神のみぞ知る
森本 晃次
第1話 パンデミックの時代背景
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年4月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。
世の中には、いろいろ、
「悪」
と呼ばれるものがあり、それらの行うものとして、
「悪行」
と呼ばれるものがある。
人間界においては、犯罪と呼ばれるものであり、それら犯罪が、
「すべて悪なのか?」
と聞かれると、どう答えていいのか分からないが、少なくとも、何かに対して悪であることには間違いなく、
「一つの方向からだけ見ていると、見誤ってしまう」
ということが言えるのではないだろうか?
そんな世界というのは、それぞれに、時代というものを持っているのだ。その時代において、違う世界が繰り広げられるが、そこには、
「輪廻転生」
と呼ばれる、概念のようなものがあり、
「善悪」
というものがそれぞれに存在し、バランスが保てているから、世界として存在できているのではないかと思えるのだ。
そんな中で、
「命あるものが、何度も転生し、生まれ変わる」
ということを言っているのだ。
この概念は、人だけに限ったことではなく、あらゆる生物に言えることなのだが、それは、仏教の考え方として考えられているものである。
だから、この世で行った行為により、転生のために準備する、
「あの世」
という世界も、その所業によって、いくつかの世界が存在していて、
「存在する世界をいかに理解し、生前のこの世界でいかに、過ごすか?」
ということが大切だということなのだろう。
だが、この世というのは、生きるのに、それこそ簡単なところではない。要するに、
「思っている通りに生きていくには、何とも難しい世界だ」
と言えるだろう。
「ただ、それは、
「何に対して難しいということなのか?」
という、元々の基準が曖昧なので、その難しい世界という発想も、実に曖昧だといえるのではないだろうか?
だから、
「この世の犯罪はなくなることはなく。戦争なども、なくならないのだ」
と言えるのであった。
その中には、人間としてでは、
「どうしようもない」
という出来事なのか、あるいは、
「その人の心持ち次第によって、考え方一つで、何とでもなる」
と言われるものもあってしかるべきなのかも知れない。
そんな世の中において、後者というのは、あまり考えられることではないだろう。
人間というものは、心持ち次第で何とかなるものを、悪の道に入り込ませるほど、愚かな人は、少ないことだろう。
「ではこの世で犯罪や戦争がなくならないのはなぜなのか?」
ということになるだろう。
そのほとんどということになると、それは、やはり前者のように、
「自分の力ではどうすることもできない社会環境であったり、理不尽さであったりするものが、存在しているからではないか?」
と考えられるからではないだろうか?
実際に、この世で、
「どうすることのできないもの」
として、表現する言葉は、
「理不尽だ」
ということであろう。
この理不尽という言葉を胸に、何とか、この世の理不尽に立ち向かおうとして、どうにもならない壁を感じたその時、どうしても考えてしまうのが犯罪行為であり、
「犯罪行為以外に、自分を救う道はない」
と考えてしまうのだろう。
そして、
「犯罪行為を犯して、捕まってしまえば、ある程度の情状酌量の余地はあるかも知れないが、今よりも救われるということはないだろう」
と感じるのだ。
犯罪行為を考えた時、
「捕まってしまえば、元も子もない」
と考える。
そもそも、そんな理不尽な世の中に、
「喧嘩を売ろう」
というのだから、捕まってしまって、罪に問われることになってしまうというのは、
「実に本末転倒なことだ」
ということになるのではないだろうか?
