい。

 翌日、外にホットマット付の小さな一軒家をあてがわれた。言ってみるものである。話せば分かる奴である。

 犬小屋と言うのだが、犬如きにこの様な豪邸は勿体無い。


 診療所には、人間の中でも一際色艶の悪い患者と呼ばれる種が多く出入している。

 この種はどいつもこいつも病気にかかっている。

 吾輩を診療所に入れないのは、きっと吾輩の身を案じての事で、ヤブとはいえ医者である。

 吾輩を捨てたメタボオヤジや下男のおっさんとは、雲泥の差程気遣いに優れている。

 酒と肴を盗むたびに注射針の吹き矢を射っていた奴とは別人のようで、こいつを誤解していたのだろうかと考える。

 食い物を頂く時に一鳴きしていれば、きっとコヤツもあの様な蛮行に及ぶ者ではない。


 ヤブが日々繰返す行動を観察しているうち、概ね医者とはいか様な者か理解した。

 朝から海まで散歩に出かけ、帰って来ると飯を食って一休みする。

 これは仕事を持たぬ吾輩も同じであるから生業の一ではない。

 食休みの後に患者をからかって、カルテと呼ばれる紙に何がしか書き込む。医者という種は、他に仕事らしい仕事をしていない。

 一日の殆どを寝ている女主人と言えども、洗濯や掃除にジャリ餓鬼の尻を叩いたりと「御仕事ー」と言う時は忙しそうであった。 

 それなのに医者にいたっては、洗濯は白い箱の中に入れたら乾いて出て来る。

 掃除は白いせんべいの化け物が、年中床を這いつくばってゴミを拾っている。

 飯は電話をかければ入れ代わり立ち代わり、誰かがやって来て置いてゆく。

 うすらこ汚いボロ城に住まう者が、まるで王様の暮らしぶりである。


 仕事に飽きると寝床のある部屋に行き、パソコンというテレビの親戚に向かってポチポチじゃれて遊ぶ。

 実につまらないものだから、吾輩はこんな時間は台所に入り込み酒と肴を頂く。

 ヤブはパソコンを見始めると暫く夢中になって他の音など気にしなくなるから、まったりのったり憩の一時を満喫するのである。


 昼間の酒にうっとりしていると、けたたましい電話の音で正気になった。

 以前は診療所に近付くだけで吹き矢が飛んできた。

 居候となってからは患者のいない診療所内にうろついてもヤブは気に留めない様子で、病院へ見舞いに行ってくるからと留守番を言い付かった。

 なにを血迷ったか、留守を任されるとは信用されたものである。

 元はこの家の食い物を狙う泥棒猫であった。

 ヤブは加減を知らぬ御人好しで、世間ではこの様な事態を「盗人に鍵を預ける」と言う。


 留守を頼まれたはいいが、食う物を食って飲む物を呑んで終わってしまえば、もはやここに用は無い。

 ハウスの中でぬくぬくするか、はたまた近所を散策するかだが、陽気が良いのでふらりと出歩いて行くのが宜しいか。

 診療所から暫くの所に笹薮が見えるが、何故か笹薮に近く過ごすと心持が穏やかでなくなる。

 そちらには行く気になれないので、海に向かって歩き始めた。


 人の足ならば海は遠い程の所ではないが、猫の常時活動半径は二百米で、当然吾輩とて猫である。この生物学的特徴から逸した者ではない。

 歩き始めたその時から、海まで到達しようなどとは思っていない。

 実は、まだ海という自然に遭遇していない。

 その点、女主人の家でちょくちょく話し込んだクロは大きな図体の分余計に歩けると見えて、本来の縄張りは海岸に面した平坦な一帯だと言っていた。

 海に近ければ、捕食出来るのは鼠に限らず魚もある。

 吾輩に獲れる魚は精々ガラス鉢に入った金魚程度だが、海ならばクジラという家ほどに大きな魚までいると聞き及んでいる。

 猫とは言え、さぞや食い応えのある魚を捕らえるのであろう。

 一月一緒にいれば、急激にメタボれると言ったのも合点がいく。

 一度クロに付き合って、海という物を見てやってもいいかなと思った。

 思うたが、今は女主人の家から離れヤブ医者に居候として預けられている身である。何時もクロから吾輩を訪ねてきていたから連絡のしようがない。



 用水路の土手で一休みすると、なんともここを掘ってくれと言わんばかりの匂いが、薄っすら地の下から滲み出て来ている。気になって叶わん。

 犬族のようでいささか抵抗はあったが、辺りに吾輩を見る者も無い。

 こんもりした柔らかな地を掘り起こしてみると、これが香の元かと思われる物は食う所など全くない魚の骨であった。それも頭蓋だけ。

 腹がすいていれば有難く頂くが、先ほど舌がとろける程に優雅な魚卵を食したばかりである。下世話な物で余韻を汚したくない。

 誰がこんな迷惑な物を埋めたのか、けしからん奴である。

 憤慨し、後ろ足でその頭蓋を蹴って穴に放り込んでやった。

 つまらん所で道草をくってしまった。

 もっとも、海に向かっているだけで目的の無い小旅行である。思いがけない発見が喜ばしいのだから、魚の頭蓋もまた一興であったのかもしれん。


 心持よく歩を運ぶと、天辺に実を付けた柿の木に出くわした。

 食い物に不自由したヒヨドリが突き、相伴にと寄って来る雀をけたたましい鳴き声で追い払っている。

 下等な連中である。分け合う事を知らない。

 殊更ヒヨドリは業が強く、同類といえども食い物の奪い合いで傷つけ合う。

 猫族にも食い物の争いが無いではないが、余程に餓えた者でもなければかのように下品な争いをするものではない。


 高みから眺めていたのでうっかりしていたが、この家はいつぞや急襲する石つぶてに気絶しピクピクした庭である。 その折は、親切にも吾輩を家まで送り届けてくれて感謝している。

 礼の一言も言ってやろうとこたつの婆を見たらば、どうやら顔色が悪くピクリとも動かない。

 遠目に見ても息をしていない様子で、吾輩を女主人の家まで送ってくれた下女が、婆の心肺停止状態に慌てふためいておる。

 吾輩の診立てでは、今更あたふたしても如何様にもならん。人間にも分かり易く言うならば御臨終である。

 吾輩に出来る事は黙祷、一分!


