絶対音幹
「もにもに」
矢野しずく
「おーい、柏木!ちょっと」
ここは都内某所、とある出版社の事務所だ。周りもチラホラと、お腹が空き始めるであろう午前11時過ぎ。私は朝食を牛乳だけで済ませたが為の空腹と戦いつつも、割と高出力で振られた書類を作成し捌いていた。その時先述のように「どデカい声」で名字を呼ばれ、ふと目線を上げる。すると私のデスクから一番遠い場所に座る人物がこちらを見ながら「こっちへ来い」の顔とジェスチャーをしていた。
「柏木ーぃ。実は今とっておきの取材の話があるんだが…。それをお前に担当してほしいんだよ。矢野しずくって言う女性ピアニスト。前からオファーを出していたんだが、ようやく取材出来る事になったんだ…」
嬉しいのか悪巧みなのか、表裏一体分からないくらいのニヤケっぷりだ。その笑いには若干の不気味さを伴う。
「その取材をウチの期待の星であるお前に託そうと思ってるんだが…どうだ、悪い話じゃないだろう。てなわけで頼むよ!ホープ!」
そう私に宣言すると彼は「ガーッハッハッ!」としか表せられない様な、豪快かつ少し下品な笑い声を響かせながら立ち上がった。そのまま出入り口横にある、自動販売機に括られているゴミ箱に飲んでいた缶コーヒーを捨て、ついには会社を出て行ってしまった。周りの記者仲間が「やれやれ」という薄ら笑いを浮かべながら、自分の仕事をこなしている。
私の名前は柏木小音。大卒1年目の駆け出し記者…とでも言っておこう。特にやりたいことがなかった私は就活という自分探しの結果ココ、集報社に流れ着いた。
大学の仲の良い友人は商社や銀行に入り、ある意味で世間的成功へ進む「王道組」と、やりたい事に特化して就職せず、自らを磨く組とに大きく分かれていた。だが、私はそのどちらにもならなかった。どちらに進むにせよ、やる気と覚悟が足りなかったのである。先述したが、やりたい事も将来の明確なビジョンも無かったので、就活を「自分探し」という風に強引に位置付け、必死に自分の好きな事との接点がある職業を探した。その結果、出版社に就職するという答えにたどり着き現在に至る。その答えの真相も友人によく「ミーハー」と言われる→ゴシップ関係ならやる気が出るかもしれない、というフワフワしたものであった。
そんな私がなぜかホープ扱いされているココは集報社。美容院などに置いてある幾つかの雑誌の中に高確率で存在するファッション雑誌や、ネットの〇〇マガジンなどで目にする「特化型」の雑誌などを手掛けている出版社だ。
入社から約2ヶ月。私は上司や来客にお茶を出すタイミングが絶妙だ!という理由だけで何故だが「有望視」されていた。ただ柏木小音が元来持ち合わせている「ポンコツさ」について、ココの人たちはまだ知る由もない。期待が高まってからの急落が流石に怖くて、何とかそれを出さないように気を張りまくって過ごしていた最中の6月某日。部長から先程の仕事の報を受ける。
私は小さい頃から目立つのが好きではない性格だ。なので上司からホープ扱いされ、先輩からあまり面白く思われないポジションというのは元来好ましくはない。だが先ほどの取材の話で言えば、こういう経験も悪くないと思える自分も少なからず存在していて、ちょこっとばかり大人になった気がした。更に言えば、ここまでの人生で色々と「平坦」に染まっていた自分に多少なりともコンプレックスを感じていたが故、自分自身の些細な気持ちの変化を感じれて嬉しかったし、モチベーションが上がるのを自ら感じて、背筋が少し伸びた気もする。
その日の帰宅後、先ず「矢野しずく」という人物について、私は色々と調べ始めた。その後、彼女が自分の人生と考え方を何もかも変える存在になるとは知らずに。
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