愛する者よ、列車に乗れ。(3)
二
秋にしては生あたたかい夜風が頬をくすぐった。
いいえ、生あたたかいと感じたのは宿で末期の酒を呑んだからかもしれない。駅の近くの場末の旅館。だけどあの、広く豪奢な檻のような邸宅よりも、ずっとわたくしには居心地よかった。
「奥さま」おまえは言う。
「おみ足が痛くはございませんか」
「いいえ」
ゆっくり首を横に振る。あぜ道でフォードを降りて、土手をのぼるのをおまえは手を貸してくれた。わたくしの腰を抱えて、着物の裾についた土を跪いて手で払って。その穏やかなやさしい顔を夜明け前の払暁のなか、じっと見つめる。
おまえとのはじまりは、箱根への新婚旅行から帰ってきた日だった。東京駅まで迎えにきた車の横に立っているおまえを見たとき、わたくしは生まれて初めて誰かを想う気持ちを知った。
自分があの家に嫁いだのは、旦那さまの妻となるためではない。おまえと会うためだったのだと、今はたしかにそう思う。
おまえの運転する車に乗っているときだけ、わたくしはわたくしになれた。あの狭い空間でふたりきりになっているときが、わたくしにとって唯一しあわせなひとときだった。
互いの腰を紐で結わえる際に、ふくらみはじめている下腹を右手で押さえる。おまえは悲しそうな顔をするが、わたくしは微笑を返す。
もしもこうなっていなければ、わたくしたちはこの関係をずっと続けていたかもしれない。そうして、檻のなかでの生活を耐えられていたかもしれない。
だけどわたくしの身体はこうなり、こうなったことで道が拓けた。新たな命を宿したことが、皮肉にもこの世への未練を断ち切る契機となった。
はじまったときから、この関係が成就しないのは明らかだった。この世にいる限り、わたくしたちは自由になれない。自由になりたいのなら、この世の外へでるしかない。そう決意した瞬間、かつてない開放感を覚えた。
おまえには申し訳ないことをしたと思っている。謝っても謝りきれない。わたくしと出会ってしまったがために、おまえも、おまえの息子の人生もくるわせることとなった。それでも、おまえが息子ではなくわたくしを選んでくれたことが――たまらなく嬉しい。わたくしが娘ではなく、おまえを選んだように。
この終わり方はふたりで決めた。跡形もなくばらばらになることで、きっとお腹の子どもも混ぜこぜになるだろうから。わたくしが身重であることを娘には知られたくない。知られてはいけない。それが不詳の母のせめてもの身勝手な親心だ。
もうじき夜が明ける。朝がくる。これまで生きてきたなかでいまが一番しあわせだ。
愛する者と共に終わること。それは愛する者と共に生きることと同じくらいすばらしいことではないか――。
そんなことを、おまえに手をとられて線路に正座する間際、ふと思った。ほんの一瞬間。
ぷぉーん、と遠くの方で警笛が鳴る。それはまるで明日への旋律のように聞こえてくる。
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