 これより先には行った事が無いが、長居して婆に憑りつかれてもつまらん。先に探検すると決めた。

 少し歩くと酷く腐った下水臭がしてきた。

 酷い臭いだが、これは悪質な猫のマーキングであるからしてクロの縄張りである。

 知った仲であれば途中出くわしても傷付け合う争いにはならん。

 事あれば同族でも争う戦闘好きの人間とは出来が違う。

これからはクロの与太話で聴き知った知識を頼りに行くしかない。

 生死に関わる程の危険は無いと言っていたが、笑いを作る為の作り話しが半分で、猫の半分嘘話とは全部が嘘の意味である。用心して進むに超した事はない。


 著しく信憑性に欠ける情報によれば、事も有ろうかこの橋の上に鴨を釣っている爺が居る。

 いくら吾輩が世間を知らぬ猫と言えども、橋の上から鴨を釣る者などこの世に居るはずが無い。

 どこまで馬鹿げた釣りを称して鴨釣りなどと観察したのか、程々以上に足りないクロの事である。川に流れる履物か人形を鴨釣りと見紛うたに違いない。

 橋に一つの人影が見えた。

 しきりに竿を降りまわしているが、猫の吾輩でももそっと美しいフォームで投針できる。うっかり堤の路で笑い転げてしまった。


 この姿を見られたか、出刃包丁を従えた爺が吾輩を手招きしている。

 この辺りには猫を喰らう鬼が出るとクロに脅されていたが、昼間には出ないとも言われ安心していた。

 もしやその鬼は、この爺では無いかと勘ぐる。

 可愛い子ぶりっ子しても、近寄って行くのはリスクが高すぎる。やべえよ。

 しかしながら鬼ならば、ここで逃げても必ず捕えられ食われてしまうに違いない。猫にも予測できる危機的状況である。


 観念して呼ばれるまま、爺に寄り付いたら何の事は無い。さばいたばかりの鴨の肝を吾輩に食せと差し出す。こんな時に童顔は得である。

 成猫となってもなお子猫の如きこのベビーフェイスは、人の心を虜にし思わず何か尽くしてやりたくなる。

 育児放棄の挙句に幼き我が子を捨てて消えた親だが、この遺伝にだけは感謝すべきであろう。

 それにしても釣竿を振り回す爺から、鴨の生肝を頂戴するとは思いもかけなんだ。

 ちらと釣り箱の中を覗けば、羽毛を毟られた鴨の裸体が納まっている。猫族にとって御馳走である頭の無いのが残念である。

 何処にやってしまったのか気になっていたら、爺が袋の中から頭を出して吾輩の前に置いた。

 鼠や古代昆虫はゲテの部類であるが、鳥の頭は見掛けによらず高級なもので、吾輩に限らず猫族の好物である。

 少々野生ではあるが、ここまで来たらクロに土産と有難く頂戴した。


 橋を渡り河口近くで幅広い路に突き当たった。

 吾輩は幼少の頃より臆病で、黒く固められデリケートな嗅覚を破壊寸前まで追い込む油臭い路には近付かないでいた。

 黒い道には必ず車族が昼夜関わらず疾走している。

 夜の闇間に光って遠くを見据える眼力に、身動きできぬ恐怖を抱くばかりである。奴の瞳は百万ボルト。

 近所にたむろする吾輩の友に、こやつ等の底知れぬ無差別な横暴によって死に至らしめられたる者もいた。

 猫族に残された野生の一部が噴き出す季節、不覚にも車族と衝突するのである。


 繁殖期において我ら猫族の♂は見境なく♀を追廻し、相手の承諾も無くツンゝするのが習わしとなっている。

 恥ずべき行為であると常々思っているが、季節が廻るとどうにも抑えがきかなくなってしまうのである。

