帰還/ご予定は?
光の粒子となって消滅したはずの自分が、今度は全身に高濃度の魔力を宿しているような錯覚に陥る。
それから四十度を超えるような熱に火照りを感じた直後、遺世界の冒険も全て夢幻だったかのように現実へ追い返される。
腐敗前の魔法死遺体をベッドに置いたままのアパートの一室。カーテンも掛けず外から丸見えの窓の向こうに赤色とオレンジ色が混在している。目付きを悪くしなければ拝めない光度の夕陽があった。
壁に設置されたアナログ時計を確かめると、時刻は十八時を過ぎていた。
ライフトラベルを敢行したのは十五時過ぎだから、あれからおよそ三時間が過ぎたことになる。体感より多くの時間が経っていた。
広くないチョークの円形状、正面に立つカナージェさんに「感覚より長く向こうにいたんですね」などと迂闊な言葉は発せなかった。
クールビューティーでありながらも、その土台が崩れない程度で様々な相貌を見せる彼女の機嫌がすこぶる悪化しているのは明らかで、そんな彼女を気に掛けず現時刻の確認を選んだのは、既に迂闊な判断だったのかもしれない……。
「言いたいことは分かる。私も慌てたところでどうにもならないと思っていたし、それは君が冷酷一色ではない証だろう」
想いは言わずとも伝わり、しかして遠回しな言い分によりまた新たな疑問が生まれる。
奇跡の才女と出会ってまだ数時間。たとえ戦闘面での連携が抜群に良かったとしても、これからもバディである必要のない僕たちが言外の疎通を成立させるには、それぞれの目に映る世界が一つに重なり切れていない。
「はああああ……」
過去最大量の溜め息を吐き、項垂れるカナージェさん。これだけ近いとまつ毛の長さがよく分かる。
「最後のフロアで君が魔法癌と駆けっこをしている最中に確認した。あの時点では私たちが向こうに赴いてから一時間も経っていなかった。だというのに、戻ってきたら三時間も経過していた。これがどういうトリックか、少し推理してみなさい」
一握りの学者のみが袖を通すことを許される、焦げ茶色の外套。その懐から金無垢の懐中時計が取り出される。針は部屋の時計と同じ位置にある。
カナージェさんはまだ不機嫌に眉を歪ませている。別嬪さんな分だけ威圧感は強力で、直視は続かない。
魔法が不可能を可能にする奇跡であるのなら、尚更どういう仕組みかなんて想像もつかない。何でもアリということは、際限なく何でもアリということなのだろうから。
誤りだと分かる札を寸前で避けてきた僕は無意識に曖昧な回答を選択。「えっと……うーん……」と嘘くさくお手上げの合図を発信すると、カナージェさんは諦めて懐中時計を戻した。
「こっちと向こうは全くの別世界だ。時の流れが共通である必要もない。だから、ライフトラベル参加者の中に、現実や体感とは別で、例えばこっちでの一秒が遺世界では十秒なのではないかとか、遺世界の時間について余計な考えを紛れ込ませてしまう者がいると、帰還の際にバグとラグが発生してしまう。心臓の鼓動を共有したバディなのだから、私たちがズレると時間もズレるようになっているんだよ」
説明を受けて、そういうものかぁ、と呑み込めるも、やっぱり魔法もカナージェさんの指導も全く理解には至らない。
僕が不良になり始めていることもどうせ見抜かれていて、それでも弁えようとしない。
転移前、リビゼ先生がカナージェさんに「既に当てられているぞ」と言っていたけど、僕の方こそ相当にやられているのかもしれない。『私』ではなく『僕』としてふざけ、甘えても、何だかんだで見逃してもらえると思っている。
「ルナヤ君」
しかし、彼女の洞察力か、研ぎ澄まされた勘に捕まるのには慣れない。
それが愛情によるものと言えるなら、頼もしい先輩であり素敵な女性だけど、彼女の沸点が度を越えた場合にどうなってしまうのかなどは想像しただけで発汗するため、おふざけはこのへんで止めるのが賢明だろう。
「冒険でも良いと許可したのは私だけどね、それにしても楽しみ過ぎだ。まさかそこまで肝が据わっているとは驚いた。君、やっぱり色々足りてないよ」
「楽しむなんてとんでもない。未知の世界での、未確認生物との死闘だったじゃないですか。実際、いくらか通用はしても打倒までは不可能でしたし、無力を痛感しています」
「ヘラヘラしながらそんな返しができるのがその所以だよ。……もういい。君のことが嫌いになった」
結局幻滅されてしまい、カナージェさんは体重を乗せた迫力の足取りで部屋を後にした。
僕は遺体に一度祈りを捧げて、未だミステリアスなその背中を追った。
回り階段を戻って外に。元凶を根元から断ち、現場を閉じることで魔法死遺体の放つ悪臭がなくなっていることに遅く気付く。
混乱を可能な限り抑えるには、まず僕らが余裕を貫かなくてはならない。
