甘い朝、苦い現実

 紗妃は、夜の街を歩きながら不安げにぽつりと呟いた。


「私たち、このままでいいのかな」


街灯の薄明かりが、彼女の横顔をぼんやりと照らす。


 紗妃は、姉と比べて精神的に幼い。

だからこそ純粋で、時々自分たちのしていることに疑問を抱く。


沙夜は、そんな妹の気持ちを理解できないわけではなかった。


「んー……でもさ、他にどうすんの?あたしたちは、社会から外れた人間。生きる道はこれくらいしかないんだよ」


沙夜は前を向いたまま、考えるように少し間を置いてから続けた。


「それにさ、あたしはまだやりたいことがある。ダンスとかね。もっと、自分を表現したいって思ってる」


姉の言葉に、紗妃は異を唱えなかった。



 黙ったまま歩き続けた後、彼女はやがて小さく頷いた。


「私も、夢はあったよ……パティシエに、なりたかった……」


かつて抱いていた夢。

今となっては、あまりにも遠い話だ。


沙夜は何も言わず、夜風に吹かれながらタバコを吸う男たちの横を通り過ぎる。

ネオンが滲む道を歩きながら、心の奥でくすぶる焦燥感を振り払うように髪をかき上げた。


 少し歩いたところで、沙夜が足を止めた。


「……どうする? もう一軒行く?」


「もう、いいんじゃない?」


紗妃が少し疲れた顔を見せると、沙夜は肩をすくめた。


「まあ、無理しても仕方ないか。今日はこんなところで」


二人は駅へと向かい、無言のまま帰り道を歩く。

冷えた風が頬を撫でる。




 静かなアパートに戻り、それぞれの部屋に入った。

沙夜は服を脱ぎ散らかし、ベッドに倒れ込む。


——明日も、きっと同じように過ぎていく。何も変わらない。


そんな思いが頭をよぎるが、心の奥で何かがざらつく。

何かを変えなきゃいけない。

でも、どうすればいいのか、わからない。


 少しの間、天井を見つめた後、スマホを手に取る。

新着メッセージの通知がいくつかあった。


「今夜、空いてる?」


「いい話があるんだが、会えないか?」


兼ねてから姉妹と面識があり、定期的に裏の仕事を持ちかけてくる男、「高岡」からのメッセージだった。


 沙夜は指先で画面をなぞりながら、どちらにも返信しなかった。


わかっている。

どっちを選んでも、結局、同じところに戻るだけだ。


……でも、それならどうすれば?


悩んだまま、沙夜はスマホを放り投げ、目を閉じた。




 翌朝、沙夜が目を覚ますと、隣の部屋から小さな物音が聞こえた。

台所の方で、紗妃が何かをしているらしい。


ベッドから起き上がり、乱雑に置かれた服の中から適当に一枚拾って羽織る。


リビングに出ると、コンロの前で紗妃がホットケーキを焼いていた。


「……何してんの?」


「あ、姉さん。朝ごはん作ってるの。ホットケーキミックス、まだ少し残ってたから」


 沙夜はテーブルの椅子に座り、あくびをしながら紗妃の動きを眺める。

紗妃が料理をしている姿を見るのは、久しぶりだった。


「昨日、夢を見たんだ」


フライパンを揺らしながら、紗妃がぽつりと呟く。


「パティシエになって、お店で働いてる夢。すごく楽しくて、ずっとケーキを作ってた……」


 沙夜は、カーテンの隙間から差し込む朝日を見つめる。


「……今からでも、目指せば?」

冗談めかして言うと、紗妃は小さく笑った。


「無理だよ。もう手遅れ」

ホットケーキを皿に乗せながら、紗妃は続ける。


「私たち、"普通"にはなれないもん」


それが現実だった。

どれだけ努力しても、まともな道には戻れない。

否、始めから乗れないのだ。


 沙夜はフォークを取り、ホットケーキを一口食べる。

少し焦げていたけど、甘くて温かかった。


「……うまいじゃん」


「ほんと?」


「うん」


「よかった」


紗妃が微笑む。


 この笑顔を守るためなら、あたしは何でもする。

たとえ、もっと道を踏み外すことになっても——。


沙夜はスマホを手に取り、高岡のメッセージを開いた。


「話、聞かせて」


指が画面を滑る音が、静かな朝に響いた。


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