メメントモリ

狼月

第1話

 薄暗い明かりが灯る、静かな屋敷。そこで、一人の少女が息を引き取ろうとしていた。

「…はぁ、はぁ」

 呼吸は浅く、弱々しい。耳を澄ませなければ、今にもその音は消えてしまいそうだった。少女の容姿はまだ若々しい。普通に生きていれば、死を目の当たりにすることすら殆どないような、そんなものだった。

「死んでしまうのか」

 そんな彼女に、冷徹に、現実を突きつけるように語る者が居た。

 少女は、そんな彼を見つめる。その者もまた、若い容姿をしている。よく通る、その声の持ち主は青年のような背格好に、それに見合わないやけに大人びた佇まいをしている。

 彼の目に、彼女の死を嘆くような様子は見られない。異常とも思える程に冷めた目をして、只々、彼女の死に際を看取ろうとしている。

「……その、よう…です、ね…」

 少女は、なんとかという様子で言葉を返した。それを聞く彼の様子は、やはり何処か冷めている。「そうか」と、只返すだけである。

 しかし何故だろうか。

 その少女の目には、そんな彼に対する悲しみや憤りを示すような一切が見当たらない。どころか、彼を慈しむようにすら感じる。

「…私は、結局は『人』でなかったのだな」

 目を伏せ、悲しむような素振りを見せる彼は、やはり冷え切っている。どんなに取り繕うと、そこには空虚が広がっているだけである。

 そして彼を見つめる彼女は、やはり彼を慈しんでいる。

「……そんな…ことは、あり、ません。貴方、は。貴方は、人でなし、なんか…では、あり、ません。誰よりも、優しく…誰よりも、美しい。そんな、『人』、です」

 自分の死に際にも関わらず、彼女は必死に言葉を紡ぐ。自身の死を、只冷徹に見つめる彼の為に、文字通り命を削って、そう語る。

 そんな少女を見つめる彼の目が、僅かに揺れる。その時、少女は初めて目を細める。

「…それが、その、証…です」

 冷徹に彼女を見下ろす彼の瞳に、一滴の何かが溢れ出る。

「……なんだ、これは」

 彼は、自分でも何が起こっているのか、分かっていない様子だった。彼の瞳に溢れ出たそれは、一滴の『涙』である。そしてそれは、彼が生涯で流した、初めての涙だった。

「貴方、には…人を思う、心がある。貴方は、人を思い、涙を流せる…優しい『人』、です」

 彼女の声が、消えかかろうとしていた。瞳からは光が失われ、呼吸も、どんどんか細いものになっていく。

 そんな姿に、彼は声を荒らげて泣いた。

「…待て。待て、逝くな。私にこの感情を教えておいて、そんなすぐに逝ってしまわないでくれ。まだ、私はこれを知りたい。お前と、これを紡いでいきたいんだ」

 そこに、先程までの冷徹な彼は居ない。そこに居たのは、少女の死を間近にして嘆く、一人の『人』だった。

「……お願いだ…まだ、もう少しだけで良い。あと、ほんの少しで良い。だから、まだ、まだ逝かないでくれ…」

 人の死とは残酷なもので、死にゆく者と、生き続ける者。そのどちらにも無情な『現実』を突きつける。

 死にゆく者は、これからの『生』を奪われる。

 生き続ける者は、共に歩む筈だった者を奪われる。

 どちらがより辛いかは、計り知れないにせよ、これ以上ない悲しみを、両者に突きつける。

 そして、まもなくその瞬間が、この二人にも訪れようとしていた。

「…お願いだ……」

 つい先程知った感情を、彼はぶつける。どうしようもない現実を受け止められず、それを爆発させ、切に願っている。

 一方の彼女はと言えば、虚な目で、彼のことを見つめ返している。その目には、まだ僅かに宿る光があった。

「…『———』様」

 その時、布が擦れる音に掻き消されそうな程に小さな声で、少女が言葉を発した。聞き逃してしまいそうな小さな呟きを、彼は拾い上げた。

「…っ、なんだ『——』」

 絶対に逃してはなるまいと、彼は耳を少女の口に寄せる。彼女は、その小さくか細い声で、言った。

「……私の、血を…吸って、ください…」

 それは、少女の最後の願いだった。しかし、彼は動揺した。『内容』ではなく、彼女がそれを『願う』ことに。

「…良いのか?」

 時間が無い中、彼は確認するように囁いた。内心では感情がぐるぐると渦巻いている。聞き返したいことなら山ほどある。しかしそれが、今ではないことは彼にも分かった。

「……はい」

 そう答えた彼女は、そのまま眠るように目を閉じた。呼吸も止まり、彼女の声が聞こえてくることはもうなかった。彼の目に、もう涙は流れていなかった。

 一度深呼吸をした彼は、息を引き取った彼女の首元に、その牙を差し込んだ———。

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