そんな喧嘩を売るにしても、自分が捕まってしまうわけにはいかない。そのあたりを考えながら計画を練る。
「捕まってしまうくらいなら、犯罪を犯すというのは、リスクの多いことだ」
と言えるだろう。
しかし、
「それでも犯さなければならない犯罪行為」
本人が、その道しか、
「この世での自分の居場所は残っていない」
ということになるのであろう。
今の世の中というのは、
「犯罪が起こりやすい」
という時代に突入している。
世の中において、
「世間の治安が一番不安定」
と言ってもいい時代に突入していることは、誰の目にも明らかとなっているのだ。
というのも、数年前から、
「世界的なパンデミック」
と呼ばれる、伝染病が世界に蔓延っていて、ほとんどの国が、ほぼ鎖国状態という状況であった。
流行り出して最初の頃などは、
「伝染病の流行なのに、マスクが不足している」
ということであった。
そういう状況に付け込んで、
「転売ヤー」
などと呼ばれる、
「悪しき集団」
が、買い占めを行い、不足したところで、足元を見るかのように、高価で売りに出るというやり方をするものだから、余計に、品不足ということになるのであった。
さすがに政府も黙ってはいられなくなり、
「転売防止法」
のような法律を造り、何とか、悪質な転売は減ってきたが。世の中のマスク不足というのは、そんな生易しいものではなかった。
そもそも、何か、
「有事」
というものが起こった時には、
「スーパーの棚から、缶詰などの保存食が一気に消えてしまう」
などという状況が普通に起こっているのだから、転売ヤーでなくとも、マスクを買い占めるという人が増えたとしても、それは仕方のないことだろう。
実際に、店舗も計画として、
「一人一箱まで」
というやり方をしても、絶対生産数が追いついてこないのだから、どうしようもないだろう。
そもそも、生産数は、最後にある程度売り切ってしまいながら、売り切れのないようなものに均衡を保つということが基本であろう。
それを考えると、昨年、売れ残ったものは、若干数、ストックとして倉庫に眠っていたであろうことから、
「何もなければ、それで賄えるはずだ」
ということだったのだろう。
しかし、まさかのパンデミック。その需要は、相当な数となったことで、たぶん、当初から、
「マスク不足」
ということは、想像がついていたに違いない。
だから、転売ヤーというものをいくら抑えたとしても、そこは、
「寝耳に水」
ということで、不足するということは、誰の目にも見ても明らかだったといえるのではないだろうか?
ただ、
「マスク不足」
というのが、ここまで深刻化すると、
「誰かに責任を負わさなければ、収拾がつかない」
ということで、
「その責任転嫁を、転売ヤーに求める」
ということで、ある意味、転売ヤーというのは、その存在意義を、
「恨みを一身に受けてもらう」
という見せしめとしての役割として、いわゆる、
「必要悪」
のような存在なのかも知れない。
さらに、パンデミックの時期になって当初というのは、
「その正体がまったく分からないもの」
ということもあり、
「とにかく、陽性となれば、すべてを隔離し、触ったもののアルコール消毒。そして、濃厚接触者も検査を行い、陰性であっても、少しの間は、隔離状態にする」
と言った、今から思えば、信じられないというほどの対策を取っていたものであった。
もちろん、諸外国に対しては、
「鎖国状態」
であり、必要以上に過剰な対策を打つしかなかった頃だったのだ。
世界各国では、
「都市封鎖」
と呼ばれるものが行われ、市民から権利が失われたという状態であった。
日本の場合は、
「大日本帝国」
の時代に存在した、
「戒厳令」
というものがそれであった。
「災害や有事の際に、その治安を守るという目的で、司令部が置かれ、司令部の全責任において、市民の権利を一定数抑え、治安の悪化を防ぐ対策がほどこされた」
というものであった。
かつて、大日本帝国が存在した、
「明治、大正、昭和」
と呼ばれた時代、それぞれに一度ずつ、戒厳令と呼ばれるものが存在した。
まず最初の明治時代には、日露戦争の講和条約において、勝利国であるにも関わらず、戦争賠償金を取れなかったことに激怒した民衆が起こした、
「日比谷公会堂焼き討ち」
というのが、最初だったのだ。
これが、明治期の戒厳令であった。
さらに、今度は大正時代であった。
この時代は短かったので、
「大正時代に、戒厳令は存在しないのでは?」
と思われたが、大正時代の晩成期に起こった事柄というのが、要因の一つである、
「災害」
だったのだ。
これは、未曽有の大災害だと十分に言えるものえ、それが、
「関東大震災」
だったのだ。