 吾輩に限らず健全な♂は、一斉にこの狂気に憑りつかれる。

 夜には住居の周囲に限らず、いたる所で♂同士が争い傷つけあう。

 常日頃から人間の愚行を嘆いている吾輩だが、繁殖期に猫族が繰り広げる阿鼻叫喚。

 この時ばかりは人間の、その、なんだ、あれよ、あれ、な。それだよ。

 ずっと品があってスマートなものだと感心する。うん。


 何処に行ってもそうだが、始めて行く知らぬ地では臆病にしていたからこそ今日まで生き延びてこられた。

 であるのだが、今回ばかりはこの道を超えて行かねば海に辿りつけない。

 クロからもここが一番の難所だと教わっている。


 クロ先生の授業を思い出すに、この道を向こう岸まで渡り切るのに一番安全な場所が七の雑貨屋前で、白の縞模様で描かれた帯の間を通って行くのである。

 飽きずに待っていれば、人間が来て車族を停めてくれるのだと言う。

 しかし、いかに人間がこの世界で王者のように振る舞っていようが、たかがしれた非力な生き物である。

 奇跡でも起こらぬ限り、強靭で非情な車を停められるものではない。


 半信半疑であるが、今はその奇跡をじっと待つしかない。

 対岸を見れば、クロが七の店とはこんな形であると語ってくれたままの建屋がある。

 しかしながら、あ奴の言葉にはやはり若干の偽りが混じっておった。

 七の雑貨屋は何時も人で賑わい、建屋の中は昼も夜も煌々と明かりが灯っているとのたまっていたが、息絶えて動けなくなった車の上に積み上げられた木切れやら板を、人間がちょこまかと建屋の中に運び込んでいるだけである。

 この景色を眺めていると、勢いよく目の前を走りすぎていた車が静かに停止する奇跡が起こった。


 その時、優しく吾輩の頭を撫でた者が有る。

 見上げれば、思わずク・ギ・ヅ・ケ! アングリ空いた口からヨダレデレゝハートにグサリ天使の矢。

 胸がキューーンと息苦しく、銜えていた鴨の頭をその場にうっかり落としてしまった。

 淑やかに微笑み「猫ちゃん、落とし物よ」吾輩の心はこの一瞬で女神に狩られてしもうた。

 巫女姿の横にピンと尻尾を立てて、この者は吾輩のしもべであると主張し黒い道を渡ったのである。


 この巫女は今時流行りのバイリンガルという種で、流暢に猫語を話す。

 海を見に来たのだと言うと、丁寧に丁度いいハイキングコースが有ると教えてくれた。

 ついでにクロの所在を聞いてみたが、生憎と今日は見かけていないとか。

 クロは猫語が堪能な巫女の話はしていなかった。

 さては、吾輩のキュートな笑顔に巫女がクラッとするのを恐れていたな。

 居所は分からないが主人と住んでいる車屋の在所だと車屋を教えてもらえた。

 別れ際、帰りに海岸から獣道を抜けてこの先の神社に寄るように耳元で囁く。耳弱いんよ、吾輩のスイートスポット。

 人間の♀にこの様な感情を抱くのは自然の摂理に反するが、満更なにがしかのそのなんだ何を期待しないでもない歓迎すべき状況である。

 吾輩は青春まっただ中で、ルンゝしておる自分に照れ笑いが続いた。


 この先の神社とは、今まさに巫女が歩いて向かう方向に存在する。

 吾輩としてはこのまま付いて行っても良かったのだが、折角教えてもらったのだ居ないのは分かっているが、何時かまた来た時に役に立つであろうからクロの住まいを知っておこうと、巫女に背……尻を向け歩き出した。


