恐竜洗車

一話完結 森


 疲れ果てていた。

 私の生きる世界では、私を取り巻くありとあらゆる全てが、私の心身を傷つけ、削り、摩耗させていった。日々追い詰められていく中で、もしかしたら、私が生まれ育ってきた世界とは、違う場所、異なる世界に飛び込めば、救いが得られるやもしれないと考えた。  


 私が足を踏み入れたのは、ほの暗い、深い森の中である。木々が辺りを埋め尽くし、生い茂る葉が光を遮り、天上の切れ間からかすかに射す光明が、落ち葉の積もる地面を照らしている。大気は俄に水気を感じさせ、時折吹き抜ける風が、薄い膜のような肌触りを帯びて、私の身を撫でる。


 私が今まで生きてきた世界とは違う。確かにそう思えたのだ。


 何かを求めるように私は歩き出した。一歩踏み出す毎に、足の裏を柔らかな反応が包む。落ち葉が地に沈み、葉が割れる音が心地よい。

 私は聴覚に集中した。頭上の枝葉が揺れ、さすりあう響き。鳥の囀り。虫の鳴き声。あらゆる音楽が私を錯覚させた。


 しばらくすると、水のせせらぎを鼓膜が捉えた。私はその方向へと歩を進めた。


 小さな沢があった。やや盛り上がった大地の割れ目から水が流れ、幻想的な風景を描いている。

 だがそこに現れたのは、幻想を打ちのめす現実であった。


 それは蛇である。私は森に入って初めて直に生物を目にした。囀る鳥も、鳴く虫も、その姿は森の景色に隠れて見ることはできなかった。 


 その蛇は口に蛙を咥えていた。否、食らっていた。既に息絶えてしまったのか、蛙は力無く脚を伸ばして動かない。蛇は口をゆっくりと、だが確実に、大きく開いていき、蛙の体をじわじわと飲み込んでいく。


 眺めているうちに、とうとう蛇は蛙の全身を飲み込んでしまった。細い管が蛙の体積分だけ、太く歪んでいる。 


 それは私の望んでいない光景だった。私を傷つけ、苦しめてきた世界と同じ世界が、この森の中にも存在した。この蛇も、あの囀っていた鳥も、鳴いていた虫も、森そのものも、私を追い詰めてきた世界の一部にすぎなかった。  

 

 私は森を後にした。足下の落ち葉の奏でる音も、もう心地よくはなかった。


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恐竜洗車 @dainatank

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