世の中において、災害と有事。どちらも多いのだろうが、
「避けることのできない」
という意味で、関東大震災は、
「未曽有の大災害だ」
と言ってもいいだろう。
帝都や横浜などは、そのほとんどが焼け落ちたり、地震にて崩壊したというものであった。
それこそ、治安が乱れ、情報が錯綜し、デマがボロボロと出ていたことだろう。
「朝鮮人虐殺事件」
などというものが起こったのも、関東大震災によっての、デマが原因の悲劇だったといってもいいだろう。
そして、昭和であるが、こちらは、有事と言えばいいのか、日本陸軍における、
「軍事クーデター」
ということであった。
いわゆる、
「二二六事件」
と言われるものであった。
しかし、その内情は、
「陸軍内部の権力闘争」
が、決起に繋がったと言われている通り、そのことが分かっているからなのか、天皇陛下はお怒りになり、
「自らが兵を組織して、鎮圧する」
とまでいうようになったのだった。
それが、昭和における戒厳令で、
「大日本帝国最後の戒厳令」
ということだったのだ。
ただ、それが、
「大東亜戦争による敗戦」
ということで、日本は戦勝国である、連合国によって、それまでの、
「立憲君主国」
から、
「民主主義国家」
に生まれ変わることになったのだ。
その大きなターニングポイントが、
「極東国際軍事裁判」
であり、もう一つが、
「日本国憲法の公布」
だったのだ。
日本国憲法というのは、大きく3つの柱があった。
「国民主権」
「基本的人権の尊重」
「平和憲法」
ということであった。
3つ目の平和憲法という観念から、
「有事というものはなくなり、戒厳令というものは、存在しない」
ということになったのだ。
しかも、
「基本的人権の尊重」
というものがあるため、こちらの方が強くのしかかってくるので、戒厳令で言われると事の、
「治安を守る」
という意味で、今までは、市民の一定の権利を制限することができたのだが、民主国家になると、
「権利の束縛はできない」
ということになるのだ。
しかも、有事というのが存在しないということで、他国で行われている、
「都市封鎖:
と言われる、
「ロックダウン」
というものはできないのだ。
他の国では、それらの奇声を破れば、犯罪行為と同じく、懲役や、罰金の対象になるということで、
「治安や生命を守る」
という意味で、権利の一部の制限は、致し方ないということだろう。
日本においても、
「治安や命」
というのは、当然のごとく最優先事項であるということは、当然の理屈なのだが、
「基本的人権」
というものが、尊重されている以上、都市封鎖であれば、
「命令」
というものであるはずのものが、日本における、いわゆる、
「緊急事態宣言下」
では、命令ではなく、
「要請でしかない」
ということになるのだ。
それは、実際にどちらが正しいということではないので、賛否両論大きな問題であるが、どちらの意見も、
「国を憂いて」
ということなので、どちらも無視できないものだといえるのではないだろうか?
何を優先すべきかということで、
「実際にはバランスが取れていることが大切だ」
ということになるのではないだろうか?
そんな時代において、パンデミック初期には、前述のように、
「正体について何も分かっていない」
ということで、とりあえず取れる対策としての、
「緊急事態宣言」
という、
「人流抑制政策」
を取るしかなかったのだ。
この政策は、街としての機能を、鉄道、電気、水道、ガス、さらには、病院、薬局、コンビニなどの、
「最低限の生活に必要なインフラ」
という意味のものを止めないようにするというだけで、それ以外は、基本的に止めるというものであった。
したがって、会社への出社も、学校への通学もないので、朝の通勤ラッシュ時は、ほとんど閑散として電車内であり、街中や地下街などは、ほとんどの店が閉まっているので、それこそ、早朝の始発電車が走り出した時間帯の街の様子が、一日中続いているような感じであった。
そうなると、都市機能がマヒしてしまい、商売が成り立たない。経済が停滞し、倒産する会社が増え、それによって、
「伝染病による死」
とは違う意味での、
「死」
というものが蔓延ってくるという問題が、間近に迫っているのだった。
ただ、今のまま伝染病が蔓延ってくると、問題になるのは、
「医療崩壊」
であった。
一定の医療機関に患者が集中し、さらに、受け入れ病院が賄えないほどに、患者が急激に増えることで、
「受け入れ病院が見つからず、救急車の中で、死を迎える」
という人が、後を絶たないという、地獄のような時期が次第にせまってきていたのだ。