 教わったまま歩いてゆくと、車の死骸を山と積んだ葬儀屋の前に出た。

 クロはまたもここでも嘘をついていた。

 車屋とは副業で、きゃつの主人が本業は車専門の葬儀屋であった。

 それは其れとして、吾輩はこの光景に少しばかり世の無情を嘆かずにはいられない。

 車という奴らは何時でも乱暴ばかりして周っている。

 時には大口のように、人間に食い物を口元まで運ばせている剛の者までいる。

 手前勝手で力のまま他の者を足蹴に生きる悪魔の化身と思っていたが、同情の念が湧いて来た。

 この世で放蕩三昧に生きたものだから、死んでも葬ってもらえず骸は野ざらしである。

 それも後から後から一所に積み上げられ、下の者などは無残に押しつぶされ四角になってころがっている。

 悪魔といえどジャリ餓鬼が成長し変化した者ならば、元は人間であるから死して弔いくらいはしてもらえる。

 それが、車は潰れた骸がさらに積み上げられ、下の者は死しても永久に重圧の地獄にその身を委ね続けなければならないのである。

 ここはまさに車の地獄。今まで見た中で最もリアルな地獄絵図である。シュールだ。


 かと思えば、体の強い者はゾンビにされ店先で売られていた。奴隷にされるのである。いい気味だ。

 ルール無用と暴れまくる車ほどのアウトローを、束にして意のままに服従させるのだから、クロの主人はさぞや勇ましい武人の姿立ち振る舞いであろう。

 一目二目遠くからでもよいからその勇士を拝み、生活ぶりを観察したいものだと店の中を覗いたが誰も居ない。

 クロも居なければ主人も不在とあっては、大分あてが外れた。

 巫女に教わったハイキングコースでも散策するとしようか。


 葬儀屋から西に向かい道なりに歩いて行くと、七地蔵と呼ばれる丘がある。人間は盛り土と言うが、猫には十分丘である。

 ここでまた、人間はなんとも愚かであると言わざるを得ない光景に遭遇した。

 ここが七地蔵であろう筈は無い。地蔵は全部で八柱ある。

 人間の中でも比較的計算に弱いとされているミョージシャンという種でも、CDEFGABと表現し八までは勘定出来ると記憶している。

 この村の者はミュージシャンにも劣り、八どころか七までの勘定がやっとの七進法数学の世界で生活している。


 地蔵には柿の種が供えられている。

 石地蔵に柿の木が芽生えるとでも思っているのか。農業どころか自然の知識さえ覚束ない脳ミソである。

 クロは何時もここいら辺りに遊んでいると巫女が教えてくれた。

 土産とした鴨の頭も地蔵のどれかに供えておけば、きっとクロが来て食うだろうと知恵を授けてくれたのも巫女である。実に利口な者だ。


 巫女に限らず、神職に有る者は知識が豊富だと常々思う。

 それは、高等であるべき猫族でさえ交信できぬ神との会話に長けている事から推し量れば、人間の中にあって特別優等であるのは疑えぬ事実である。

 嫁にするならば巫女がよいと吾輩は密に思う。


 ここに来るまでに度々落としたものだから、鴨の頭は砂に塗れいささか食欲を削がれるのは我慢してもらうしかない。

 どうせ悪食の極みクロならば、犬の糞が付こうが放射能を塗しても、ちょいと前まで食い物であったれば理不尽な臭いがしていてもかまわない。

 大事なのはあの者に届けてあげたいという気持である。

 土産物にそうそう美味い物が無いのはクロも重々知っている。

 それにしても周りに砂がべっとり付いていたのでは見栄えが悪い、長く歩いて喉も乾いている。

 何処ぞに水はないものかと見れば、地蔵に供えた珈琲缶。軽く揺すると水らしく、チャポゝ音がする。

 鴨頭の上から缶をひっくり返し水をかけてやる。

 ところがこの水、腐っているのか毒なのかしまった事で、臭いは木屑を焦がしたようでどす黒く濁っている。

 恐るゝ舐めてみれば、ヤブが煎じてくれる薬の五倍は苦い。

 肥溜めより発酵したクロの胃袋に入る分には構わないが、繊細な吾輩の消化器系臓器には不釣り合いな水である。

 清潔な水をと丘を離れ見回すと、社に手水場があった。

 掃除用のバケツに貯め水が張られてある。便所の水かよ。

 気分のいいものでは無いが、先ほどの黒い水よりましだ。

 

 しこたま飲んで落ち着いたところで耳を澄ませば、住家から時折聞こえていた波の音が明瞭に響く。

 嵐の日でもなければ漂ってこない潮の香も、嗅覚神経が麻痺する程強く鼻腔に入りこんでくる。

 海は近いぞ!

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