スノーレイ国で魔法殺事件の前例がないのを利用して、駅近アパートの一室で殺人事件が起きたことを世間にはまだ伝えていない。無論、既に『そうではないのか』と噂は広まっているはずだけど、噂は噂止まり。安全度トップレベルは伊達じゃない。
明日朝のニュースまでは今回の殺人事件が真実として報じられないため、悪臭が消えた今となってはリビゼ先生の人払いも意味を失くし、スノーレイ国は(一見すれば)元の平和を取り戻している。コンクリートの建築内を二人で歩いていても、それは感じ取れた。
「もうディナーの時間ですね。いえ、本当に悪いことをしました」
僕は意識しない間にカナージェさんと前後を交代している。さりげなく先を譲ってくれていたのだ。
腹の虫を誤魔化すように、無い罪悪感を認めると、カナージェさんは「おかげ様で酷く疲れた。パフェ食べたい。寝たい」なんて愚痴を言う。
「まずは本部へ同行をお願いします。気になる点がいくつかあるんですよね?それらをカナージェさんから直接伝えてもらえないでしょうか?」
無難に頼むと、あれほど正義感の強かった才女がスタミナ切れのように「嫌だよ」と一蹴。断られるとは思いもしなかったので、今日これまでの体験で最も思考が追いつかなかった。
階段を全て下りて、パトロールカーの運転席、リクライニングシートを倒して待つ鉄マスクの白衣と目が合い、同時に小さく頷く。
それからまだ階段を三段残している彼女に振り返った。
「……え、嫌なんですか?」
「うん。私は報連相を徹底するタイプじゃないからね」
「意外ですね。最後まで協力してくれるものかと思い込んでいました」
「魔法死遺体の処理は済んだんだ。あとはノーマルとなった遺体を安置所へ。アパートの住民は、別に私が気にすることではないね。それに、リビゼ先生が君の側にいるんだから、まずは君がありのままを伝えて、それをリビゼ先生が補足すれば十分な報告になるはずだよ」
四段目に両脚を揃えて「あとは」と腕を組む。エメラルドの瞳は沈む夕陽を見上げながら、その領域を知る者にしか思想し得ない未曽有の危機を案じた。
「リビゼ先生に伝えておきなさい。今回の魔法は『ドラゴンの魔法』だったと。蒐集などできるはずもないってね」
ようやくカナージェさんが残る三段を踏破する。
すれ違い様、突発的に焦燥した。
彼女はまだこれだけ傍にいて、彼女が言ったように、お互いこれから忙しくなるのであれば再会の機会も必ず訪れるだろうに、魔法殺事件と
我儘、言葉にはできず、とにかくまだ終わりにしたくなくて、外套の上からでも分かる彼女の繊細な肩を……。
「うん?」
強く掴んで留まらせる……ことは叶わず。
それでも僕が漏らした「待っ」を聞き逃さなかったカナージェさんに瞳の奥を覗かれる。
美貌により許される不愛想と無表情。
ただし、僕が何をしたいのかを、今回ばかりは先読みできていない様子。
「あの、カナージェさんはこれからどこに?」
弱い。初めて自分の発する声を頼りないと感じた。
「ホテルに泊まるよ。金ならあるから適当に選ぶ」
「それなら手配しますよ」
「いや、いい。せっかくの初スノーレイだから、自分のペースで探したい」
「そうですか……。えっと、ディナーは?」
これは、攻めすぎなのだろうか?自分から異性の予定を追求するなんて性分じゃないし、やってみると結構苦しい。怖い。
彼も彼女も、あの子もあの方も……みんな、こんなにも勇気を振り絞っていたんだなぁ。
「それも適当に探すけど――」
それは「これ以上構わないでほしい」というニュアンスではないと高速で解釈した。赤面の症状も、心臓が異常な速度で揺れ動くこともないけど、またとないタイミングなのだと勘違いしてしまうともう躊躇ってはいられなかった。
「奢りますよ」
振られる未来に怯えながら、それでも彼女といた時間の快適さが忘れられず、手放したくなかった。
「ディナーもパフェも、僕の奢りです。静かで狭い店、賑やかで広い店、いくつも知ってますから、スノーレイでは僕が貴女を案内したい。お願いします」
懸命に平静を装う。
冷たい男だと自分に失望するこれまでだったけど、今回は全くの逆で、どうにか彼女と接してきた態度を思い出し、それが全く思い出されず内心動揺しまくっていた。
これで断られたら、友愛を超える愛情を誰かと育むのは一生無理だと悲観するほどに。
しかし今は、頭も胸も汗をかけるほど温かい。僕の知るスノーレイは、もう変わったのだ。
「どこで待っていればいい?」
呆気なく、またも彼女の微笑みに救われてしまう。
勇気が報われた瞬間だった。生まれて初めて心からの喜びを相貌に表出できていたと思えるレベルの多幸感に蕩けた。
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