誘い
沙夜はスマホを握りしめたまま、しばらく動かなかった。
ホットケーキの甘さが口の中に残っているのに、それとは裏腹に胃の奥が重く沈んでいく。
高岡の「いい話がある」という言葉が脳裏で反響する。
——ろくな話じゃないのは、わかってる。
けれど、「いい話」なんて、この世界には滅多に転がっていない。
だからこそ、拾えるものは拾うしかない。
沙夜は息を吐き、画面をタップした。
「今夜、会える?」
送信を押した瞬間、どこかで小さくため息をついた自分がいた。
夜。
ネオンの光が揺れる街を歩きながら、沙夜は高岡との待ち合わせ場所へ向かっていた。
妹はすでに眠っていた。
紗妃には何も言っていない。
……言う必要もない。
路地裏に入ると、すでに高岡は来ていた。
黒のジャケットに煙草を咥え、ぼんやりと紫煙を燻らせている。
「遅かったな」
「電車の時間が合わなかったの。で、"いい話"って?」
沙夜は腕を組み、高岡を見上げる。
彼は煙草を指で弾いて落とし、ゆっくりと言った。
「ちょっとした仕事だ。手軽に稼げる」
——手軽に? そんなわけない。
「どんな?」
高岡は口元を歪め、懐から写真を取り出した。
「こいつの部屋に入って、"探し物"をしてきてほしい」
写真には、見覚えのない男の顔が映っていた。
年齢は三十代前半くらい。スーツ姿の、どこにでもいそうな男だ。
「ターゲットは?」
「伊崎圭吾。お前の店の常連だっただろ?」
その名前に、沙夜の眉がぴくりと動いた。
「……伊崎? 何で?」
「どうも、最近ヤバいもんを手に入れたらしくてな」
「ヤバいもん?」
「ああ。……お前がそれを持ち出してくれれば、報酬は弾む」
沙夜は写真を見つめたまま、無意識に唇を噛んだ。
伊崎圭吾。
一流企業勤めのエリートで、沙夜を"特別扱い"してくる男。
店に通うたび、どこか歪んだ笑みを浮かべながら、やたらと「助けてやる」と口にしていた。
——その男の部屋に、忍び込めって?
「……冗談でしょ」
「冗談なもんか」
高岡はニヤリと笑い、煙草の火を足元で揉み消した。
「わかってるだろう?俺やお前みたいな奴が生きてくには、選択肢なんて限られてんだ」
その言葉に、沙夜は静かに目を細めた。
生きるために、手段を選ばない——それが、今のあたしたちの現実。
でも——。
沙夜は写真を指先で弾き、ポケットに突っ込んだ。
「……考えとく」
高岡は肩をすくめたが、それ以上何も言わなかった。
沙夜は夜の街を歩きながら、ポケットの中の写真を握りしめる。
伊崎圭吾。
助けてくれるなんて言いながら、本当に信じていい人間なのか。
それとも——。
冷たい風が頬を打つ。
沙夜は、スマホを取り出した。
「今度、飲まない?」
伊崎に、メッセージを送った。
数日後、沙夜は伊崎と共に飲んでいた。
言わずもがな、いつもの店だ。
グラスが触れ合う、乾いた音がした。
「久しぶりだね沙夜ちゃん。元気にしてた?」
伊崎は穏やかな笑みを浮かべ、グラスを軽く揺らす。
琥珀色の液体がゆらゆらと波を立てる。
「まあ、なんとかね。伊崎さんは?仕事忙しいんでしょ」
「忙しいよ。毎日死にそう。でも、こうやって飲む時間があるだけマシか」
軽口のように聞こえるのに、伊崎はまったく疲れているように見えない。
職場で相当鍛えられてきたんだろう、酒にも強い。
もう三杯目なのに、顔色はほとんど変わらない。
「沙夜ちゃん、なんか今日ペース遅いんじゃない?もっと飲めるでしょ?」
「伊崎さんが速すぎるだけだよ。あたし潰れちゃう」
「潰れたら送ってあげるよ。家まで」
サラリとした声。
悪気のない一言に聞こえる。
——でも、沙夜は心の奥のどこかで引っかかった。
「送ってくれるのはありがたいけど……」
伊崎はグラスの縁をなぞりながら、少し小首をかしげる。
「けど?」
「うちの場所、あんまり知られたくないから」
伊崎の表情がわずかに止まった。
すぐに笑顔を作り直すが、その一瞬を沙夜は見逃さなかった。
「そっか。まあ、無理にとは言わないよ」
「うん。ありがとう」
「でもさ、沙夜ちゃん」
伊崎は、すっと視線を向ける。
優しげなのに、底が見えない。
「俺は君のこと、心配してるんだよ」
「……心配?」
「前より痩せた気がするし、なんていうか……雰囲気が変わった。無理してない?」
——そりゃ、いろいろと無理してるよ。でも、あんたにそれを言う理由はない。
「大丈夫。あたし強いから」
「強がらなくていいって」
伊崎は氷を口に含み、軽く噛んでから言った。
「俺は味方だからさ。君のこと、助けたいんだよ」
また、その言葉。
甘い救いのようでいて、どこか粘りつくような「所有」の匂いがする。
「……助けたいって、なにを?」
「全部だよ。生活も。不安も。苦しいことも」
伊崎は三杯目を飲み干し、すぐ次の一杯を頼んだ。
酒に飲まれていない。
むしろ、この男は酒を武器にするタイプだ。
「沙夜ちゃんは、一人で抱え込みすぎだよ。信じていいんだって、俺のこと」
店の薄い灯りの下、沙夜はグラスを手にしたまま考える。
——その“信じていい”が、一番危ない。
これまで、何度も経験してきたことだ。
「……ありがとう。でも、あたしは大丈夫だから」
伊崎は少し残念そうに笑い、しかしすぐに話題を変えた。
「ところでさ、今の家ってどんなところなんだ?前のと違うよね?」
「ん?ああ、まあね。いろいろあって引っ越したの」
「へえ。どの辺?」
軽く聞いているようで、自然すぎるほど自然な探り。
職場で鍛えられた“聞き出し方”なのかもしれない。
沙夜はあえて曖昧に微笑んだ。
「内緒。女には秘密が多いの」
「そりゃ残念だ」
伊崎は笑う。
だが、その笑みの奥にあるものは読めない。
読めないからこそ、危ない。
沙夜は、ゆっくりグラスを傾けながら考えた。
——この男の部屋に入る。 そして、"ヤバいもの"を探る。
その前に、伊崎の本性をもっと見極めないと。
「伊崎さん」
「ん?」
「あたし、今度さ……あなたの家、行ってみたいな」
伊崎の手が止まり、次の瞬間、目が細く笑った。
「もちろん。歓迎するよ、沙夜ちゃん」
沙夜は短く礼を言い、笑って見せた。
家で眠っているだろう、妹の顔を思い浮かべながら。
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