そんな時代が実際に起こってくると、さすがに、再度、緊急事態宣言をしないといけない状況になり、そのせいで世の中がまとまらなくなってくるのも事実だった。
政府が打つ政策は、実にひどいもので、
「本来なら、国民の命を最優先に考えなければいけないものを、口では、国民の命を最優先と言っておきながら、結局は、自分たちの利権を最優先にするのだから、政府の言っていることに、手放しで賛成などできるはずもない」
ということであった。
特にオリンピックがあった年などは、国民のほとんどが、
「反対」
と言っているのに、政府の方は、
「大丈夫だ」
という、
「言葉に何の重みも根拠もないそんな状態」
において、政府の言っていることのどこに、信憑性があるというのか、考えなければいけないところであろう。
さすがに、そんな政府は、時期総裁選に、党内で指示を得られず、出馬すらできなかったということになるのだ。
と言って、総裁になった男が、さらに輪をかけてひどい政策ばかりを打ち出しているので、
「まだ、前のソーリの方がよかったのではないか?」
と言われるが、
「その通りだ」
ということなのかも知れない。
「こんな時代において、国家をいかに建て直すか?」
ということであろうが、政府云々というよりも、世界情勢がそれどころではなくなったので、下手をすれば、
「ソーリなど、誰がなっても、結局は一緒だ」
ということになるのかも知れない。
それを思うと、
「本当は、とにかく今困っている人をいかに救うか?」
ということなのだろうが、政府は、結局、人気取りしか考えていないので、結果、
「誰を助けるべきなのか?」
ということを、政府が分かっていないということにしかならないのだろう。
そんな時代なので、国や政府も救ってはくれない。
「だからこそ、自分のことは自分で救うべく、犯罪が起こる」
ということなのであろう。
特に、
「緊急事態宣言中」
というものは、何もできない。
店を開けることもできないので、飲み屋などが集まっているあたりの、歓楽街は、夜になると、閑散としている。
しかも、雑居ビルが乱立する中に、数軒の飲み屋があるのだから、警備体制も、中途半端だったりする。
そのため、緊急事態宣言中の閑散としたところには、空き巣が忍び込み放題という状況になったりする。
ただ、お金は店主が持ち帰っていて、誰もいないところに置いておいたりはしないだろうが、そんなことはわかっていても、それでも。お金が欲しくて忍び込むということであろう。
それだけ、世の中は物騒であり、少しでも、お金がほしいという人が、切羽詰まった状態で忍び込むということになるのであろう。
さすがに、二年も三年も、こんな状態が続いていると、どんどん、お店は潰れていく。従業員も皆路頭に迷ってしまい、犯罪に手を伸ばす人も増えてくるだろう。
今回、ここに、四人の男がいるが、彼らは、実際にそんなに仲がいい間柄というわけではない。
SNSの中で、
「失業して困っている人向けの掲示板」
のようなものが開設されていたが、そこで知り合った人たちだという。
つまりは、このパンデミック禍において、それぞれに困っている者同士が、話をしているうちにできた仲間だということだ。
その中で、本当に困っているという人もいて、
「もう、強盗でも何でもやらないと、どうしようもない」
という人がいた。
話を聴いていると、
「確かに、強盗でも何でもやらないと、自分の身が危ない」
と言えるほどの人で、それを聴いた皆も、それぞれに、切羽詰まったところがあるのだった。
そうなると、
「このまま、放っておいても、いい方に向いてくるということはない」
ということで、一番困っている男。
「真田」
というのだが、この男が言い出したこととして、
「強盗を企んでいる」
ということであった。
その計画は、すでに真田にはできあがっていて、後は、参加人数によって、どのような計画で行くかということを、再確認すればいいところまで来ていたのだった。
実際の計画を真田が立てたわけだが、他の三人も、その計画に、何ら怪しむところはなく、
「なるほど、よく考えられた計画だ」
ということだったのだ。
四人は、計画通りに手筈を整え、犯行を犯して、潜伏の場所に異を寄せるところまではできていた。
その場所というのが、
「警察も想像できないような田舎」
と言ってもいいだろう。
四人の犯行後の逃走計画も、うまくできていて、順次、計画通りに進んでいたので、うまく潜伏するところまで来ることができたのだった。
男たちの計画通り、金を奪い、潜伏できた。まずは、
「ほとぼりが冷めるまで、見つかることなく潜伏する」
ということだったのだ。
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